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10 君を想って滾る半身2
自分が持ってきた大量の問題集を片付ける表情のない顔の美しさに惹き付けられて目が離せなくなる。クラスメイトや部活の女子と比べて、男の顔であることには変わりないのに、最初の印象がマドンナに重ねたのがいけないのかとじっくりと分析する。男にしては整った顔であるが、女性的とは言いがたい。ただどこまでも凜として清廉という言葉がよく似合う。穢れがない、とでも言うべきなのか。本当にまっさらな雪のような印象だ。
マドンナにも同じ印象を抱いたのだ。
ひたすら真っ白な雪だけの世界を見つめているような、誰からも汚されていない美しくも他者(ひと)を寄せ付けない冷たさが存在する。それが二人の共通点だ。
きっとそれを孤高というのだろう。
穢すのではなく、ひたすらその美しさと強さを守りたいと思わせるのだ。ほんの少しでも足跡を残してしまえば、きっと次から次へと汚されてる世界を、自分だけが守り通したい、そんな気持ちにさせる。
とても尊く清らかなのだ。
(ああ、俺って井ノ上の顔もだけど、雰囲気が好きなんだ)
そんな美しい世界に入り込むことを、自分にだけ許して欲しいと感じているのだろう。神秘的な空間にただ一人だけ入ることができるなら、きっとどんなものでも投げ打ってしまいそうだ。
これは憧れと何が違うのだろう。
マドンナは物語の登場人物で、自分が理想とした女性像だ。こんな人が本当にいたら絶対に好きになってしまう、ドキドキしてしまう、と。
悠人は理想とした『女性』ではない。
きちんとした男で、性格はとにかく冷静沈着で超然としていて冷徹で、自分のテリトリーに頑として立ち入らせない頑固さがある。滅多に表情を変えないし、何を考えているのかも分からないが、そのミステリアスさに触れたくなるのだ。
立ち入らせないのなら強引にでも見て欲しくなる、そんな欲を掻き立てられる。なのに穢してはいけない。酷く脆い印象があるのはなぜだろうか。
(いつも病院服を着てるからかな?)
誰とも一線を引いた距離を保っているせいかもしれない。不器用に自分を守っているように映るのだ。
「井ノ上って、なんかいつも寂しそうな顔してるの、なんで?」
ふと思ったことが口をついた。
「……何を言ってるんだ?」
途端に悠人の表情がすっと険しくなった。
「ごめん! そんな感じがして」
「お前が今考えて良いのは勉強のことだけだ。退学になりたくなければ次の期末で絶対に平均点取れ。ついでにあいつらを見返すことだけを目標にしろ」
「はいっ!」
夏になったばかりだというのに、夜のカフェスペースは一気に氷点下の南極のように空気が冷たくなる。足下から冷気が上がってくるような気持ちになるのは錯覚だろうか。
「すみませんでしたっ!」
慌てて頭を下げて机の上にあるテキストや問題集を鞄の中に詰め込んだ。これ以上墓穴を掘って機嫌を損ねてしまったら放り投げられる。そうでなくても勉強を頼んだの中西の方だ、今は昼のことがあってちょっといつもより冷静さがないだけで、元はとても冷徹な人間だ、自分のフィールドには絶対に踏み込ませない。
(ミスった! 井ノ上は絶対こういうの嫌だよな)
分かっているのに意図せず出た言葉の責任を取れなくて、慌ててその場を逃げ出すことしかできない。ささっと斜めがけの鞄を下げてついでに頭も下げる。
「変なこと言ってごめん、ちゃんと勉強してきます!」
松葉杖を突いているとは思えない速さでその場から逃げ出す。
その後ろで「妙に勘が良い」と悠人が呟いているのは、慌てる中西の耳には届かなかった。
(やばい、地雷踏んだかも……)
できるだけ悠人には嫌な思いをさせたくないと思っていたのに、なんであんなことを言ってしまったのだろう。激しく後悔しながらも、悠人のことが少しだけ分かった。
(そうだ、何も気にしないって顔をして、でもそれが寂しそうなんだ)
ヒョコヒョコとエレベータホールに移動する中で中西ははっと顔を上げた。
やっと理解した。あの寂しさを隠そうとする表情が気になって仕方ないのだ。気になって、少しでも癒やしてやりたいと思って、踏み込んではいけないけれどその世界語と守りたいという気持ちにさせる。
庇護欲にとても似ていて、けれど違う。彼の存在そのものを守りたい。無表情で誰にも関心を示さないまま、彼が大切にしている思いをまるごと包み込みたい。
(あ、そうか。俺、もっと井ノ上のいろんな顔を見たいんだ)
笑った顔も怒った顔も、困った顔も何もかもを知りたい。それは友人に向けるのとは全く違った感情だ。
友人にはいつでも笑って欲しいと思うが、悠人にはそのままで良いからすべてを曝け出して欲しいと願っている。堪えているその全てを抱えたままの彼を受け止めたい。
寄り添いたいのだ。
特別な立場として。
そう、元チームメイトに攻撃されていた時に、当たり前のように助けてくれたあの時と同じ、自分も彼を助けたい。
友人なんかじゃ物足りない。もっと特別な関係になりたい。
特別な……。
「あ、ばかっ!」
下半身がまた元気になり始め慌てふためく。
だぶだぶのハーフパンツを履いているから目立たないが、その下はしっかりと反応している。
「なんでこうなるんだよぉ……」
自分の崇高な感情が下半身を伴うことで歪んでしまう。
「俺……大丈夫なのか?」
心は純粋に彼を守りたいと思っているのに、身体は邪な反応を示すそのアンバランスさに、中西自身でもうまく集約できない。
(もしかして、性的に見てるとか……井ノ上を?)
男相手に何かしようなんて、生まれてこの方思ったことはない。そりゃ綺麗なお姉さんとかに憧れていた青春時代はあったし、マドンナみたいな女の子がいたらどうしようと入学式にドキドキして女子を見て回ったこともある。でもどんなときもこれ程如実に反応することはなかった。
(もしかして……俺って、ホモ?)
実は男に興味がある性癖だったのだろうか。
(いやいや、それはない。断じてない!)
同室の面々やクラスメイト、チームメイトを思い出しても、誰にも反応したことがない。むしろ、見せ合いっこしたってまったく反応しなかった。
それがどうして悠人ならこんなにまで、ところ構わずに形を変えてしまうのだ。
「やっべ……これどうしよう……」
入院して三ヶ月、まったく処理していないそこをどうすべきか。
「ちょっとトイレ……しかないかな?」
まだ包帯が外れていない中西は入浴が禁じられている。もう解放するにはトイレに行くしかないが、まだ消灯時間にはなっていない。
「人の少ない階なら……って、どこの階が少ないんだ?」
それすら入院初心者の中西ではまったく分からない。だが理解しているのは、怪我をしても肉体は元気が有り余っている整形外科階は絶対に見つかるだろうし、悠人がいる循環器科の階は彼を穢してしまうようで絶対にそんなことをしてはいけない。
(じゃあどこですれば良いんだよぉぉぉ)
重い鞄を提げながら、中西はヒョコヒョコと人気のない外来棟へと移動し始めた。
誰もいないひっそりとした外来棟のトイレで、久しぶりに下半身をすっきりさせた中西は、どこまでも後ろめたい気持ちを抱えて病室に戻れば、とっくに消灯時間は過ぎ、こっぴどく夜勤の看護師長に説教を食らうのだった。
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