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第2話

 赤髪の男が入院して二日目。  病院側は困った事態に直面していた。  男が頑として名を明かさないのだ。  治療に必要な会話はするが、それ以外のことでは絶対に口を開かない。  どれだけ質問を繰り返しても全て無視で、医師も看護師も、ついには職員も匙を投げてしまった。  結局、男はミスターレッドと呼ばれることになった。  実はミスターレッドが意識を取り戻したあと、スタッフの間でひと悶着あった。  彼のことを警察に連絡するかどうかだ。  身元のわからない怪しげな男のことを職員が心配するのは仕方がない。  だが、連絡すべきという意見に最初に反対したのはノエルだった。  容態はまだ安定しきらず、事情聴取に耐えられるだけの体力もないと判断したからだ。  ICUの担当医も賛成したため、最終的に警察へ連絡するのは一般病棟に移ってからということになった。  それが仇になった。            ミスターレッドが入院して四日目、一般病棟に移ったその日に事件は起きた。  午前中、外科病棟の個室に入ったはずの彼が午後、刑事のドークスたちが到着した時には忽然と姿を消していたのだ。  ドークスの指示で病院内での大捜索が行われたが、目撃情報すら出てこなかった。  ノエルにもその一報が入ったが、ちょうど休日だったので詳しいことがわかったのは休み明けのことだ。  看護師のシャーニーが聞いてきた話では、昼食を運んだ時はまだベッドに寝ていたそうだ。  だが、その一時間後、ドークスたちが着いた時には部屋はもぬけの殻になっていた。  ご丁寧なことに、ベッドサイドテーブルの引き出しの中に、治療費と思われる帯封をされたままの札束が数個、置いてあったという。  その日の内にその個室は鑑識による現場検証が行われたが、ベッドなどからは指紋を拭き取った跡が見つかったそうだ。  つまり計画的な行動だったということだ。  そして、共犯がいるのも間違いない。  後日、病院側は監視カメラの映像を提出させられ、スタッフ内に協力者がいないか取り調べを受けた。  だが、協力者は見つからず、監視カメラの映像にも怪しい人物は映っていなかったことがわかった。  余りにも用意周到、そして狡猾。  そこから警察が導き出したのは、ミスターレッドがマフィアの幹部だったのではないかということだった。  ラグズシティには、その裏社会を一手に牛耳る大きなファミリーがある。その力があれば、これくらいのことはしてのけるという推測だ。  ERとICUの医師と看護師は似顔絵の作成に協力させられた。  当然、ノエルも呼び出されたが、ドークスに盛大な嫌味を言われたのは業腹だった。  ノエルは自分たちが責められる筋合いはないと考えている。何故なら連絡は午前中にしてあったからだ。  その時、すぐに駆けつけていれば逃げられることもなかったはずだ。  そんなことよりも、ノエルにとって気がかりだったのはミスターレッドの容態だ。  あと一週間は絶対安静にしていなければいけない状態だった。もし傷口が開くようなことがあれば後遺症が残ってしまうかもしれない。  そもそも、あの怪我で動くこと自体が命取りとも言えるのだ。  彼がどんな経緯で撃たれたのかは知らない。  もしかしたら誰かに恨みを買っていたのかもしれないし、それこそマフィア同士のトラブルだったのかもしれない。  だが、そうだとしてもノエルにとっては必死に救った一つの命だ。  犯罪者だというなら罪を償うのは当然。  けれど、それも生きていればこそだ。  一介の医師でしかない自分には彼を探す術はない。  だから、どうか無事に生きていてほしい。  ノエルの瞼に蘇る鮮烈な赤。  あの強い輝きを、もう一度見たいと思った。            それから三ヶ月。  一、二月には雪が降ることもあるラグズシティだが、三月に入ると昼間はぽかぽかとした陽気に包まれる。  街路樹が青い葉を茂らせ始め、歩道に設置された花壇にも色取り取りの花が咲くようになっていた。  非番のノエルは自宅の最寄り駅であるマンソン駅へ向かっていた。  歩きながら思い出していたのは生まれ故郷のことだった。今頃はまだ雪が消えずに残っているだろう。  ノエルはもともとラグズシティの出身ではない。遠いノース大陸のフォルロアという街で生まれた。  両親がともに医師で、三歳下に妹がいる。個人病院を営んでいる両親を見て、自分も医師を目指した。  そんなノエルがラグズシティにいるのはハイスクールの卒業旅行で訪れた時に、この街を大層気に入ってしまったからだ。  フォルロアは鉱業で有名な街で、それなりに栄えていたが都会というには物足りない場所だった。  それに比べてラグズシティは人口四百万人を越える一大港湾都市だ。  といっても高層ビルが立ち並ぶ中心街を少し離れると大きな公園がいくつも点在し、緑の溢れる美しい場所もある。  観光名所であるベイエリアにはランドマークになる建物が多く、夜になると夜景が素晴らしい。  他国からの移民が多く、多国籍なエリアも多い。異国の珍しい文化に触れる機会が多いのも魅力的だった。  一年を通して気候が温暖なところも良く、医大を卒業後、渋る両親を説得して移住してきたのだ。  ノエルが今から向かおうとしているのは、中心街から西側にある多国籍エリアのひとつ、ニュータウンだ。  そこにノエルが贔屓(ひいき)にする古書店がある。  各分野の、今はもう絶版になったものも多く取り揃えられていて、珍しい本が手に入る貴重な店だ。読書が趣味のノエルにとって、最高の宝探しができる場所だった。  電車に乗れば二十分ほどでニュータウン駅に到着する。  そこから徒歩で更に十分ほど歩くのだが、その道程でノエルは見つけてしまった。  前を歩く人波の中、頭ひとつ飛び出た鮮やかな赤を。  気づいたと同時に、ノエルは駆け出していた。           「ミスターレッド!」  声をかけて左腕に手を添えた瞬間、ノエルの手は強く振り払われた。 「っ!」  逆に手を取られ、ノエルはあっという間に建物と建物の隙間に引っ張り込まれてしまった。  両手をまとめて頭上に捻り上げられ、壁に向かって背後から体を押しつけられる。 「いっ、何すんだよっ!?」 「……何者だ」  ノエルの抗議に耳元へ返ってきたのは、ぞっとするほど低く冷徹な声だった。  本能が警鐘を鳴らす。 「俺は医者だ! ERであんたを治療した…」  慌てて言うと、拘束していた手が緩んだのでノエルは男に向き合った。  ミスターレッドは緩くウェーブした髪を耳下まで伸ばし、重めで長い前髪をやや右寄りで分けていた。  右側は後ろに流し、左側は下ろして顔の傷痕をうまく隠している。そのせいで左眼はほとんど見えていなかった。  陶器のように白い肌に赤い髪がよく映える。  そして、あの夜も思ったが、着ているものが上等だ。  ライトグレーのスリーピーススーツに、黒・白・グレーのレジメンタルタイを合わせているが、体へのフィット感を見るに、スーツはおそらくオーダーメイドだろう。  一見すると上流階級の人間にも見えるような落ち着きがある。  だが、纏う空気は全く違う。  そこには他者を一切寄せつけない、寒気のするような冷たさが満ちていた。  まるで触れた場所から凍ってしまいそうなほどの冷気。  ノエルはその圧に負けそうになりながらも、じっと男を見つめた。  それなりに長身の部類に入るノエルが見上げる相手は少ない。が、彼の目線はノエルより頭半分ほども上にある。  見下ろされて落ち着かない気分だったが、目を逸らすことはしなかった。 「……ああ、あの時の」  どうやら思い出してくれたらしい。  意識が戻ってから顔を合わせたのは、ノエルがICUに行った時の一度だけだ。  しかも、まだ朦朧としていた時だったから覚えてもらえていて正直、嬉しい。  だが、男の態度はどこまでも冷淡だった。 「それで、何の用だ」  ノエルを見るルビーの瞳はあの時とは打って変わって無感情で、それがかえって恐ろしさを感じさせる。  だが、ここで怯んだら負けだ。  ノエルは生来の気の強さを発揮した。 「あんたの診察をしたい」  はっきりと告げる。  これには相手も虚をつかれたらしい。 「は?」  言っている意味がわからないという顔。  だから、ノエルはゆっくりと言い直した。 「傷の診察をして、経過を確認したい」  この男のことはずっと気になっていた。  あんな大怪我をしていたにもかかわらず、病院から消えてしまったのだ。色々な意味で気にならない訳がない。  ただ、一番の理由は個人的な興味だということをノエルは自覚している。  だが、それはそれとして医師としての責任感が今は最優先だ。 「……その必要はない」 「何で!?」 「傷はもう治った。特に後遺症もない」 「本当か!?」 「俺の歩き方に問題があったか?」  逆に問われて、ノエルは自分が追いかけた後ろ姿を思い返した。  確かにおかしなところはなかった。  左右のバランスはきちんと取れていたし、ふらつきや引きずる様子もなかった。歩くのが速かったから歩幅にも異常はないのだろう。  ノエルは『はああ』と大きく息を吐いた。 「良かった…、本当に良かった」  ノエルの口から出たのは安堵の言葉だった。  心の底からそう思った。  ミスターレッドは予想外の反応にわずかに目を瞠った。 「……そう思うのか?」 「当たり前だろ!」 「俺がどんな人間か知っていてもか」  ノエルは一瞬、言葉に詰まった。  確かにこの男は普通じゃない。マフィアの幹部かもしれないし、犯罪者かもしれない。  ――それでも。 「あんたが生きてて良かった」  きっぱりと言い切った。 「あんたがどんな人間だとしても、簡単に死んでいい奴なんかいない」  そう思うからこそ、医師という仕事を続けていられる。 「あ、まさか大量殺人鬼とかじゃないよな? そうなるとちょっと…」  ノエルが思いつきで言うと、男はその冷たい瞳に意味ありげな色を浮かべた。 「…もし、そうだとしたらどうする」 「えっ」 「次の犠牲者はお前かもしれないぞ」  ノエルはその場で固まってしまった。何となく言っただけなのに、自分は命を狙われるのか?  助けてやったのに恩を仇で返されるなんてあんまりだと、ノエルはキッと男を睨みつけた。  すると、男はふっと口元を綻ばせた。 「…冗談だ」  突然見せられた笑顔がどこか優しくて、ノエルは思わずぽかんとしてしまった。 「……そうか、なら、いい」  呆然と呟いて、いいのか?いや、やっぱりだめじゃないか?と考える。男の笑顔にびっくりしすぎて思考が(まま)ならなかった。  一人で百面相をしているノエルを少し可笑(おか)しそうに見遣ってから、ミスターレッドは再び表情を引き締めた。 「用は済んだな」  踵を返そうとした男の腕をノエルは思わず引き留めた。 「…何だ?」 「えっと、そう、名前! あんたの名前が知りたい!」 「知ってどうする。警察にでも言うつもりか」 「そんなんじゃない! ただ、いつまでもミスターレッドじゃ落ち着かないだろ」  我ながら格好悪い理由だと思ったが、上手い言い訳が思いつかなかったから仕方ない。  ノエルは大真面目だったが、男はにべもなかった。 「教える義理はない」 「そんな…」 「俺のことは忘れろ」  ミスターレッドは冷たい声でそう言うと、身を翻して行ってしまった。  威風堂々とした後ろ姿。  前から歩いてきた人たちが自然と道を開けていく。  ノエルは路地から出て、その影が見えなくなるまで、その場で立ち尽くした。

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