1 / 32
第1話
ラグズシティ市立病院。
寒風が吹きすさぶ十二月の夜だった。
午前一時十六分、救急救命センター(ER)に一本のコールが入った。
男性一人が意識混濁。右上腕部、左大腿部に銃創あり。特に大腿部の出血がひどく、直接圧迫と止血帯で止血中とのこと。
一報を聞いたノエル・ファウラーは治療中だった第一処置室から待機所へ足早に戻った。
繋がったままの電話を取る。
「出血の色は?」
『鮮血です!』
「バイタルは?」
救急隊員から告げられた数字にノエルは眉間の皺を深くした。
受け入れ要請を受諾し、ノエルは同僚に第一処置室の患者を任せ、空いている第二処置室にスタッフたちを集めた。
「緊急輸血の準備だ。動脈損傷の可能性がある。血管造影するかもしれないからCTの用意をしておけ」
「はい!」
指示を受けたスタッフたちが即座に動き出す。
再度、待機所に戻ったノエルは冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、その半分ほどを一気に飲み干した。それからエネルギー補給用のゼリー飲料をずずっと吸い込む。
直前の患者は交通事故の被害者で処置を始めてから三時間が経ち、大方の治療は終わっている。あとは同僚一人で大丈夫だろう。
市内一の規模と設備を誇り、三次救急を担うこの病院には重篤な患者ばかりが運び込まれるのが常だ。
今日も休憩なしか、と思いながらノエルはタオルで額の汗を拭った。
キャップとマスク、ゴーグル、手袋、ガウンをつけ直し、患者の到着を待つ。
十五分後、ストレッチャーで運ばれてきた患者を見たノエルは一瞬、驚いた。
男の髪が、今まで見たことがないほどの鮮やかな赤色をしていたからだ。
しかも、体が大きい。
ノエルも長身だが、細身のノエルと違って背が高いというだけでなく、肩幅が広く全体に厚みがある。
そして、その顔には額から首筋まで続く裂傷の痕が残っていた。一見すると堅気の人間とは思えない雰囲気だ。
ただ、着ているブラウンのグレンチェック柄スーツはウール素材のようで品がある。
ノエルは男の手首を取って脈を確認した。
それはひどく弱々しかった。
呼吸は浅く速い。
顔色は蒼白。
出血性ショックを起こしている可能性が高いと判断したノエルは最悪の事態を思い浮かべた。
看護師たちが男の服を脱がせ――というよりも大胆に鋏 で切って――バイタルチェック用の器具を着ける。
ノエルは男の左大腿を見た。膝から二十センチほど上、やや内側に銃創がひとつ。裏側を確認すると銃弾は貫通していなかった。
そうする間にも傷口からはこぽ、こぽと脈拍に合わせるように少量の血が溢れ出してくる。
「ルートを確保して輸血を始めろ! 造影剤の投与も急げ!」
右腕の傷は二箇所あった。どちらも弾が貫通していたので、そこにガーゼを詰め込み包帯をきつく巻いた。そのまま直接圧迫での止血を続ける。
その場で局所麻酔を打ち、ノエルは手早く大腿の銃弾を摘出した。今はとにかく、この出血を何とかしなければ。腕と同様にガーゼを詰めて包帯を巻く。
動脈損傷ならば出血部分を突き止め、血管を再建する必要がある。
ノエルは男をセンター内のCT室へ送り、操作室でモニターを見つめた。
ノエルの予想通り、銃弾は動脈を傷つけていた。ただ、断裂していなかったことは幸いだった。断裂した血管の再建手術は難度が高い。
しかも、血行再開が遅れれば機能障害が残ったり、最悪の場合は壊死による下肢切断もあり得る。
そして、血管再建にはかなり高度な専門技術が必要だ。
CT室を出たノエルは、読影前に指示しておいたX線検査の結果を見てから、胸ポケットの携帯を取り出した。この春に導入されたばかりの内線、外線両方に対応したスマートフォンだ。
電話帳から『レオナルド・トンプソン』の名前をタップする。こんな時間だから寝ているだろうが仕方ない。十数コールで繋がった相手は血管外科のスペシャリストだ。
『……急患ですか?』
「ああ、悪いがすぐ来てくれないか。銃で撃たれて大腿部動脈損傷だ」
『……わかりました。すぐ行きます』
「オペ室は三番だ。先に入ってるぞ」
『了解です』
電話を終えたノエルは、そのままオペ室へ直行した。
改めて術着に着替え、マスクをして帽子をかぶると一層、気持ちが引き締まった。
肘下から手までしっかりと洗い、抗菌ガウンを着て念入りに手指の消毒を済ませ、二重に手袋をはめる。
ここからが正念場だ。
ノエルはひとつ深呼吸して手術室へ入った。
結果、手術は成功した。
ノエルはまず右上腕の傷の処置に当たった。
幸いというか、弾丸が貫通していたので傷を洗浄し、傷口を縫合するだけだ。
その後、やって来たレオナルドの助手を務めた。血管再建の他にいくつか神経接合の必要もあり、五時間を上回る手術になった。
手術室を出たレオナルドが感心したように言った。
「さすがですね。ノエルの素早い判断がなかったら本当に危なかったですよ」
「それが俺の仕事だからな」
「ノエルは相変わらずクールですねぇ」
ノエルより年上でありながらも丁寧な口調を崩さないレオナルドが、その童顔にくすりと笑みを浮かべる。
「それより、悪かったな。寝てるとこ叩き起こして」
「気にしないでください。それが僕の仕事ですから」
「ははっ、そうか。とにかく助かった。ありがとうな」
「どういたしましてです」
そのまま勤務となるレオナルドを見送る。
窓の外を見ると、夜明けの遅い冬空がもう明るく白んでいた。
一度、待機所に戻ろうとしたノエルだったが、そこに受付スタッフに案内されて二人の男がやって来た。
スーツ姿で一人は頬に傷があり、もう一人は眼鏡をかけた若い青年だ。
傷のある男のただならぬ雰囲気に、ノエルはピンと来た。思った通り、二人は刑事だった。
「市警のドークスだ。こちらは相棒のコリンズ」
「初めまして、ドクター・ファウラー。お疲れのところ申し訳ありませんが、少しお話をお聴きしてもよろしいですか?」
赤髪の男は銃撃事件の被害者だ。こうなることは予想がついていた。
ハードワークのあとでくたくただったが、ノエルは仕方なく二人を医師控室へ招き入れた。
向かい合ってソファに座る。
「それで聴きたいことってのは?」
「まずは被害者の状況ですね。怪我の程度と治療内容をお願いします」
ノエルは一つ溜息をついてから口を開いた。
「…右上腕部に貫通銃創二つ、左大腿部に銃創一つ。大腿部からの出血が酷く、出血性ショックを起こしていた。輸血をして、銃弾を取り出したあと、気管挿管で呼吸を確保し、全身麻酔で手術。貫通銃創は洗浄して縫合。大腿部は動脈損傷が認められたため、血管外科のドクター・トンプソンに来てもらって血管再建と神経接合を行った。以上だ」
立て板に水とばかりに答えると、ノエルは苦虫を噛み潰した。
許可のない拳銃所持は違法だが、ラグズシティには巨大な裏社会がある。ERに配属されてから、こんなことはしょっちゅうだ。
彼らが求めることはわかっている。
ノエルは内線電話を手に取った。
『はい、第二処置室』
「ペインか、患者が身に着けていたものを持って来てくれ。あと取り出した銃弾もな」
『わかりました』
同時期に配属された看護師のペインも慣れたもので、三分もしないうちに大少二つのビニール袋を手にして現れた。
受け取った刑事のドークスは手袋をはめてから、まずは大きな方を検分し始めた。その顔つきがすぐに険しくなる。
「これだけか?」
「そうですよ」
「服しかないぞ」
そう、大きいビニール袋に入っていたのは処置の際にズタズタに切り裂かれた血塗れの衣服だけだった。
身元を示すような物は何もない。
それは、ノエルも処置中に気がついていた。
この寒い夜に運び込まれてきたというのにコートも着ておらず、財布や携帯の類も持っていない。そんな人間がいるだろうか。
絶対に厄介な案件だとノエルは察していた。
小さなビニール袋はコリンズがまじまじと見ている。中にはこちらも血塗れの弾丸が一つ。
「…血液からDNA採取できるだろ。俺たちの仕事は終わった。あとはアンタらの領分だ」
そう言って、ノエルは立ち上がった。
疲れた体は休息を求めていて、強い眠気が目蓋を押しつける。
けれど、まだ眠るわけにはいかない。とにかく苦いコーヒーが飲みたかった。
だが、控室を出ようとしたノエルをドークスは引き止めた。
「被害者の顔が見たい」
「は?」
「顔写真が必要だ」
ノエルはドークスに向き直って、なるべく冷静にと心がけた。
「被害者はICU(集中治療室)に入ってる。当然、しばらくは面会謝絶だ」
「顔写真を撮るだけだ。数分で済む」
「そういう問題じゃない」
「DNAで身元がわかるのは前科がある場合だけだ。写真がなければ話にならない」
「面会の許可は出せない」
「捜査への協力を拒否すると?」
ノエルの額に青筋が浮いた。
これだ。この上から物を言う態度が気に食わない。
警察だから何をしてもいいのか?
すべての要求が満たされて当然なのか?
――勝手なことばかり言いやがって。
これまでの積もり積もった苛立ちのまま、ノエルは壁にドンッと拳を叩きつけた。
「被害者は出血多量で失血死寸前だったんだぞ! 手術はたった今、終わったばかりで容態はまだ安定してない! 血行回復も確認できてない今の状態で感染症でも起こせば命に関わる! アンタは被害者を殺したいのか!?」
ドークスはノエルの迫力に圧されたようで、険しい表情で黙り込んだ。
ノエルの怒声を聞きつけて、待機所から同僚や研修医が、ステーションからもスタッフたちが集まってくる。
「大体、気管挿管したままで酸素マスクつけた顔を撮って役に立つのか?」
もはやドークスに返す言葉はなかった。
「病院 は医者 の領域、医者 がルールだ。従えないなら面会はさせない」
ノエルは止 めとばかりに言い放った。
ノエルの後ろに立つ仲間たちも厳しい視線を向けている。
ドークスは観念したように溜息をついた。
「……では、面会可能になったら連絡をくれ」
ドークスはずかずかとノエルの横を通り過ぎて部屋を出ていった。コリンズが申し訳なさそうに後に続く。
その後ろ姿に見向きもせず、ノエルは自販機エリアに向かって歩き出した。
赤髪の男が意識を取り戻したと連絡が入ったのは、その日の夜だった。
前日に続いて夜勤のノエルが出勤した直後のことだったので、ノエルは夜のカンファレンスが終わったあと、ICUへ向かった。
途中、すれ違った女性の看護師たちが小さく黄色い声を上げる。
若く優秀で、長身、美形と誰もが羨むハイスペックのノエルは、病院内で恋人にしたい医師ナンバーワンと騒がれているのだ。
だが、そんな状況には慣れているので、いちいち相手にはしない。
二階の病棟に到着したノエルは看護師と話して、血行が回復したことと容態が安定してきたことを確認し、教えられた個室へ入った。
なるべく静かにドアを開閉したつもりだったが、枕元に立った気配を感じたのか男の目がゆっくりと開く。
ノエルは咄嗟に息を飲んだ。
――なんて見事なピジョン・ブラッド。
男は髪色と同じ赤い瞳をしていた。
それも、目の醒めるような鮮やかな赤。
男は少し視線を彷徨わせたあと、真横に立つノエルの顔を見上げた。
かちり、と目が合う。
そこに込められた力強さに、ノエルは驚いた。
つい半日前に死にかけていたとは思えないようなギラリとした輝きは、まるで野生の獣だ。
ノエルはその場から一歩も動けなくなった。
まるで吸い込まれるように釘づけになる。
男の目もノエルの瞳を捉えていた。
珍しい、とよく言われる琥珀色の双眸だ。
ノエルの胸がどくどくと高鳴った。ただ言葉もなく見つめ合っているだけなのに、全身の体温が上がっていくのを感じる。
永遠とも刹那とも取れる時間のあと、先に視線を逸したのは男の方だった。
疲れたように目を閉じるのを見て、ノエルはハッと我に返った。
「気分はどうだ?」
自分の職務を全うすべく問いかけた。
気管へ入れられていた管は既に抜かれているから、声は出せるはずだ。
男は億劫そうに口を開いた。
「……いいわけねぇ」
酸素マスク越し、挿管の影響でひどく掠れた声で低く呻く。
「そりゃそうだな」
全身麻酔はそれだけで体に大きな負担がかかる。倦怠感は相当のはずだ。怪我のせいで熱が出ているし、両の腕に数本ずつ点滴の管が繋がっている。痛み止めを投与しているが、傷は痛んでいるだろう。
それでも、生きている。
運び込まれてきた時の血の気を失った顔を思い出し、ノエルは心の底から安堵した。
ERを志望したのは自分の意志で、それが困難な道だということは覚悟しているはずだった。
それでも救えなかった命に向き合うたび、ノエルの心は軋んだ叫びを上げていた。
慣れることなど、できない。
そして、慣れてはいけないと思う。
「明日になれば熱も下がるだろうし、何日かすれば点滴も外れる。それまでの辛抱だ」
ノエルはよしよしと男の頭を撫でた。
存外に柔らかい髪を梳き流してやると眉間に皺が寄った。
「……ガキじゃねぇぞ」
「文句を言う元気があるなら大丈夫だな」
軽口を言って、ノエルはその場を後にした。
もう少し側にいたいと心の奥から声がしたが、公私混同はいけない。
その声に蓋をして、ノエルは自分の居るべき場所へと向かった。
※ピジョン・ブラッド:ルビーの最高級品。『鳩の血』という意味。
ともだちにシェアしよう!