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第3話

 ミスターレッドとの再会から約一週間。  ノエルは変わらぬ毎日を送っていたが、あのどこまでも冷たい赤に受けた衝撃からは抜け出せずにいた。  ICUで目を合わせたのは、本当にあの男だったのだろうか。  そう考えてから、ノエルはあれが『本来の彼』なのかもしれないと思い直した。  あの時は目を覚ましたばかりで意識がはっきりしていなかった。ノエルへの視線はきっと本能的なものだったのだろう。  だが、それならあの笑顔は?  思わず、といった感じの表情。あれだって、きっと男の素顔だったに違いない。  冷徹な中に垣間見えた柔らかさが、どうしてもノエルの心をかき乱す。  けれど、彼は『忘れろ』と言った。  それは、もう二度と会うことはないという宣告だ。  そのことに、ノエルは自分でも驚くほど落胆していた。  たった二度、言葉を交わしただけの相手。どう考えても堅気の人間ではないのだから、関わらない方が身のためだ。  わかっているのに、心の中にまた会いたいと願う気持ちがある。  あの鮮烈な赤に惹かれている。  どうしようもないほどに。  ノエルは自分の心を持て余したまま、陰鬱な気分に沈んでいた。            悶々とした思いを抱えたノエルは、夜勤を終えたあと一度、家に戻り仮眠を取った。  それから、中心街から南東に位置するキングスストリートに向かう。  翌日は完全な非番。  気分転換がしたかった。  既に日はとっぷりと暮れて、通りには大勢の人々が行き交っている。  キングスストリートはラグズシティでも有数の繁華街で、夜でも煌々とネオンが輝く場所だ。  あまり治安は良くないが、古くからある街なので、レストランやバーなどの隠れた名店が点在している。それを目当てに訪れる観光客も多い。  適当なカフェで夕食を済ませたノエルは外に出てぶるりと身震いした。  春とはいっても、まだ三月だ。昼間の陽気が嘘のように、冷えた空気が肌を撫でる。  ノエルはブルゾンの前をしっかり閉め、明るい表通りから逸れて裏通りに入った。  目的地は以前から気になっていた老舗のバーだ。人伝(ひとづて)に聞いてから、ずっと行ってみたいと思っていたのだ。  だが、場所がわかりにくいと言われていた通り、なかなか辿り着けない。  うろうろしている間に、何度も知らない人間に一緒に飲もうと誘われて、うんざりしてしまう。  結局、二十分ほど迷いに迷って見つけたバーは、何故か二階に入口があるビルの地下にあった。  いつ故障で止まってもおかしくないような古びたエレベーターに乗り、地下一階へ。  そのバーは通路の一番奥にあった。  軋んだ音を立てるドアを開けると、くすんだ漆喰の壁と年季の入った板張りの床に囲まれた、箱のような空間が現れた。  その瞬間、ノエルはこれ以上ないくらい目を見開いた。  思ったよりも明るい店内。  そのL字型カウンターに、見間違うはずもない鮮やかな『赤』があったのだ。  ノエルは雷に打たれたように動けなくなった。  ――どうして、今、ここに?  呆然としていたのは少しの間だけで、ノエルは迷いなく男に歩み寄った。  これを天命と呼ばずして何と呼ぶ。 「よう、邪魔するぜ」  返事を待たずに右隣のスツールに腰かけた。  ミスターレッドはちらりと横を向いたが、特に何のアクションもしなかった。  そのまま顔を戻すと、無言のまま手にしたテイスティンググラスを傾ける。どうやらウイスキーをストレートで飲んでいるようだ。  ノエルはマスターにジントニックを頼んで、視線を彼に向けた。  今日は濃紺のスーツに身を包んでいる。  合わせているのは光沢のある小紋柄のグレーのネクタイで、それが知的な印象を醸し出していた。  高い鼻梁が目を引く、精悍な横顔。  よく見ると睫毛も赤い。  ただ座っているだけなのに、他を圧倒するような存在感があった。  それなのに、こんなに近くにいても。  手を伸ばしても触れられない、冷たい炎。  やや険しい表情をしているのを無視して、ノエルは話しかけた。 「どうやら俺たち、縁があるみたいだな」 「そう思いたいなら勝手に思え」 「命の恩人に対して冷たくないか?」 「助けてくれとは頼んでない」  取りつく島もないとはこのことか。  だが、こんなチャンスはもう二度とないだろう。諦める訳にはいかない。  とはいえ、しつこくするのは逆効果だ。  ノエルは黙って店内を見回した。  百年以上の歴史があるバーだ。著名人のものと思しきサインが飾られている。  だからといって高級感たっぷりという訳ではなく、明るい色調のカジュアルな雰囲気。  レトロなポスターがあったり、奥にある書棚にはカラフルな背表紙が並んでいる。  かと思うと、手前には戦闘機などを扱う厳つい雑誌が置かれていた。  そして、流れているのは大昔に流行っていた、かろうじて聞き覚えのある物哀しげなR&Bのレコードだ。  色々なものが雑多に混じり合った不思議な店は、どう見ても隣の男にはそぐわない。  客は十席ほどあるカウンターに他に二人、テーブル席は三つ埋まっている。  二人掛けのテーブル席はいつから使っているものなのか、角が白く擦り切れていた。  ノエルは程なくして出てきたジントニックに口をつけた。 「……美味い」  店はちぐはぐだが、味は本物だ。  ジン独特の香草類の味と香り、トニックウォーターの甘み、ライムの爽やかさが見事に調和している。  しっかりとカクテルを味わいながら、ノエルは隣の様子を窺っていた。  グラスの中のウイスキーはだいぶ減ってきている。  もしかしたら、飲み終わったら帰ってしまうかもしれないとノエルは危惧した。  興味のない相手に言い寄られることほど迷惑なことはない。自分だったら、さっさとこの場を離れようと思うだろう。  哀しいかな、今のところミスターレッドはノエルに何の関心もないようだ。ノエルもそれは痛いほど感じている。  けれど、だからといって簡単に諦められるほどの浅い気持ちではない。  改めて男の存在を感じると、自分の心の奥から湧き上がる欲がある。      もう一度、見つめられたい。  あの、獣のような目で。      ノエルは数年前から愛用しているスクエア型の革製バックパックから名刺入れを取り出すと、カードを一枚抜き取った。  名前だけを記した名刺(ソーシャルカード)だ。しばらく使っていなかったが、入れっ放しにしておいて良かった。  そこに携帯番号を書き込む。 「自己紹介がまだだったな」  ノエルはカードを差し出した。 「ノエル・ファウラーだ。よろしく」  どんな反応が返ってくるだろうと思った結果、男は見向きもしなかった。  これにはノエルも参ってしまった。さすがに心が折れそうだ。  どうやっても駄目なのか?  可能性はゼロなのか?  今はまだ大層なことを望んでいる訳じゃない。ただ、何でもない会話を交わしてみたいだけだ。  それからお互いのことを知っていって、それで特別な存在になれたらという淡い願望。  男女の区別なく引く手数多だったノエルは、ここまで無下に扱われた経験はなかった。  男が頑ななまでの異性愛者である可能性が浮かんで、ノエルは肩を落とす。  そんな打ちひしがれているノエルを横目に、ミスターレッドは財布を出した。  一万リブラ札を二枚置いて、釣り銭を貰わずに席を立つ。  まずい、想定していた最悪の展開だ。  ノエルも慌てて会計を済ませると、カウンターに置き去りにされていたカードを手にして店を出た。  通路に出ると、既に男の姿はない。  急いでエレベーターに向かうが、それは動いていなかった。階数がこの地下一階で止まったままだ。  周囲を見回すと、奥に階段が見えた。  ノエルは間髪入れずに駆け出した。  階段を二段飛ばしで上がる。  二階に着く寸前で、ノエルは男に追いついた。 「ちょっと待てって…!」  足音で気づいていたのだろう。  男はうんざりした風に振り返った。 「……しつこいな」 「悪いな。俺も自分がこんな執念深いとは知らなかったよ」  一段上にいる男を見上げて、ノエルは苦しげに笑った。  ノエル自身にも本当にわからない。どうしてここまで必死になっているのか。  執拗に迫られることはあっても、その逆は人生で一度もなかった。  ミスターレッドは小さく溜息をついた。 「お前はゲイか?」 「いや、バイだ」 「なら相手には不自由してないだろう」 「言い寄られるのにはもう飽きたよ」  ノエルが(うそぶ)くと、男はもう一度諦めのような溜息を吐き出して、上着の内側に手を入れた。  ノエルは密かに身を固くしたが、そこから現れたのは黒いレザーの名刺入れだった。  男はカードを一枚取って裏返すと、万年筆で何かを書きつけた。 「三十分以内にここへ来い」  そう言って、カードをノエルに渡す。  それからノエルの手に握られたままだった彼のカードをひったくって、ぞんざいにポケットにねじ込むと踵を返して行ってしまった。  その場に取り残されたノエルはカードに目を落とした。  ようやくミスターレッドの名前がわかった。    『キース・C・マクレガー』    ノエルは小さな声で、その名を呼んでみた。  何ともしっくりくるのは何故だろう。  光沢感のある紙にモノクロームのシンプルなデザインがされたカードだが、驚いたのはその下にあった情報だ。 『Stein Co. Ltd.   Managing Director』  ――MD(社長)!?  ノエルに渡されたのはビジネス用の名刺だったのだ。  てっきりマフィアか何かだと思っていたし、本人もそれを匂わせる言動をしていたのに、これは一体どういうことだ。  いわゆる表の顔というやつだろうか。  裏組織の人間がカモフラージュで架空の会社を作っているという話は聞いたことがある。その類かもしれない。  だが、名刺にはきちんと住所や電話番号が記されている。ということは、これは本物か?  そこまで考えて、ノエルは我に返った。  カードを裏返すと、そこには流麗な文字で『Stein hotel 1601』と記されている。  キースの台詞を思い出したノエルはすぐさま携帯の画面を開いた。  聞いたことのないホテルだが、会社と同じ名前ということは何らかの関係があるのだろう。  検索すると、場所はすぐにわかった。  中心街にある主要駅のひとつ、ホールウェイ駅から歩いて約十分の、ベイエリアに近いホテルだ。  ただ、徒歩十分と記されているが、実際にはそれ以上かかると思った方がいいだろう。  キースの要求は『三十分以内』だ。  ノエルはタクシーを呼ぶか電車にするか迷ったが、頭の中に地図を広げると数秒で答えは出た。  タクシーならホテルに直行できるが、幹線道路を通るから混雑していたらきっと間に合わない。  電車一択。  ノエルはビルを出て、駅に向かって走り出した。  最寄り駅までは歩けばたぶん七、八分。そこからホールウェイ駅まで十分ちょっと。  構内を抜けるのにも時間がかかるから、リミットまでに辿り着けるかどうかは五分五分といったところか。  駅舎に入ると、幸運なことに電車が到着する直前だった。  ICカードを使って、ほとんどスピードを落とさずに改札を通り抜けると、ノエルは文字通りホームに入ってきた電車に飛び乗った。  ぜえぜえと息を切らせるノエルに周囲の視線が集まったが、気にする余裕はない。  周りの関心もすぐに消えるとわかっているから、ノエルは再び携帯を手に取った。  ホールウェイ駅からホテルまでの経路を入念に確認する。  どうやら大通りを行くのが良さそうだ。最短ではないが、裏道を通って突発的なアクシデントに巻き込まれても困る。  自慢の記憶力でルートを完璧に頭に叩き込み、ノエルはついでにとホテルの公式サイトを開いた。  ホールウェイまであと二駅。            電車を降りたノエルはごった返す人波を掻き分けて、やっとのことで改札を抜けた。  中心街の駅だけあって、降りる者も乗る者もかなり多い。駅構内も混んでいて、ぶつからないよう人の間を縫って歩くだけで一苦労だ。  駅舎を出るまでに思ったより時間がかかってしまった。  ノエルは急き立てられるように走り出した。  通りに沿っていくつものビジネスホテルが並び建っている。  ラグズシティは観光地としての人気が高く、一年の来訪者が人口を越える。そのためホテルの数が多いのだ。  スーツケースを引く観光客たちをするすると(かわ)しながら、ノエルは目的地を目指した。  こんなに走るのはハイスクールでサッカーをやっていた時以来だ。だんだん息が上がってくる。  ERの激務に耐えられるだけのスタミナはあるが、それとこれは別だなと思いながら、ひたすら足を動かした。  寒かったはずが、徐々に熱くなってきて汗が滲んでくる。ノエルは閉めていたブルゾンの前を開けた。  そのまま五分ほど走って、やっと目的のスタインホテルが見えた。  駅から近いとは言えないのに、それなりの宿泊料金を取るんだなと思っていたが、まだ真新しい近代的なホテルだったから納得だ。きっと色々と設備が整っているのだろう。  ノエルはスピードを落として、車寄せの部分に足を踏み入れた。  やはりドアマンがいる。  宿泊客でもない自分が入ろうとすれば止められるのが当然。  そこで一か八か、「ミスター・マクレガーに会いに来た」と言ってみるとすんなりと通してくれたから驚きだった。  やはりキースはホテルの関係者なのだ。  それもかなりの重要人物。  ふと、こんなこともよくあることなのかもしれないと思ったが、考えている暇はない。  ノエルはモダンなシャンデリアが吊るされ、黒い革張りのソファが並ぶ高級感あるロビーを横切って、エレベーターに向かった。  三基全てが途中階で止まっている。  昇降ボタンを押して待つが、その一分一秒が惜しかった。  やっと到着したエレベーターに乗って十六階へ。  ホテルの最上階が十七階だから、きっと特別な部屋だろう。  息を整えながら携帯で時間を確認した。  リミットぎりぎりだ。  エレベーターを降りたノエルは部屋の配置を記したボードを見て、1601号室へ急いだ。  部屋は東側の一番端。  ドアをノックしたら、ノエルの中で急激に緊張感が高まった。  来いと言われたから来たけれど、そもそもキースはどういうつもりでここへ呼びつけたのだろう。  ノエルとしては話をするだけでいいと思っているが、キースは違うかもしれない。  そう思うと心臓の音が煩くなってきた。  ドアの前で深呼吸しながら待つ。  ところが、一向に開く気配がない。  まさかタイムリミットを過ぎたのか!?と焦ったノエルがもう一度、強めにドアを叩く。  やや間が空いて、ようやくドアが開いた。  キースはスーツ姿ではなく、白いバスローブを着ていた。 「よく間に合ったな」  そう言って、少し皮肉げに笑った。      

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