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9 悪魔のスケジュール2

 悠人は滅多に使うことのない携帯電話を取り出した。  登録していた番号にかける。 『ん……どうした悠人』 「兄さん寝ていた? 起こしてごめんね。申し訳ないんだけど、僕が中学の時に使ってたテキストを持ってきてもらってもいい?」 『……どれだ? お前のだと英検の問題集か? それとも漢検一級か?』 「違う、中学二年と三年の」 『あの頃、お前何の勉強してたんだ? ああ思い出した、高三英数か』 「……ごめん、僕の言い方が悪かったよ。中学二年の英数国と中学三年の英数国の問題集が欲しいんだ」 『今頃なんでそんなのがいるんだ? ……あ、あった』  律儀な秀人は悠人が勉強に使った物すべてを時系列に沿って置いてくれているようだ。 「できれば仕事の前に届けてくれると嬉しいんだけど」 『……もしかしてあの手のかかるガキのためか?』  苦笑してしまう。秀人は中西が嫌いなようだ。悠人の大事な時間を奪う存在として敵認定している。彼の勉強のために時間を費やすくらいなら身体を治すために、治った後の大学進学のための勉強に充てて欲しいようだ。 「ごめんね。ちょっと目標ができたからさ」 『目標?』 「うん、詳しくは来たときに話すよ」  電話だってタダじゃない。話せばそれだけ秀人の負担になる。なるべく架けないようにしているのはそのためだ。けれど、なんとか今度の中間までに高校一年を終わらせれば、要領の良い中西のことだ、なんとか平均点は取れるようになるだろう。そこまで押し上げなければ。  自分がどうやって勉強したのかすら忘れてしまったので、当時のテキストを目にすれば思い出すかもしれない。 (中学の勉強って小学校にしてたんだよな、そういえば)  勉強ばかりしていたのがよく分かる。頭が良くなれば人はなぜ悪意を抱くのか、なぜ裏切るのかを知れると思った。けれど分かったのは、頭がどれだけ良くなったって、相手の真意は測れないということだ。  電話を終えた悠人はいつものように秀人が借りてくれた本を読んで時間を潰す。気のせいではなく本が重く感じる。絶対に筋力が下がっている。ハードカバーの本が手に辛い。  入院して二ヶ月、思った以上に筋力が落ちているようだ。しばらく通学で鍛えた身体は一般的な高校生に比べて脆弱だ。重い鞄を持って必死に電車を乗り継いで、自分では結構逞しくなったつもりだったが、中西の身体と比べれば細すぎだ。 「もう少し運動した方が良いのかな……散歩とか?」  車椅子を止めた方が良いのだろうか。けれどもう、一人で立つのは無理だろう。数歩動くだけで息が上がってしまう。心臓にあまり負担をかけないようにしなければ、不安定な血圧と脈拍がどうなるかわかったものではない。 「ま、いっか。冬までどうにか持てば」  中西のできを見届けば役目はきっと終わる。  自分の命を諦観している悠人は、それまでは発作を起こさずにじっとしていようと決める。いつ起こるかも分からない発作、それでも方程式は存在する。感情の起伏をさせず、無理なことはせず規則正しい生活をしていれば、しばらくは大丈夫なのは経験則で把握している。  夕方になる少し前に秀人がやってきた。紙袋いっぱいのテキストや問題集が自分とは違う大きな手に食い込んでいる。 「兄さんごめんね、重かったよね」 「気にするな。それよりなんだ、目標って」  どさりと紙袋をテーブルに置くのを見てから、今日あった出来事を簡単にまとめて話した。途端に秀人の顔が歪む。 「なんだそいつら……学校にクレームを入れてやる!」 「多分、杉山医師がもうしてると思うよ。OBとして恥ずかしいって言っていたから。徹底的に追い詰めるために、中西に頑張ってもらおうと思ってね」 「……それはどういうことだ?」 「うん、多分部活を辞めさせずに、厳重注意で終わると思う、今回は。ただこの件で競技の成績が振るわなくなるのは目に見えてるからね。特待枠を解除されたときに、すでに特待枠から外れた中西が当たり前のように良い成績を収めてたらショックが大きいでしょ。中西はできるのにできない自分達とのギャップに苦しませようと思って」 「相変わらず物理的じゃなくて精神的に追い込むな、お前は……」 「兄さんの弟だからね」  軽口で返すが、本当はあの男の血が脈々と流れていると思われているだろう。平気で人を追い込んで裏切れる人間の血が。  どこまでも追い込んで逃げ道すらも塞いで、士気も自己評価も下げてしまう悠人のやり方に、けれど秀人は異を唱えることはしなかった。黒い悠人の髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。 「あんまり無理はするな」 「平気だよ。無理をするのは僕じゃなくて中西だから」 「まぁそうだな。だがお前のことだ、その準備だとかで無茶するから、辛くなったら俺に言え。高校の問題を教えるくらいなら俺だってできる」 「うん、ありがとう」  秀人だって同じ高校のOBだ。元々優秀すぎるほど優秀な成績を収めていた。彼が高三の時に悠人が二度目の大きな手術を受けたから、大学進学を諦めたのだ。医療費が家計の負担になっているのは知っている。小児医療助成制度があっても、手術のたびにそれをはみ出る分が生じるし、高校生になれば助成がなくなりもっとかかってしまう。  普段の生活を切り詰め、すべて悠人の治療に充てようとする家族に感謝しながら、あと少しだけ甘えさせて欲しいとこっそり心で願う。  多分今回の入院で、もうおしまいだ。家に戻ることはないだろう。  そのつもりで入院しているし、そうなりたいと願っている。  快癒ではなく別の方法で病院を出ようと。  悠人に似た女顔を隠すために伸ばした髭に隠れた顔がにやりと笑う。 「内容は何でも言いが、目標ができたのは良いことだ。あの野郎を寝る間もなく鍛えてやれ」 「さすがに寝ないと覚えられないよ。詰め込みはさせるけどね。重いのに持ってきてくれて本当にありがとう、兄さん」  短い見舞い時間であっても、秀人の顔を見るのはやはり嬉しい。時間を見つけては来てくれるが、それでも仕事が忙しいので毎日来るのが無理なのは仕方ない。  これから明日の朝方まで仕事がある秀人はチラリと時計に目をやった。 「悪いな、今度ゆっくり話を聞かせてくれ。あとこれからそんなことがあったらすぐに連絡をくれ。兄ちゃんがすぐに言うからな」 「うん、ありがとう」  だが秀人も分かっているだろう、悠人は絶対に自分でどうにかしようとすることを。ごめんねと心の中で謝りながら手を振る。 「兄さん、お仕事いってらっしゃい」 「ああ、行ってくる」  白い病室から出て行く背中を見送るのはこれで何度目か。そして、あと何度見送れるだろうか。毎回そんなことを考えてしまう。早く死ななきゃと思い始めて、結局生かされてしまうのだ。  生まれる前に死んでしまえば良かったはずの子供が、たまたま良い医師に巡り会えて何度か生き延びさせてもらった。もう充分だろう。そう思いながら毎日を過ごせば、心と一緒に身体までがどんどん弱まっていく。  車椅子に乗り続けていたから、最近めっきりと細くなった足ではもう、歩けないだろう。ベッドへと移動するだけで全力を使わなければならなくなってきた。もう自力では立てない。それをそっと隠すように、なるべく声を出さないようにする。  少しでも苦労しているところを誰かに見られたら、すぐに杉山の耳に届く。  あの人は、味方で、敵だ。  自分を生かす敵。  けれど、中西のためにあと少しは頑張ろうという気持ちになる。  なぜかなんて分からない。  ただまっすぐな彼の姿勢は、どうしてか応援したい気持ちにさせられる。 「不思議だよな」  今日だって顔見知りでもない人間に当たり前のように褒められていた。子供にするように頭をくしゃくしゃに撫でられて。彼の人間性だろう。 (大型犬みたいだもんな)  普段は相手に敵愾心を持たせない、ラブラドール・レトリバーのような雰囲気がある。いつも笑っているように見える顔、けれど警察犬にもなるほど身体能力が高い。頭の中で浮かべたラブラドール・レトリバーの顔が中西へと変わっていく。 「あいつ、犬だよな本当に」  自分に害をなさない者にはどこまでも嬉しそうに尻尾を振り、少しでも敵意のある者には牙をむく。まさに犬そのものだ。  そう思うと、同級生なのに妙に可愛く感じる。自分よりもずっと大きな身体をしながら、嬉しそうに尻尾を振って近づいてきては、怒られるたびに股の間に尻尾をしまい悲しそうな目でこちらを見てくる。その表情が本当に哀れで、つい絆されてしまう。  頭を撫でてやりたくなるのだろう、普通の人なら。そう、彼を慰めていた大学ラグビーの選手のようなあの大きな人も。 「あいつは甘やかしたらすぐに調子乗るからダメだ。もっとしつけないと」  少なくとも二学期の期末で平均点が取れるくらいには、厳しくしつけなければと、昔使った問題集を開いた。  中学二年と三年、基礎さえしっかりしていれば公式を覚えるだけだ。難しいものなんて何もない。パラパラ止め繰り返しても、苦労した箇所など思いつかない。 「うん、まずはとにかく公式を覚えさせるのが先決だな。それから三日間問題だけを解かせば数学はどうにかなるか」  自分のペースでどんどんと学習プログラムを組んでいく。  そこでふと気になった。 「そういえばあいつ、国語は何も言ってこないな」  漢文や古文には苦労しているが、現代国語に関してだけは何も質問がない。漢字も結構知っているし、文節や助詞などといった単語は英語ではパニックになるが、国語だとよく理解していた。 「国語ができて何で英語ができないんだ?」  同じ、人が使う言葉だ。若干順番が異なるだけで、単語以外なにも変わらないのにと不思議でならない。 「変なやつ」  本当に変なやつだ。アンバランスで危ういのに、妙にしっかりしてるところもある。掴み所がないとしかいえない。 「まぁいっか。面倒を見るのが一教科でも少ない方が助かる」  さすがに古文や漢文はそうはいかないようだから、そのフォローだけを徹底させれば良い。  悠人はスケジュールをノートに書き出し、数度見直して「よし」と頷いた。  それを後で見た看護師の市川が「塾の合宿より酷い」と呟いたが、悠人は気にもとめなかった。

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