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13 九月にも来る君2
上半分を起こしているベッドに身体を預けながら、自分も静かにするために雑誌のページをめくり始める。その間も気になって中西をチラリチラリと見てしまって、いつもよりも進みが悪い。珍しく兄が買ってくれた文芸誌は有名文学賞受賞作が掲載されている。
近頃は女流作家の受賞が続いているなと思いながら、その作品をじっくりと読み解いていく。その間もチラリチラリと中西を見ていたのに、いつからか話にのめり込みそれも少なくなって終盤には集中してしまった。
読み終わる頃には丁度夕食の配膳が始まる頃だ。
「あ、悪い」
まったく質問されなかったからと中西をずっと放置してしまった。本を閉じてチラリと中西を見やればとても真剣に問題集に打ち込んでいる。のぞき込めば汚い字ながらも正解がそこに書かれている。
たっぷりと一時間も集中していたのかと感心する。
入院していた頃よりもずっと集中力が上がっているのは不思議だ。そんなにも一緒に出かけたいのだろうか。
(酔狂だな……だがこの分だと確実に高一の内容がもうすぐ終わるか)
凄い速度で詰め込んだにも関わらず、もの凄い早さで吸収する中西は、病院で初めて声をかけられたときに比べて、妙に男らしい顔になっているように思う。真剣に問題に取り組んでいるのを見ているせいだろうか。もしかしたら、競技の時もこんな顔をして飛んでいたのかも知れないと思うと、彼の雄姿を知らないのが少し悔やまれる。
怪我明けで学校に行っても、普通に友人らに迎えられているのは、元来持っている明るさのせいだと思っていたが、皆がこの真剣な顔を知っているからなのかと思うと、どうしてだろう胸の奥がモヤモヤとする。
自分だけが知らないのが、少し腹立たしい。
モヤモヤをすぐにでも発散させるために、悠人は少しきつい口調で彼の名を呼んだ。
「中西っ! もう時間だ」
「え?」
問題に集中しすぎていたのだろう、ハッと上げた顔はひどく驚いていた。
「うわっ、もうこんな時間? ごめん井ノ上っ」
慌てて問題集を鞄に詰めていく様が、本当に怒られたときの大型犬の反応そのものだ。眦を下げ申し訳なさそうな表情をしながら、なんとか体裁を取り繕おうとしている。
その情けない表情を見るだけで溜飲が下がる。
どうしようもなく格好悪いところを見せるのは自分だけだろう、と。
「こんな時間までいるの師長さんに見られたら絶対に怒られる」
「そりゃ怒られるだろうな。見舞い時間もう過ぎてるから」
「井ノ上も気づいてるなら早く言ってよぉ」
「自分で時間の管理をしろ」
「できてたらこんなことにならないから。俺、こっそり帰るから師長さんに言いつけないでね、お願い! じゃあまた明日!」
明日も来るのかと嘆息しながらも、その言葉が少しだけ嬉しいと思い始めている。
当たり前のようにする約束など、今までしたことはない。
いつ『明日』がなくなるか分からないから、嘘でもそんなことを口にはできないでいた。けれど中西は何の躊躇いもなく約束を残していく。
遊びに行く約束。
退院しても来る約束。
そして、明日の約束を。
全身から悠人を信頼している態度を出されては、以前のように邪険にできなくなってしまった。相変わらず兄の秀人は中西のことを邪魔者のように言うが、病院関係者はむしろ彼の来訪を喜んでいるように見える。その筆頭が、何を考えているか分からない杉山だ。
「あれ、中西君はもう帰ったの?」
夕食の膳を運んできた市川が綺麗に片付いたサイドテーブルを見ながら悠人の前にそれを置く。病院特有の薄い味付けの夕食。慣れてはいるが美味しいものではない。
「さっき、師長さんに見つかる前にって慌てて帰って行きましたよ」
箸を持ち上げても、食欲は湧かない。どれから手を付けようかと躊躇う箸先の行方を見守りながら、市川が離れようとはしない。
「一言言ってくれたらちょっとくらい見逃すのに」
「例外は良くないです。他の皆さんはきちんと時間を守っているんですから」
「悠人君は本当に中西君に厳しいね……でも良かった」
「……何がですか?」
市川はコロコロと笑った。
「だって、中西君が来ると悠人君すごく生き生きとしてるもの」
「……なんですか、それは」
「怒ったり叱ったりって結構体力いるけど、その分気持ちが活性化されるのかしら。中西君に怒ると顔色が良くなってるよ」
「……なんですかそれ」
今日は怒っていないと言いたいが、嫌みを何度か口にしたのは確かだ。
「悠人君も頑張って教えてるの見てたからね、いっぱい食べて明日に備えよう。中西君の相手は大変だからね」
ああそうか。市川がここにいるのは、食べる量が減っている悠人の監視かと合点し、嘆息した。
「頑張ります」
「そうそう、頑張ろうね。それでちょっとでも体力回復して来月には遊びに行っておいでよ」
来月には中間テストがあり、テスト明けにはいつものように二日間だけの休暇が設けられている。どうやら中西はその日を外出に充てようとしているようだ。その話を市川だけでなく杉山にもしていることだろう。
(用意周到だな……)
病院側も協力体制になっているなら、悠人に逃げ道はない。
鱈の西京焼きに箸を付け、出汁の味すらあまりしないお吸い物で喉の奥へと押し込む。一口食べるごとに褒められ、まるで幼い頃に入院した時に戻ったようだ。病院食が嫌であまり食の進まなかった悠人の側にはいつも看護師か院内保育士がいて、一口食べる毎に手放しで喜ぶ。
もう高校二年生で、褒められたからと言って頑張って食べる年ではないが、監視されても残せるほどの根性はなかった。
悠人なりの精一杯を腹に詰め込んで半分を平らげるのが精一杯だった。
「もう少しは無理かな?」
「……無理です、これ以上は絶対に入りません」
それでもメインの鱈の西京焼きは完食したし、飲み込むのに使ったお吸い物の椀も空になっている。ほうれん草の白和えなどといった副菜は残してしまったが、これで許して欲しいと懇願する。
どんなに頑張ってもこれ以上は本当に入らないのだ。
「しょうがない、今日はこれくらいにしましょう。明日からもう少し量を増やそうね」
「……頑張ります」
それしか言えない。
悠人の頭を幼い子にするように撫でてから、市川が膳を下げた。
中西が入院していた頃と違って、夕食が終わればもう消灯時間までやることは何もない。さっきまで読んでいた文芸誌に手を伸ばすが、血液が胃に集中してしまうと、読む気力が半減し、代わりに睡魔がすぐにやってくる。
少しだけ目を閉じれば、体力を失った身体はそのまま深い眠りへと吸い込まれていった。
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