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18 生きたい1
悠人が集中治療室を出たのは、あの日から一週間後だった。心臓がうまく身体に酸素を運べなくなってしまった悠人は、以前よりもずっと身体が重く感じられた。
(あんなことしたんだから当然か)
分かっていてもしたかったのは、悠人だ。どこまでもそのままの悠人を好きだといい男相手でも欲情する中西を受け入れたらどうなるのだろう。もっと自分は変われるのだろうか、と。
(変わった……のかな?)
分からない。ただ中西から「生きて」と言われるたびに少しだけくすぐったくなる。誰にも吐露したことのない胸の内を唯一知る中西が、あの一瞬だけで気持ちを終わらせなかったことが嬉しくて、少しだけ癖になる。欲張りな自分はもしかしたら誰かに愛されたかったのだろうかと思うくらい、中西の気持ちが心地良い。生きていることを肯定されているようで、そこには義務もなにもなく、感情だけ存在のが嬉しい。
好きという気持ちだけで充分なのに、肌を合わせてからは不思議な感情が生まれていた。
ただのクラスメイトだった中西。ただの面倒なヤツだった中西。
時々鋭くて心の中を覗き見られているのかと思う時もあったが、今は分かる、それだけ自分を見ていたからだと。
一緒に出かけてからもう一ヶ月が過ぎ、まだ青葉も多かった風景は、徐々に色を変え服を脱ぐかのようにするりと変わっていった。空調の効いた病院内ではどれだけ寒くなったかは分からないが、見ているだけで僅かに触れた秋の香りを思い出す。
いつもこの時期になれば発作を起こさせないために入院したり自宅で安静にしたりするが、去年だけは体調が良かったからと冬も通うことができた。その時に感じたツンと刺すような、凍てつくとはこういうことだと教えてくれるような痛さに、ほんの少し恍惚とした。文字の中でしか知らない冬を初めて感じられて、生きている気持ちになれた。
春の心地よさも夏の暑さも秋のもの悲しさも全部知ったから、もういいと思っていたのに、もう一度巡ってきた春で中西を知った。
冬に入る今、不思議な気持ちでいる。
悠人はたらりと垂らした右手の先を見た。指先を握りこむ大きな手は中西の身体とつながり、反対の手でいつものように問題集を解いている。ハイスピードで詰め込んだ勉強がようやく土台となって中西の理解へと繋がっているようだ。悠人が細かく説明しなくても分かるようになってきている。
二学期の中間では平均点に届かない科目がいくつかあったが、それでも全教科赤点しかなかった彼の成績は確実に上がっている。
最初の頃のように頼られないのも少し寂しい、と思う日が来るとは思わなかった。
煩わしさから解放されると喜ぶかと思っていたのに。これは空の巣症候群のようなものなのだろうか。
けれど心穏やかなのは、この部屋にいる間はずっと手を握ってくるからだ。
どんなに勉強に集中してても絶対に離そうとはしない。
看護師が来ても手を握ったままだし、それが兄でも変わらない。とにかく悠人と繋がっていたいとばかりに強く握られる。
その間はできることが限られるので、本を読むしかない。今はノーベル文学賞を受賞した作家が翻訳した聖書を読んでいる。内容は面白いのに、近頃はうまく集中できない。両手で本を支えられないのもあるが、中西が側にいるのが一番の理由だ。
穏やかな気持ちになるためにこれを読んでいるのに、不安定な手でページをめくっては隣に座る中西を見てこちらを向いてくれないかと期待してしまう。
こんな自分は初めてで落ち着かない。
勉強の邪魔をしてはいけないと思いながらも、少しでも目を合わせたい。
わがままだろうが、それが本音だ。早くこちらを見ろと見つめ待っていれば、中西が顔を上げこちらを見た。合う前に視線を反らしたのにギュッと手に力を入れられる。チラリと見れば凄く嬉しそうな顔がそこにある。
慌てて小説に目を落としても内容なんか入ってこない。首筋が赤くなるのを感じながら、なんて声をかけていいか分からない。
けれどこの空間がとても心地良かった。
(変なの)
恋愛小説だってたくさん読んでいるのに、いざ自分の身に起こったらどうしていいのか分からなくなる。
小説の世界での出来事が自分に起こるとすれば、死だけだと考えていたのもあるだろう。
期末テストは悠人の期待に応えるために平均点は取るんだと意気込んでいる中西は、もう退学は免れたようだ。今回は平均に届かなかったが、たった半年で巻き返したのならもう心配はいらない。
少し寂しく思いながらも、勉強を理由に毎日のように病室にやってきてはこうして手を繋ぎながらシャープペンシルを動かしている。放課後のすべての時間を奪っているようで、それが申し訳なくて、ちょっと嬉しい。
とてもとても大切にされているのを感じてはこそばゆくなる。
家族でもないのにどうしてここまで優しくするのだろうか。
人は誰かを「好き」になったらこんな風に何でも受けれてしまう生物なのだろうか。
分からないことだらけの悠人がただ一つ理解できるのは、中西といて気恥ずかしくてこそばゆくて嬉しいという感情だけだ。
面会終了時間まで言葉少なに、ただ手を繋いで二人きりで過ごし、帰る間際に唇を合わせるだけのキスをして別れるのもこそばゆくて、その後心穏やかに眠るのが難しくなる。ドキドキしすぎて落ち着かない。
なのに体調が落ち着いているから不思議だ。
こんなにもドキドキしているのにどうしてだろうと訝しんで、けれど誰かに相談もできない。
中西との関係は主治医を初めてとして病棟のみんなが知っているせいで、余計に誰にも相談できない。すべて知られてしまって、これ以上知られるのが恥ずかしい。
ベッドの陰に隠しても、手を繋いでいることなどナースステーション内で周知されているだろう。
恥ずかしくてもやめる選択肢が自分にはない。
この大きな手に包まれると酷く安心してしまうから。
中西がいるだけで「ここ」に留まれる。死んでもいいと思っていた心が漂わずにいられる。
「じゃあ今日はこれで帰るな」
あまり小説の内容が頭に入らないまま、気がつけば見舞い終了時刻になっていた。もうこんな時間になってしまったのに驚いて、慌てて窓の外を見ればあんなに緩やかな陽光を差し込んでいた空が、もう茜色を終えて薄暗くなっていた。
「え……」
「気づかないくらい面白いの、その本」
「……ああ……うん」
本の内容なんてちっとも頭に入ってこなくて、中西が来てからページが進んでいないのを隠す。まだ出エジプト記の後半を読み終えずにいる。おかしくなってしまうほど、あの日から変わってしまった自分が恥ずかしくて、隠すために必死で冷静を装う。
なんか自分の方が中西にのめり込んでいるような気がする。
彼の態度がなにも変わっていないだけに如実に浮かび上がる。
誰かともっと一緒にいたいと感じることがなかった悠人が、初めて中西ともっと一緒にいたいと焦燥に駆られ、自分を持て余していた。
(みっともない……なんでこんなになってるんだ?)
心がこんなにもガツガツしてしまう自分なんて想像できなかった。諦観してすべてを客観視できると思っていたのに、実際に恋愛の渦中に身を置いたら、様々な感情に振り回されて身動きが取れなくなっている。
目標もないままただベッドに転がっている日々が凄く虚しくて、がむしゃらに頑張っている中西が自分の後ろにいるのではなく、追い越して遙か前方を走り、その背中を必死で追いかけているような気がする。
パタンと栞を挟まずに本を閉じ、握った手が離れていくのを視線で追いかける。サイドテーブルの上に広げていた問題集を片付け、鞄にしまっていくのを眺めては、この時間が一番焦燥感に駆られるのだと実感する。
会話などなくていい。もう少しだけ一緒にいたい。そんな我が儘は通らないと重々承知していても、初めての感情をセーブできない。
ぎゅっと引き留めたくなるのを拳を握って耐える。
「また明日来るから」
「うん……」
いざとなると喋るのが下手になる自分が嫌になる。
こんな素っ気ない態度ばかりじゃ中西は嫌いになるんじゃないかと怯え、けれどなにを言っていいか分からずに口を噤む。
いつものように中西の顔が近づき、当たり前のように唇が合わさった。一瞬の柔らかい感触に、あの日のことが思い出される。何度も何度もキスをしながら身体を繋いだあの瞬間、痛いのに幸せだけが身体を包み込んでいた。
初めて心が満たされるのを感じて、浅ましくももっと生きたいと思った。その日の朝まで死にたいと思っていたはずなのに。
「んっ……」
「悠人さぁ、毎回それ勘弁な。俺、すっげーガマンしてるから」
「……何のことだ?」
離れていく中西を上目遣いで見れば、大きな掌が頬を包み込んできた。
「その可愛い声さ、聞いてるともっと色んなことしたくなるから。俺、めちゃくちゃいっぱいガマンしてるから、煽らないで欲しいんだけど」
「ばっ、煽ってなんかいない!」
否定しても以前のように冷たい態度なんか取れない。中西の体温が頬を赤らめさせる。視線だけ反らすように目を伏せれば、クスリと笑うのが聞こえた。
「入院中は手を出しちゃダメだって言われてるんだ。元気になってもう発作を起こさなくなったら何をしてもいいらしいから、早く退院することだけを考えて」
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