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11 退院は嬉しくない2

 ほんの少しずつ集めた情報を実はメモに書き留めて大事に保管していると知られたら、きっとドン引きされるだろうが、あまり自分のことを語ろうとしない彼から得た情報は貴重すぎて、全て忘れずにいようとしてしまう。  自分のあまりもの健気さに笑ってしまうが、自覚してしまった今、もう後戻りするなんて考えられない。  そう、自分は悠人が好きなのだ。  好意ではない、愛情が伴うものとして。  本当になぜ悠人にこれまで気持ちが行ってしまうのか悩んで、夜のベッドで大暴れして同室の面々に心配されたこともあったが、腹をくくれば簡単なことだ。  好きになってしまったのだからしょうがない。  性別なんて関係ないのだ。  悠人が時折見せてくれる笑顔に、胸ははち切れんばかりに脈打つし、あそこも一気に膨張してしまう。頭では処理しきれない感情を身体は素直に受け止めているのだから、植え込まれた知識や常識を排除したら、答えはあっという間に出た。  ただ素直に、好きなのだ。  その後押しをしたのは、大好きな小説を書いた作者の別の作品だ。  友人と信じて親しくしていた相手に好きな人ができたことに嫉妬した『その人』は、友人の好いた相手を奪って自分の妻にしたことをずっと後悔する、という物語だ。  心を歪めて常識の中に身を置いた結果、大切な人を亡くしてしまった『その人』にだけはなりたくない。できるなら井ノ上と恋人になって、好きだって思いを通じ合わせる時間を過ごしたい。  大きな挫折を経験した中西は、もう後悔したくなかった。  もう飛べなくなって空に近づくことはできないけど、まだ目の前にいる悠人とは心を近づけることはできる。  その希望を胸になんとか距離を縮める努力を怠りたくない。  二度と後悔しないように。 (ある日なにが起こるか分からないから、今できることを全力でしなきゃ)  空に近づくことばかりを考えていた日々は失われたが、新たな目標が自分を生かしてくれている。空への憧れを断ち切られた後に得られたこの幸運を、絶対に手放したくはない。  認めたら心は軽くなり、どこまでも彼へと向かう気持ちはキラキラと輝いて見える。  同性だから受け入れてもらえる可能性は限りなく低いが、それでもわずかでも希望があるなら諦めたくない。好きなことをがむしゃらに頑張るのが中西だ。苦手だった勉強で無茶なスケジュールをしているのは、退学したくないのもあるが、なによりも悠人に認めて欲しい一心なのだ。  褒めて欲しい欲と、一緒にいたい願望が入り交じってはいるが。 「行こうよ、井ノ上。杉山医師から許可下りたらさ、俺が車椅子押すから、な!」  嬉しくて綻んでしまう顔でひたすら願い乞う。彼の時間を、ほんの少しだけ自分に使って欲しい、と。 「待て! まだ約束していない。お前がちゃんと結果を出してからだ」  凜とした頑なな声に、勢いが萎んでしまう。なぜこんなにまで頑固なのだろうか。 「じゃあ結果……というか、予定よりも早くスケジュールを終わらせたらご褒美、とかってダメか……?」  それでもなんとかすがりついて乞うてしまう。  大きな身体でしょんぼりする様が、大型犬が怒られているように周囲に写るとも知らず、見えない耳を下げ尻尾を垂らしていく。  悠人がまた盛大に嘆息した。 「……わかった。十月になる前に高一の勉強が全部終わったらな」 「本当に!? ありがとう、井ノ上! じゃあちょっと杉山医師のところに行ってくる!」  午前の勉強はどうするのかなどもう頭にはない。すぐにでも杉山に許可を貰わなければと治りかけの足が循環器の階へと向かう。スキップしたくなるような気持ちだが、それはまだできない。本当は時間が惜しくてすぐにでも走り出したいが、まだ走る許可は出ていないから必死で気持ちを抑えながら、早く早くと心が急く。  まだ見舞客が来る前の時間の入院病棟はエレベータに乗る人も稀で、ボタンを押せばすぐに扉が開いた。循環器科の階のボタンを押し、到着すればすぐさまナースステーションに駆け込む。 「杉山医師、いますか?」 「あれ、中西君どうしたの? 今は勉強の時間でしょ?」 「そうです……そうなんですけど、杉山医師に相談があって」  いつものように対応してくれる市川は、いつもと変わらない笑顔を浮かべてにっこりと笑って杉山を呼びに行った。  そわそわしたまま、キョロキョロと市川の消えた方を覗えば、いつもの掴み所のない眼鏡姿の杉山が姿を現した。もう松葉杖を使っていない中西を見ても当たり前のような顔をしているのは経過をチェックされているからだろう。 「相談ってなんだい? 君もうすぐ退院だろう」 「あの……井ノ上の外出許可って取れますか?」  杉山の想像から外れた内容だったのか、珍しくキョトンとした表情をした。眼鏡の奥のいつも細められている目が、初めて丸くなった。 「外出許可? そうだね、今はダメかな」 「え? じゃあいつなら大丈夫ですか!?」 「それは悠人君の体調次第だね。どうしたんだい、急に外出許可なんて……ああ、ここだと煩いからこっちにおいで」  いつものように密室に連れて行かれ、丸い回転椅子に座る。 「どうして外出許可の話になったんだい? まずそこから教えてくれるかな」  掻い摘まんで悠人とのやりとり教え、ご褒美を貰えることになったことを伝えれば盛大に笑い出した。 「すごい粘り強さだね、さすがだよその根性! いやぁやっぱり面白いね、中西君は。そういうことなら是非許可をあげたいところなんだけど……ダメだよ」 「どうしてですか。せっかく井ノ上がその気になってくれたのに」  杉山が真顔になって、デスクの上にあるパソコンを開いた。カチカチと悠人の電子カルテを見ているのだろう。中西の位置からでも画面は見られるが、内容がさっぱり分からない。 「血圧が安定しないんだ。特に夏と冬は心臓に負担が大きいんだ。しかも最近食事量が減ってるせいか体力もない。そんな状況で許可はできないね」  毎日取っている血圧の数値が不安定すぎるのだという。いつも同じくらいなら、少しの揺れがあっても問題はないが、悠人に関しては日によってばらつきが大きすぎて、このところ中西との勉強の時間以外はずっと血圧と脈拍を測る機械を取り付けなければならない。 「体調が以前に戻ってしまったみたいなんだよね……秋になって涼しくなったらどうにかなるかなと思ってるんだけど……こればっかりは分からないね」  真剣な目で数字を追っていく目は鋭い。 「あの……井ノ上って心臓が悪いって言ってたけど、何がどう悪いんですか?」 「個人情報。昔と違って厳しいんだよ。僕を医師免許はく奪で職なしにするつもりかな、中西君は」 「別にそういうこと言ってるわけじゃ……ただ井ノ上が前よりも細くなったみたいだし、なんか淋しそうな顔をしてるんですよ。それが気になって……もしかして病気が悪くなってるのかなって。そうじゃなかったら……その……あの……でぇと、したいな、とか」  思わず転がり落ちた本音は拾い上げようとしてももう消えてしまっている。だがしっかりはっきりと杉山の耳には残ってしまっただろう。 「……デート? えっ、悠人くんとそういう関係なのかい? 恋人だから知りたいとか?」 「あっ……」  慌てて口を塞いでもどうしようもない。 「いや、そういうんじゃなくて…………俺の片想いです!」  顔が真っ赤になるのが分かった。本人に告げるよりも先に主治医に話すなんておかしいのも重々承知している。けれど、『言葉の綾』にしてこの気持ちを誤魔化したくはなかった。誤魔化せばそれだけ気持ちを偽っているような気がして、自分が抱えた悠人への気持ちが穢されるようで嫌だ。  少年らしい潔癖さに杉山は笑った。酷く、優しく。 「そうかい。青春か……いいね。悠人君の体調が落ち着いたらいいよ。だから、あの子にもそれを伝えてくれるかな。その気持ち、受け入れて貰えるといいね」 「……ありがとうございます」  ペコリと下げた頭を杉山が思いっきりぐちゃぐちゃにする。中学の頃から短く刈っていた髪は、入院期間中まったく手入れしていなかったから今までにないほど長くなり、その感触が少しこそばゆい。 「あと、もうすぐ退院だね、おめでとう」 「はい……でも勉強教えて貰いにちょこちょこ来ますけど、ここに」 「悠人君が良いと言ってるならいつでもおいで。ただし怖いお兄さんには注意するんだよ」  怖いお兄さん? それはヤクザとかを意味する隠語なのだろうか。分からないまま「わかりました」とだけ伝えて、急いで悠人が待つカフェスペースへと戻る。 「杉山医師が、井ノ上の体調が良かったら許可くれるって!」  待たされている間に読んでいた本から目を離さないまま、悠人が深く息を吐き出した。 「……分かった」 「俺、すっげー頑張るから井ノ上もそれまでに体調良くしような!」 「……うるさい、今日の分始めるぞ」  秋に入るまでには絶対に高一の勉強を終わらせてやる。いつもよりも意気込んだ中西の姿勢を、悠人がとても複雑な表情で見つめているのに気づかないまま、ひたすら問題集を解いていった。

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