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18 生きたい2

「っ!」 「でも、もう一回だけ」  チュッと音を立てるキスをして、真っ赤になっている悠人を置いて病室を出て行った。 「ばか……」  簡単に「元気になれ」と言ってくれるが、そのために悠人は大きな方向転換をしなければならないなんて知らないだろう。明日も、明後日も、一年後も十年後も一緒にいるためには、生きるしかない。大きな爆弾を抱えたままの悠人が選べる道はただ一つだ。 「簡単に言いやがって……」  キスをされた瞬間の感触が蘇っては、早く決断しろと心が急かす。 「成功率五十パーセントか……」  決して高くはない数字が以前よりも大きな恐怖として立ちはだかっている。失敗すれば死んでしまうその賭に出るのが怖かった。けれどこのままではいられないのも確かだ。  もう一度発作を起こせば、今度こそ命の保証はない。このまま退院しても絶対に発作を起こさない確約もできない。  デッド・オア・アライブ。  中西の側にいたいのなら覚悟するしかないのかもしれない。  もし自分が死んでしまったら、中西はきっと泣くだろう。それが分かっていて、泣かせる選択肢を選べない。 「ばーか、僕が死んだらどうするつもりなんだよ……」  手術をしたら死ぬかも知れない、もう二度と中西に触れられなくなる。それが怖い。  初めて、死ぬのが怖くなった。 (欲、だ……)  もっともっと中西の側にいたくて、ただそれだけしか考えられなくなる。  大好きな本ですら集中できないなんて、自分でもおかしいと分かっていても、隣に中西がいると落ち着いてなんていられない。 「っていうか、僕といるのにあいつ集中してたな……」  ガマンしていると言いながら余裕なのが悔しい。もっともっと縋り付いて欲しいのに、抱きついて欲しいのに、それすらしてくれないのが嫌だ。 「……本当に我が儘になってるな……」  ぼんやりと窓の向こうを見れば、中西の住んでいるマンションが闇の中でもその場所を知らせてくれるように暖かい色の明かりを灯し始めた。平坦な住宅地の中で病院以外にニョキッと竹のように伸びているのは、あのマンションだけだ。 (無事帰れたかな……)  隅の部屋の明かりが灯るのを待つ。 「悪い、ちょっといいか?」 「兄さん!」  食事が運ばれる前の僅かな時間に兄の秀人が顔を覗かせた。最近は特に忙しいのか、以前のように頻繁に顔を出してくれなくなった。中西と手を握ったりキスをしているところを見られるのは恥ずかしいが。 「体調はどうだ?」 「うん、随分と落ち着いてるみたいだよ」  いつものように少し他人事のように答えるが、秀人のことだ、ここに来る前にナースステーションで容態の確認をしているはず。 「なんか足りないものはないか? 困っていることもないか?」  いつものように確認してくる言葉は優しい。 「大丈夫。兄さんも仕事が忙しいの? 最近なかなか来てくれないけど」 「あ……あぁ、ちょっとな」  視線を反らすのはなぜだろうと思いながら、追求はしない。兄の向こうに見えるマンションの隅の部屋の明かりが灯ったのを確認して、兄が目の前にいるのに中西に思いを馳せてしまう。  秀人が何か話しかけてくるが、生返事で返してしまう。 「……大丈夫って感じじゃないな。随分と上の空だが、何か悩んでいるのか。俺に相談できないことか?」  今までずっと支えてくれた兄の言葉にちょっと躊躇いが生まれる。何でもかんでも口にできる素直な弟ではなかったのに、そんな悠人でも側にいて自身を犠牲にしてくれた人は、随分と優しい声音で問いかけてきた。  幼い子供に問いかけるのと同じ優しさに、こんな相談を兄にしていいのだろうかと少し躊躇われるが、中西に会うたびに膨れ上がる焦燥感を持て余していた悠人は、閊えを取れるならと秀人を見つめた。 「ねぇ兄さん、どうしてこんなに苦しいんだろうね」 「どうした、どこが苦しんだ?」 「中西が帰ると胸が苦しくなるんだ」 「ああ? ……あぁそういうことか」  秀人が額を掌で覆う。なぜそうしたのかはよく分からないけれど、兄にはこの痛みの理由が分かっているような気がした。 「兄さん分かる?」 「通り一辺倒にはな」 「そうか……」  秀人の肩の向こうにあるマンションを見つめる。今頃は夕食を食べて風呂に入ってと、当たり前のルーティンをこなし、夜にまた勉強するのだろうか。 「僕が死んだら、中西はすぐに他の誰かを好きになるのかな」 「……ずっと想われていたいのか?」 「そう、だね……我が儘なのは分かってるけど」  けれど人間は抱えた感情を長続きさせることはできない。今は悠人に夢中でも、その相手が目の前からいなくなれば他へと心変わりする。決して不実ではない。目の前で大切にしてくれる相手の方に惹かれるのは当たり前のこと。  もう悠人がこの世からいなくなれば、中西が心変わりしたことを責める権利もない。  忘れられたときが一番怖いなど、初めて知った。  家族なら忘れない安心感はあっても、中西との繋がりはあまりにも細くて不安になる。蜘蛛の糸のように風が靡けば切れてしまいそうだ。  そんな淡い関係にしがみついて切れるその瞬間を恐れているなんて、客観的に見たら滑稽でしかない。当事者じゃなければ悠人も「忘れるのも生きてる方の権利だ」と口にしただろう。 「手術……成功率五十パーセントなんだよね」  初めて自分から手術の話をした弟に秀人の目が輝いた。けれど、焦ったようにすぐにその言葉に畳みかけないのは悠人の性格をよく知っているからだ。 「そうだな……でもどの手術も成功率なんて五十パーセントだろ。成功するか失敗するか。二つに一つしかない」 「そう……だね」  全体の成功率なんて関係ない。個人にとってのは、成功して生きるか、失敗して死ぬかのどちらかだ。間なんて存在しない。手術に対して「もし」を考えるには、もう疲れるほどしてきた。 「お前はどうしたいんだ。お前の選択如何では相手を苦しめるぞ」  手術しない選択もある。けれど、発作に怯えながらの人生になる。明日急に死ぬかも知れない人間の相手は、疲弊を伴う。看護に疲れた家族が崩壊していくのを数多見てきた。  死んで良かったとほっとする親族が存在することも知っている。家族ですら病気の人間を支えるのに精神的苦痛を味わうのに、恋人になったばかりの中西にそれを強いるのは酷だ。だったら初めから付き合わない方がいい。  でも悠人は選択した、彼の隣にいたいと。この身体でも好きだと言ってくれる中西とずっと一緒にいたいと。  また約束をして、今度は一緒に楽しめるように二人でどこに行くのか話したり、日常の話をしたり、些細なことで喜ぶそんな幸せを味わいたい。  今回退院しても、またいつ病院に担ぎ込まれるか分からない身体では隣にいられない。 「僕は……ただ中西といたいんだ……」  ポロリと涙が勝手に零れ出た。  こんな自分でも一緒にいたい。明日も分からないままではいたくない。なによりも……。 「死んで忘れられたくない……生きたい……」  あの熱い大きな手が他の誰かの手を握るのが嫌だ。  不器用に心を吐露する悠人に、秀人は伸びた髪をガシャガシャに掻き回した。 「だったら選べ。それしかないだろう。選んで、自信を持ってあいつの隣に立て」  今まで何一つきちんと現状に向き合おうとしなかった弟への鼓舞だとわかっている。  ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。 「手術……受けるよ」  秀人はただ静かに頷いただけだった。

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