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12 出かけたい君と嫌な僕

(あいつはなんであんなに……)  やっとの思いでベッドに移った悠人は気づかないうちに苦笑を浮かべた。  その後の言葉が思いつかない。悠人の言葉に耳を垂らしたり尻尾を振ったりと忙しなく変わる表情を思い出して嘆息する。なにが楽しくて悠人と出かけたいなどと言い出したのだろうか。勉強を教える以外は何もしていない。むしろ難問を出しては「これくらい解けるようになれ」と言っているくらい強く当たっているのに、嬉しそうに後を付いてきては、次の日にはできるようにしているのだからこちらが驚く。 「あいつ、本当に犬だな」  ご褒美が欲しいなんてまさに犬そのものだ。芸ができたから、言うことを聞いたから褒めてと言っているようにしか写らない。  このままだと本当に早くに高一の勉強も終わるかも知れない。  けれど、と思う。  外出許可は下りないだろう。  毎日測っている血圧の数値を自分でも確かめているが、一向に安定しない。理由はきっと食が細くなってしまったからだろう。正直、中西が退院となったのは助かった。カフェスペースまでの移動にものすごく体力が消耗してしまう。本を読む集中力も途切れがちだ。中西に会いに行く以外はずっと眠っていると言ってもおかしくない。  もう少しだけ頑張りたかったが、もうそろそろなのだろうか。  悪い方へと考えようとするたびに、あの屈託のない笑みが頭を過って邪魔をする。 (あいつって太陽みたいだよな)  いつも笑ってて、見ているだけで温かい気持ちになる。褒めれば本当に嬉しそうに笑いながら照れては、スポーツマンらしい締まった顔がだらしなくなるのが面白い。  相変わらず悠人といて何が面白いのか分からないが、それでも中西自身はとても楽しそうに、時にはこちらの深淵を探ろうとする発言をするときがある。  意外と鋭い一言を放たれるたびに、怖くなる。  何も知らないはずなのに。悠人のことを、何一つ。それでもこちらの些細な仕草や表情を読んでは鋭い指摘をされる。 『なんかいつも寂しそうな顔してる』  言われてはっとした。いつも何かを我慢して諦めて、迷惑をかけて生きている意味はあるのだろうかと思っている自分が表に出ていたことに驚くと同時に、今まで側でずっと悠人を見てきた杉山も市川もそんなことを言ってきたことはない。  なぜ中西だけが気づいたのだろうか。  勉強を教えてくれと言われてから三ヶ月、たったそれだけの付き合いなのに、なぜ彼だけが気づいたのか。  悠人がずっと押し隠していた密かな気持ちを。 「あいつ、時々怖いよな……」  犬っぽいだけあって嗅覚が優れているのだろうか。  犬は匂いで人の感情が分かるという。きっと中西もそれなのかも知れない。  いつも見えない耳と尻尾で感情を露わにしていることを本人は気づいていないだろう。そのせいか、気を許してしまう。相手に邪心が全くないのが分かっているから、何を考えているのかこの手で掴み取れるから、中西自身がどこまでも真っ直ぐだから、信じられる。  たった三ヶ月、一緒にいただけなのにここまで誰かを信じたのは、あの言葉を思い出して以来初めてだ。 (あいつ、隠し事とかないからな)  変に真っ直ぐで……どうしたらああなれるのかと感心するくらい裏表がない。困っていたら眉尻は下がるし、何かをして欲しいとなれば上目遣いになる。前世は絶対に犬としか言い様がない。  昔飼っていた犬を見ているようだ何をしても可愛くて、失敗しても仕方ないなと許してしまいたくなる。 「あら、悠人君楽しそうね、どうしたの?」 「え?」  悠人が戻ってきたことに気づいた市川がいつの間にか部屋の中にいた。 「聞いたわよ、中西君と遊びに行く約束をしたんでしょ。近場だったらどこが良いかしらね」  いつものように血圧計に繋がるコードを巻き付けて、楽しそうに話しかけてくる。 「悠人君はどこに行きたいの?」 「あ……ああ。もうみんな知ってるんですね」 「そりゃね、すっごく嬉しそうにしてたから。中西君って顔を見ればすぐに分かるから楽しいわよね。ああいう高校生の男の子って珍しいから、ナースステーションでもよく話題が出るのよ」  特に同じ年頃の息子を持つママさん看護師には人気が高いようだ。ひねくれた甘え方しかしない反抗期まっただ中の彼らに手を焼いているから、余計に中西の存在は珍しいようだ。 「そうですね……すぐ分かりますからね、中西は」 「悠人君のことが大好きなのもね」 「そう……ですね」  その言葉に苦笑する。まるで飼い主を前にした大型犬のように本当に嬉しそうにするから、悠人も扱いに困るのだ。無碍にできなくて、自分よりも先に退院すると分かっていても、勉強を見てやると言ってしまうのだ。  きちんと機械が反応しているか確認しながら、市川はパッと表情を輝かせた。 「ああそうだ、乗り換えはあるけど、リニューアルしたばかりの水族館とかどうかしら」 「水族館?」 「そう、話題になってるのよ。ジンベエザメが凄いんですって。休日は混むけど、平日だったら人も少ないし、バリアフリーになってるからちょうど良いんじゃない?」 「水族館か……」  近隣の学校に通っているなら、必ず社会見学で訪れる水族館が、確かに病院から電車で三十分のところにある。だが、入院ばかりの悠人は一度も足を踏み入れたことはなかった。 「クラゲのブースが凄く幻想的なんですって。悠人君は行ったことある?」 「いえ……水族館は……」 「なら丁度良いわね。行ってきたら? 行ったら感想教えてね、看護師仲間でも行きたいから」  それが目的かと笑ってしまうが、概要としては知っていても行ったことがない場所に興味がわく。 「いいですね……杉山医師が外出許可を出してくれたら行ってみます」  社交辞令で口にする。行けないのは分かっているから、簡単に。 「それまでには血圧を安定させようね。ちゃんと食べてね」  最近食事量が減っていることへの忠告だと分かっているから「はい」とだけ答えておく。消極的自殺、なんて思われないように。 (でも本当に食べられないんだよな……)  徐々に残す量が多くなっているのもチェックされている。けれど、食べないようにしているのではない。本当に食べられないのだ。  筋力も落ち、だんだんと命の火が消えようとしているのを、悠人自身も感じている。 (もう、ダメかもな)  そんな思いが過る。心臓の発作が次に起これば命の危険がある。いつ起こるかも分からない中で体力がどんどん下がればそれだけ心臓も弱るだろう。  過度な運動はダメだが、最低限の運動はしなければならない。その塩梅が難しいのに、入院してから血圧が安定しないためにどんどんと動くことが苦しくなり、筋力は下がる一方だ。  こんな状況で水族館なんて行けやしない。  行けないのに、どうしようもなく想いは馳せる。学校行事に何も参加できないまま過ごしてきた悠人は、どれだけ知識があっても、本や図鑑の中の世界でしかない。実際には調理された魚や金魚、病院の池に泳いでいる鯉くらいしかこの目で確かめたことはない。 「水族館ってどんなところだろう……」  興味はある。  普通の子供達が行くように、そこへと行ってみたい。  脳裏に屈託のない中西の顔が映し出される。  邪気など存在しない笑顔が眩しい男は、数日後にはこの病院を後にする。勉強を教える約束はしているが、果たして来るだろうか。学校が始まれば、退屈な悠人の勉強など煩わしくなるかも知れない。部活は辞めてしまうだろうが、彼ほど明るければ、クラスメイトは受け入れるだろう。学校帰りや休日に遊びに行ったりして、勉強なんて手が回らないだろう。 (もうここに来ないかも知れないな)  出かける約束だってそのうち忘れる。  病院で知己なのが悠人だったから執着しているだけで、日常生活に戻れば忘れ去られるはずだ。  悠人はこっそりとなにもかも諦めたような、ひどく寂しい笑みを浮かべた。  そして悠人に会わない日々が当たり前になり、中西は日常に夢中になり、すぐこの身は忘れ去られる。それが自分という人間だ。そもそも『生まれてこなければ良かった子供』だったのだから。近づいてきてはみんな離れていくものだともう割り切った。中西もきっと年末を待たずに来なくなるだろう。  それでいい。  悠人は彼が病院に来る間は付き合おうと、ゆっくりと目を閉じた。

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