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10 君を想って滾る半身1

「えっと……井ノ上様、本当にこれやらなきゃダメですか?」 「当たり前だろ、あいつらを見返すのにお前の学力は低すぎる。もっとペースアップしないと次の期末で平均点すら取れないぞ」 「……そうですが、でもこれ……あの」 「中学一年が終わったんだ。あとは応用と公式覚えるだけだ、難しくない」  嘘だ、絶対に嘘だ。  ここに来る前に気を鎮めるために中二の数学の教科書をめくったが全く意味不明な数字ばかりが並んでいるようにしか思えない。国外の言語だ、あれは。数字なんて全く認識できなかったと叫びたいが、青ざめた顔に見合った冷たくなった手は、フルフルと『学習スケジュール』と記載された紙を手にしたまま震えている。  悠人に向ける感情の意味を知って、これからどんな顔をして会えば良いのだろうかと思い悩んでいた時間など無駄でしかなかった。いつもの綺麗な凜とした顔がそこにあっても、ちっとも下半身は変化しない。むしろ全身が縮こまって血の気がどんどんと引いていく。  とてもじゃないができるスケジュールではない。  なにせたった二週間で中学二年数学の勉強を終わらせようとしているのだ、無理に決まっている。 「あの……本当に二週間で中学二年の数学って終わるんでしょうか」  スケジュールを見せられてから敬語しか出てこない。タメ口など冗談でも零せる雰囲気ではない。 「僕は冗談は嫌いだ。できないことをやらせようというつもりはない。少なくとも僕ができると思ってるから」 「……そうですか」  それは勉強ができる人の考えたことだ。少しもこちらの知能レベルに合ってない。 「安心しろ。ちゃんとこれから始まるリハビリの時間も考慮してある」 「さようでございますか……」  これでかよ! と突っ込みたいのをぐっと堪えながら涙目になる。 「時間がない。すぐに取りかかるよ。まずは……」  反論は許されない、らしい。中西はエグエグと泣き出しそうになるのをぐっと喉の奥に押さえ込んで、シャープペンシルを手にして、言われたことを必死でノートに書き込んでいく。もう教科書を使うことはせず、まるっと公式は公式、図形は図形として全部教えるのだという。 「お前はとにかく覚えろ。全部一日で覚えろ」 「はい……わかりましたぁ」  ドキドキする暇なんてない。ちらりとその顔を見る時間もない。今日気づいたばかりの感情が、可哀想なまでに置いてけぼりにされているというのに、中西は悠人を嫌いにはなれない。目標が元チームメイトを見返すためだと口にするが、これ以上中西が馬鹿にされないようにするためとしか捉えることができない。 (やっぱ、井ノ上ってめちゃくちゃ優しいな……やり方きついけど!)  容赦がない。 「あの……学年末テストじゃダメですか?」 「ダメ、遅すぎる。大事なのはインパクトだ。最下位競争してたやつが退院して初めての期末テストで今までない点数を叩き出さなければ意味がない」 「そうですか……」  拒否権は存在しない。いや、それ以前にない。  だって、こうして悠人が積極的になってくれているのだ。その理由があの気に食わない奴らのせいだとしても一歩近づけたような気がする。  高嶺の花が自分からこちらに微笑んでくれたような心持ちになってしまうのは、ずっと彼に向かっている気持ちに別の感情が存在するのだと知ったからだろうか。 (いや、もしかしたら俺、初めて井ノ上に会ったときから好きになってたかも知れないからな)  でなければ男相手に憧れのマドンナに重ねたりなんかしない。  悠人が口にする公式を必死でノートに書き込んでいく。 「これの解き方は……」  珍しく悠人が顔をノートに近づけてきた。 (うわっ、めっちゃちか! ……井ノ上ってまつげ長い……) 「おい、聞いてるのか?」 「すみません、聞きます!」 「連立方程式の加減法を覚えればxが1だとわかるだろ」 「あ? ……えっと、5x-3xが2xで……あ、そうか。2x=2だからxが1じゃないと掛け算が成立しないのか」 「そういうことだ。じゃあxが1だと分かったら自動的にyが出てくるな」 「……本当だ」  xやyが付くと拒絶反応が出てしまうが、前の数字と掛けていくつになるかを知ればそんなに難しくない。 「じゃあ次は確率だ」 「え、ちょっと待って。つぎはかくりつっと」  言われたことをそのままノートに書き留めていく。たった一時間、ただ机に座って頭を働かせるだけなのに、終わったころには脳が乳酸で充満してしまったかのように、パンパンに張ってるような気になる。 「今日はここまでにするけど、明日の十時までにこの問題集の折ったところを終わらせておけ」 「はい……って、めっちゃページある!」 「大丈夫だ、一問一分で終わらせれば一時間もいらないだろ」  それ以前に一分で終わらせられません!  思っても口にはできない。悠人に「できないヤツ」レッテルを貼られないために泣く泣く頷いた。死ぬ気でやるしかない。それだって学年で上位という目標ではなく、平均点を取るのが目標なのだ……。  だが自分達が通っているのは進学校だと言うことを悠人は理解しているのだろうか。普通の高校とは違って問題もハイレベルで、しかもまだ中学二年をやり始めたばかりだ。とても平均点が取れるような気がしないのはなぜだろう。 「……お前ならできる」 「井ノ上……っ!」  珍しく悠人がポンと中西の肩を叩いた。それだけで胸がトクンと跳ね上がる。 (井ノ上が俺に触ってる、井ノ上が、いのうえが、イノウエガ!!)  詰め込んだはずの公式が全部ぶっ飛ぶほど頭の中が悠人の、滅多に見せてくれない笑顔でいっぱいになる。それだけパアッと身体中が幸福感に満ちていく。凄い破壊力だが、もしかしたらちゃんと課題をクリアしたらこんな笑顔を向けてくれるのだろうか。  だったらやる! 死ぬ気でやり抜くと心が盛大に声を張り上げる。 「俺、頑張るから!」 「ああ頑張れ。死んでもいいから頑張れ」 「うん、分かった!」 「あと、夜の病院だ。少しは静かにしろ」 「はい!」  全く静かにしようという気配を見せないのに苦笑する顔すら可愛く見える。  餌を目の前にぶら下げられた犬のように見えない尻尾をブンブンに振り回し、気持ち前のめりになる。 「よし、明日のいつもの時間にまたここでな。分からないところがあればいつでも来い」 「はい!」  部屋に自由に入る許可を悠人から出してくれたことすら嬉しくて、尻尾を振る速度が上がるのに、中西自身は気づいていない。 「リハビリはいつから始まるんだ?」 「来週からって言われてる。初めは歩行練習でバーを掴みながら往復って言ってたかな?」  手術をした足が随分と細くなったのを見てびっくりしたが、リハビリを続けていけばまた筋肉がついて普通に歩けるようになると言われ、ほんの少し悲しい気持ちになったのは内緒だ。それは退院が近いことを意味していた。新学期が始まる前には退院しようと言ってくれた主治医の言葉は中西のことを思ってだろうが、ちっとも嬉しくないのが本音だ。  少しでも入院が長引き悠人との時間が増えることを願っている。 (やっぱ井ノ上の側にいたいし……)  そしてこうして「頑張れ」と言って貰うだけでどこまでも元気が湧き溢れてしまう。 (俺って本当に井ノ上のことが……ああいう意味で好きなのかな?)

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