37 / 45
17 生きる君がここにいる
見舞い時間が開始してすぐに中西は循環器科の階へと向かうエレベータに乗り込んだ。以前いた整形外科よりも下階にあるのに、落ち着きなく指で昇降機の壁を叩いてしまう。一秒でも早く悠人の元に辿り着きたい一心で、気ばかりが急く。
いつものように静かな循環器科のフロアにあるナースステーションへと向かえば、見知った顔の看護師がすぐに近づいてきた。
「ごめんね、悠人君まだ病室に戻ってないの」
昨日どこかへ運ばれてそのまま一日が経ったということか。
大きな身体で気忙しく悠人が連れて行かれた方向をチラチラ見ていると、電話片手に別の看護師が近づいてきて、対応している看護師に耳打ちをしている。数度頷いたあと、対応看護師が「一緒に来てくれる?」とある部屋へと案内した。
「ここ……」
以前杉山と話したときに入った、医療機器とパソコンがある部屋だ。ノックの後に入れば、杉山の他に怪しい雰囲気を放つ男が先客として回転椅子に座っていた。
「ぁ……」
中西の通っている高校の生徒なら皆がこう呼ぶだろう、「あのヤクザだ!」と。杉山と一緒に学校に乗り込んできたヤクザのような険しい容姿の男が眦を吊り上げてこちらを睨めつけてきた。
「待ってたよ、中西君。さあ座って」
どこに座ればいいか分からなくて、不穏な空気に身体を縮こませながらその人から少しでも遠い椅子に腰掛けた。
「杉山医師、なんでこいつが来てるんですか。関係ないでしょう」
「関係はありますよ。一応、悠人君のコイビトですからね」
「なんだって! そんな話は聞いてないぞ!!」
「はいはい、静かにしてね。なんだったら血圧計付けながら話しますか、お兄さん」
杉山の言葉に反応し相手の顔をまじまじと見た。夕べ眠れなくて腫れぼったくなったまぶたで何度も瞬いた。悠人に兄がいることは知っている。その兄がずっと悠人を大切にしていたのは、昨日聞いた。だが、本当に兄弟なのかと訝しむほど雰囲気が違っている。無精髭を伸ばし続けたような強面顔が凜とした悠人の兄だとはすぐに分からない。人相も悪そうだし、学校に来たときにこの姿だったなら、目撃者が中西でも「ヤクザ」だと叫んでいただろう。
「この人、悠人のお兄さんなんですか?」
「そうだよ、悠人君の保護者の一人。今の状況を説明するために来て貰ったんだよ」
信じられないと視線を向ければまた睨めつけられ身体を縮こませ慌てて杉山へと戻す。
(悠人のお兄さん、めちゃくちゃ怖い……)
しかも敵愾心を向けられているようだ。
そんなひんやりとした雰囲気の中にあっても杉山は全く気にもとめずモニターを見て、今の悠人の状況を説明してきた。
ずっと不安定だった悠人の血圧と脈拍が、ここ数日安定したので外出許可を出したこと。だが戻ってきた悠人は発作を起こしていたため、すぐにICU(集中治療室)に移しステロイドを投与しながら容態を見ているそうだ。
「なんで発作を起こしたんだ。この三年、起こさないようにしてきたのに……」
「それは……」
「若い二人がデートしたらまあ愛の確認とかしちゃうよねぇ、しょうがないしょうがない」
「……デート、だと? 俺は友達と遊びに行くと聞いていたが? 杉山医師、あんた知ってたのかよ」
悠人よりもやや低い声が乱暴に投げつけられて、一層中西は身体を縮こませた。昨今の監督やコーチだってこんな言葉遣いはしないせいで、乱暴な言葉遣いに耐性のない中西は秀人を怖がった。
「こうゆう展開になるとは思わなかったけどね。まぁまぁお兄さんもそんなに怒らないで」
「怒らないわけないだろ。おい、お前。うちの弟になにしてくれたんだ。てめーの下半身満足させるために悠人を使ったんじゃないだろうな」
「使うなんてしてません! 本当です!!」
「じゃあなんで発作起きてんだよ! コイビトとか適当なこと言ってんじゃねーぞ!!」
ドンッと鈍い衝撃と痛みが頬に襲いかかる。勢いに中西は椅子から倒れ背中を打っては、周囲の機械に滑った椅子がぶつかっていく。
「あー、こらこら機器は壊さないでね。ちなみに悠人君からも証言取っておいたけど、自分が誘ったって言ってたよ。あの子にもそんな感情が芽生えたんだねぇ、いいことだ」
乱暴なシーンが目の前で繰り広げられていたにもかかわらず、杉山は相変わらず飄々としながら、そんなやりとりなんて目に入らなかったかのように話を続けていく。
「悠人が……だと?」
「うん。自分が誘ったから中西君を怒らないでくれって頼まれちゃったよ」
「……医師、それもっと早く言ってくよぉ」
先にそれを秀人に伝えていたら痛い思いをしなかったと言外に伝えれば、ニヤリと嗤われた。
「殴りたくなる気持ちは分かるからねぇ。昨日君を殴りたかったのを必死で堪えてたんだからそれでいいじゃないか」
殴りたかったのかよと突っ込みたくなるのを堪えて、痛みに耐えながら椅子を元の場所に戻してまた腰掛けた。
悠人はとにかく安静にして体調を整えていた。血圧と脈拍が安定すれば、手術をする予定だった。成功率五十パーセントの難しい手術を受けるべきかどうか、周囲も見極めていた。
それが成功すれば普通の生活に戻ることができるが、悠人が頑なに拒んでいた。
中西には分かった。それは死ぬのが怖いからではない。成功してしまうことを恐れていたのだ。生きる意味がないと考えていた彼なら、失敗することよりも成功したことの方にも考えを馳せて、その時に家族がどうなるのかを考えたはずだ。
未成年の悠人に選択権はない。保護者が希望すれば手術は行われる。
だから、手術に及ばないよう次の入院で彼なりに決着を付けようとしたのだ。
中西の存在がなければ、もしかしたら悠人の身体は彼の願い通りになっていたかも知れない。それを周囲の大人達は密かに感じていた。特に悠人を研修医時代からずっと見てきた杉山にはすぐに分かった、生きる希望がないことを。
自分の命を粗末に扱う悠人をどうしていいのか手を拱いていたら、タイミング良く現れたのが、中西だった。同性の同級生を「マドンナ」と表現する面白い子だと見つめながら、もしかしたら悠人の生きる希望になるのではないかと、中西に望みを託した。
こんなにまで好きを身体中で表現する中西なら、悠人も絆されるかも知れない。
そのまま生きる希望へとつながり、自分から手術を受けようと思ってくれるかも知れない。初めての友達を得て生きる希望を持ってくれたらそれで充分だと考えていた。まさか恋愛関係に発展するとは思いもしなかった。
「酸素濃度が一旦は随分低かったけど、ステロイドのおかげで随分と戻ってきてるから、数日したら病棟に戻れるはずだよ。だから中西君、手術が終わるまでは『そういうこと』は我慢するようにね。それから……」
矢継ぎ早の説明に慣れているのか、秀人が頷きながらメモに走り書きをしていく。その表情は先ほどよりもずっと怖くて、真剣だった。家族としてただ一人の兄として、今までもこれからも悠人を支えようとする気概がそこにはあった。
(あ、これだ……)
中西は昨日感じた違和感の正体がやっと言語化できた。
覚悟だ。
難しい病気を抱えた悠人の隣にいるための覚悟ができていなかった。好きだという気持ちに振り回されて、それしか見えなかった。クラスメイトの誰かが当たり前のようにしている恋愛と同じに思っていた。好きで、想いを伝えて相手が承諾したら話はそこでハッピーエンドになると考えていた。
本当に大変なのは、付き合うまでじゃなく、付き合ってからだ。
悠人が心臓に病気があると分かっていて、それがどんなものか調べようともしなかった。いつもポケットの中にある携帯電話で簡単に調べられるのに、一緒にいる日々に浮かれてなにもしなかった。
知らなかったからでは許されない。知る努力を誰よりもしなければならなかったんだ、好きだったら。
(俺、気づくの遅すぎだろ……やっぱあの時ガマンすれば良かった)
けれどあれを後悔していない自分もいた。
男同士の恋愛を受け入れてくれただけでも嬉しいのに、こんな自分を全部受け止めて身体を任せてくれた悠人の気持ちに、ちゃんと自分も想われているんだと実感できる。
(次があるなら、今度は痛くないようにしないと)
そのためにするべきことは山のようにある。もっと悠人の病気を理解して彼が一日でも早く手術を受けられるようにフォローしなければ。
決意を固めるためにグッと拳を握りしめた。
一通りの説明が終わった杉山は二人を集中治療室の広い窓へと案内してくれた。
直接入ることはできないが、悠人が眠っているベッドが見える。様々なコードが繋がれた細い手が痛ましい。
もう二度とこんなミスは犯さない。自分に誓いながら僅かに目を開ける悠人に手を振ったが、気づいては貰えなかった。しょんぼりしている中西に、杉山が病室に入り悠人に何かを囁いた。
虚ろな目がこちらを見る。
(よかった……生きてる)
それだけで満足だ。嬉しくて手を振り続ければ青い顔のまま力なく笑いかけてくる。何か声をかけようとして、けれど窓越しでは分からないかも知れないと思いつき、鞄に入れていたノートに大きくマジックペンでメッセージを書いて、それを窓に貼り付けた。
一瞬大きく見開いた目が、次の瞬間笑みで細められるのを見て中西も心配をそっと肩から下ろした。
(悠人が笑ってくれたなら大丈夫だ)
しっかりと彼が分かるように頷き、もう一度手を振る。悠人が側にいる杉山に何か耳打ちをして二人が笑った。なにに笑っているのか窓のこちら側では分からないが、凄く楽しそうだ。
「よかった……悠人……」
そう呟いてノートをしまった。B5ノートを見開きで書いたのは「生きて」それだけ。悠人ならその意味を分かってくれるような気がした。
杉山が集中治療室から出てきたのでなにを話していたのか訊ねた。
「ああ、悠人君から伝言」
「なんですか!」
「字が汚すぎる、だって」
「えー、そこにダメ出し?」
もっと甘くて優しい言葉が貰えるのかと思ったが、弱っていても悠人は悠人だ。憎まれ口が嬉しくて心地良い。
「ここを出たら悠人君から連絡するそうだ。そしたらまた見舞いに来るように、だって」
「わかりましたって伝えてください。じゃあ俺、帰ります」
ここにいても迷惑なのは空気で分かる。集中治療室にいる悠人をいつまでも見守っていたい気持ちのまま行動すれば、余計に負担になってしまうだろう。
もう一度悠人を見て手を振る。ほんの少しだけ悠人の指が動いた気がして、笑顔で頷いた。
「じゃあまた」
頭を下げて出て行こうとする中西を呼び止めたのは秀人だ。
「……さっきは殴って悪かった」
「いえ……殴られるだけのことはしましたから。本当にすんませんでした」
九十度とまではいかなくてもきちんと頭を下げる。
自分にもっと知識があったらこんなことにはならなかった。ないからその負担を悠人に押しつけてしまった。だから謝って当然なのだ。
病院を出て、これからいつ悠人が連絡をしてきてもすぐに取れるようにバイブレータにしていた呼び出し音を悠人の番号だけ音楽つきにする。携帯電話を取り出すたびにそこに揺れるクラゲのぬいぐるみが揺れる。
脳裏に浮かぶのは、半透明の綺麗な本体と同じくらい澄んで綺麗な悠人の顔だ。
「早く良くなれ」
クラゲを握りしめて小声で祈る。
すぐには家に戻らず、学校の側にある大きく古い神社へと向かい、祈りを捧げた。一日でも早く良くなるように。一日でも長く一緒にいられるように。そんな小さな願いを神に託さなければ不安になるほど、心が悠人のことでいっぱいだ。
「早く良くなれ」
クラゲを携帯ごと大きな手で握りこみ、家へと急いだ。勉強して次のテストは絶対に全教科平均点以上取るんだと心に決めて。
ともだちにシェアしよう!