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19 君に会えない冬は1

「しばらく会えなくなる」  凜とした声を聞いたのはいつぶりだろうか。いつものように病室を訪ねた中西に悠人が告げたとき、久しぶりに生き生きした表情になっていて、驚いた。 (あれ以来だ……)  チームメイトが病室で暴言を吐いたときに撃退した悠人の表情そのままの、生命力溢れた表情に魅入ってしまい、内容が頭に入ってこなかった。 「え、なに?」  とぼけた返事をする中西に、薄紅色の唇が緩いカーブを描く。 「手術することになった。その前後は絶対安静になるからお前の相手はできない」  言葉が頭に届いてようやく止まっていた脳が動き始めた。  悠人がずっとずっと拒んでいた手術を受けるために前向きになったのは嬉しいが、なによりもその選択を報告してくれたのが一番嬉しかった。集中治療室から出て一ヶ月、悠人が少しだけ何かに怯えているのは感じていた。それをどう払拭してあげたらいいのだろうと頭を悩ませたが、一緒にいることくらいしか思いつかなかった。  まだ高校生の中西にできることは少ない。  社会的な立場もないのに身体ばかりが大きい、ただの子供でしかないのだと、嫌と言うほど思い知らされる。そんな中西にできたのは「約束」することだけだった。  退院したらまた出かけよう。  今度は海を歩いてみよう。  悠人がやりたいことをやってみよう。  そんなのばかりでうまく提案ができなかったが、悠人が約束を口にするたびに頷いて頬を赤らめるのを見ては、何度もこのまま押し倒したくなる本能を押さえつけるのに苦労した。 (急にしおらしく可愛くなるから、本当に困る)  手を握ってキスだけと自分を戒めなければ、悠人の体調を考えずに色んなことをしそうになる。唇を合わせるだけのキスじゃないのをもっとしたいとか、今度はジェルとコンドームを用意したら、もっと色んな体位でできるかとか。頭の中がいかがわしい妄想で満ち溢れ、そのたびに元気になる下半身を叱責した。  だから以前のように泰然とした悠人の姿にほっとしながらも、その表情がとても眩しくて直視できないくらい輝いて見える。 「それって……、あの、その間も俺、悠人の恋人でいいの?」  不安が口を吐く。  別れるための方便なのかと一瞬不安になる心と連結しすぎている口が、懇願にも似た言葉を発してしまう。手術が終わっても毎日のようにお見舞いと称した二人きりの時間を設けて欲しいと縋り付きたい。 「当たり前だろ。なに惚けたことを言ってるんだ」 「良かった……うん、わかった。悠人が元気になるまで俺ずっと待ってるから!」  成功率五十パーセントの難しい手術だと以前教えて貰ったが、こんなにも輝いている悠人なら問題ないような気がした。そこに死を望む色はもうない。 「ただ待つだけじゃないんだって分かっているのか?」 「へ?」 「勉強はこれから兄さんが見てくれるから」  ようやく学校の授業に追いつき、一人でも問題を解くのが苦でなくなった。今は毎日の勉強と一緒にほんの少し先の部分もやっている。  これで期末は悠人が掲げた全教科平均点以上も不可能ではないような気がしている。  それなのに、あの怖い秀人がお目付役として就くのかと思うと背中から冷たい汗が流れるのを感じる。 「なん、で?」  浮気するような軽薄な人間に思われているのだろうか。だったら悠人が手術を受ける前に身の潔白を果たさなければ。  だが、どうやって?  級友達から回ってくるエッチなビデオの女優が悠人に見えるくらい惚れてて、それをおかずに抜いてますと言えば信じてくれるだろうか。むしろそんな破廉恥なものを見ながら抜いていると知られて嫌われないだろうか。  数多の情報が中西の脳内を駆け巡っていく。 「勉強で困ったとき、僕が側にいないんだから当たり前だろう。兄さんも協力してくれるって」 「嘘だろー」 「もうすぐ期末だし、三学期の期末は全教科一年の総まとめが出るんだ。教えて貰えばいいよ」  これは絶対に何かの罰ゲームだ。逃げる方法はないのだろうかと頭を働かせるが、もしかしたらここでちゃんと結果を出したら、退院した悠人に褒められるのではないかとやましい心が顔を出す。  ご褒美に僕を好きにしていいよ……なんてあるはずがないのは分かっていても、想像しただけで心拍数が今までにないくらい上がっていた。 「が……んばります!」  ご褒美目当てで頑張るのではないと思いながらも、好きな人に褒めて欲しくて頑張ってしまうのは男のどうしようもなく情けない本能だ。 「十二月に入ったら春まで会えないだろうけど、勉強だけは疎かにするな」 「おう、任せとけ!」  なんて会話をしたまではいいが、いざ秀人を目の前にすると借りてきた猫のように縮こまってしまった。  駅近くのカフェで小さなテーブルの前にドンと座る秀人の圧力に負けそうだ。  しかも用意されたペーパーには多数の文字が並んでいる。目が拒否反応を起こしてもしょうがないというものだ。 「あのお兄さん、これは……」 「俺はお前の兄貴じゃない。秀人様と呼べ」  最初から俺様モードで来られて、さらに萎縮する。これが本当にあの優雅で嫋やかな悠人の兄なのだろうか。 「はい……秀人様これは一体……」 「お前の間違えやすい問題と傾向を調べてきた。日本史を選択している割には近代史が弱すぎる」  あまりにも的確に痛いところを突かれて言葉を失う。江戸時代中期まではなんとか覚えられても、明治に入ってからの名前や出来事が多すぎて覚えきれないのは確かだ。 「読書が得意と聞いた。最低でもここに書いた本は全部読んでおけ」  時代時代に出てくる有名人物を取り上げた小説ばかりが並んでいることに気づく。薩長同盟にまつわるものを初めとした歴史小説に明治維新を経て大戦に破れるまでのものだけでも軽く三十冊を超えているのは数え間違いではないだろう。  そして今へと続く民主主義に総理になった人々の自叙伝なども加われば膨大な冊数だ。 「……これいつまでに……」 「そうだな。悠人が退院するまでにしてやる」  四ヶ月でこれだけの量を読めというのか。 「そんなぁ……」  平行して歴史以外の勉強も当然あるのだろう。 「できないとは言わせないぞ。悠人と約束したんだろ、やれ」  正直、悠人よりも厳しい教師としか言い様がない。あんなに扱かれて泣きそうになった悠人の家庭教師を上回るスパルタだ。 「お前、まさかうちのとずっと一緒にいるって約束しといて、大学に進学しないつもりじゃないだろうな」  高校退学は免れたが、大学のことは全く考えてもいなかった。 「あっ」 「そこそこ名の通った大学に行って安定した就職をしない、なんて選択肢は与えないぞ」 「ひぃ!」  二学期からもう受験勉強を始めているクラスメイトもいるし、担任から目こぼしして貰っていたが、他の生徒達はもう進路希望表を提出している。勉強に追いつくのに必死な中西がそこまで考えられないだろうと猶予を貰っている状況すら把握しているのかと怖くなる。  ズンッと怖い顔が近づいてきた。 「まさかあいつを養う根性もないのに一緒にいたいとか言ってるんじゃないだろうな」 「おに……秀人様怖いです……」 「泣き言を言ってる暇があったら、将来設計を立てて俺に出せ。生半可なのだったらすぐに別れさせるぞこら」  ただ悠人の隣にいる、というだけでは安心できないのだろう。当然だ、今まで大事にしてきた弟が男と付き合っているというだけで外聞は悪い。それを守れる覚悟があるのかと言われているような気がした。 「大学はまだ決められないですけど、頑張ります!」 「……馬鹿なのか? 頑張るのは当たり前なんだよ。さっさと大学を決めて、それよりも一ランク上のに合格するのがお前の仕事なんだよ」  めちゃくちゃ怖いです秀人様! 「まずは文系か理系か……この成績だったら確実に文系だな。どの学部を受けるかをちゃんと考えて次に会うときに提示しろ。その時にどこまで読んだかを報告だ、いいな」 「はいっ!」 「声デカすぎだ。それからこのテキストの付箋を貼ったページまで全問正解させて持ってこい」  エコバッグに入った大量の問題集がテーブルに置かれる。各教科二冊ずつあるんじゃないかと思う量だ。 「そ、そんなぁ」 「俺は夕方から深夜にかけて忙しい。分からないことがあったら日中にメールしてこい」 「……わかりました……」  断れないのをいいことにこんな無理難題をと泣きたくなるが、泣いてる暇はない。とにかく悠人のために頑張るしかないのだ。  ずしりと肩にのしかかる重さに泣きながら、秀人の怖さにもっと心で泣いて帰路に就いた。まさか一日目からあんなに怖いなんて思いもしなかった。 『兄さんは優しいから』と悠人は言っていたが、それは弟にだけ見せる顔だ。他人にはとことん厳しい。しかも無茶振りも平気でするから余計に質が悪い。

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