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第1話 かけがえのない日常*

「アルーシャ! 今日のぶ……ん……」  元気よく開けられたドアと同時に、飛び込んできた声。  だが終いまで言う前に、中にいた人物の冷ややかな眼差しに、元気をなくしてしぼんでしまった。夕日をきらきらと反射して輝く青い短髪も、心なしかシュンとしおれて見える。 「ラングレン」 「……ごめん」  咎めるように名前を呼ばれた青年は、その大きな体躯を縮こませて家の中に入ると、扉をそっと閉めた。 「いつも言っているでしょう。びっくりさせないでくださいと」  後ろに束ねた長い金の髪を揺らして、中にいたアルーシャは入口に立ったまましおれている恋人の方へ向き直った。何度言ってもすぐ忘れるラングレンには困ったものだが、叱られてシュンとしているその姿はなんとも言えずくすぐられるものがある。  とはいえ、アルーシャもいたずらにラングレンを叱っているわけではない。  アルーシャは、この町で薬師をしている。  病を扱うものとして治癒魔術師も存在はするが、その施術に見合う対価を払うことができるのはごく一部の貴族などに限られた。それ以外の大多数は医師と薬師に頼るのが一般的で、特に常駐する医師のいないような小規模な町では、薬師は重宝される存在だ。  首都の大学で薬草学を専攻したアルーシャは、卒業後この町に拠点を移した。  研究に精を出すかたわら、この辺り一帯の町や村の住民向けの実用的な薬の精製も行っている。主にその対価で生計を立てている形だ。  魔術の素養もあったアルーシャには、学生時代そちら方面からの熱心な誘いもあった。  だが、いかんせん魔術師という種類の人間は人付き合いにおける感性が非常に独特で、アルーシャはどうにも苦手だった。実際顔も名前も知らない魔術専攻の学生から、熱烈な告白とも脅迫文とも取れる手紙が届いたこともある。  どう考えてもそちらへ進むメリットが感じられなかったアルーシャは、魔術は日常レベルの基礎を学ぶにとどめ、自分は薬草と向き合っている方がよっぽど楽しいからと、惜しまれつつあっさりと首都を去ったのだった。  アルーシャの1日は、自宅兼研究所であるこの家の一部屋を使って、首都から取り寄せた最新の論文を片手に行う新たな薬の開発実験や、住民の要望を受けての薬の精製作業を行うことで過ぎていく。作業中は細心の注意を払い、一つの些細な変化も見逃さない集中力が求められる。つまり、いきなりドアを開けられて大声を出されてはかなわないのである。  この少しばかり元気が良すぎるところが、公私ともに自分を支えてくれている大切なパートナーである、ラングレンの唯一の欠点といっても良かった。  2人が暮らすここは、山麓の町、レッキア。別名、「月の加護を受けた町」。  首都ガレから、馬車でおよそ1日の距離にある、小さな町だ。  別名の由来は、満月の夜に花を咲かせるリヨンという薬草で、ここレッキアでしか採ることができない。  不眠や神経症の緩和、興奮を鎮めるのに抜群の効き目があり、貴族から平民まで、文字通り誰でも一度はお世話になったことがあるほどに普及している薬草である。  レッキアの経済は、リヨンの流通によって支えられていると言っても過言ではなかった。  リヨンだけでなく、レッキアには他にも病や体質改善によく効くさまざまな薬草が名産として知られている。アルーシャがこの町を研究拠点にすることにしたのも、それが理由だった。  アルーシャもラングレンも、もともとこの町の出身ではない。  アルーシャは北方の出、ラングレンは首都を囲む下町の育ちだ。大学時代のアルーシャに、首都で料理屋の見習いをしていたラングレンが一目惚れをし、辛抱強く口説き落として恋人になった。  ラングレンはアルーシャを何かと「高嶺の花」扱いし、自分ばかり惚れていると思っている節がある。確かに自分より5つも年下のラングレンからの好意を、アルーシャも最初は全く本気にせず適当にあしらっていたのは事実だった。  母ゆずりの北方らしい色素の薄い髪と肌は人目を引くのか、それ目当てで言い寄ってくる者たちが多く、それを当時のアルーシャがひどく煩わしく思っていたのも大きい。  だが、ラングレンがそういった俗物どもとは違う、清々しく眩しいほど真っ直ぐな魂の持ち主であることを次第に知っていったアルーシャは、生まれて初めて胸の内からじわじわと燃え焦がされるような感情を経験した。  今では、アルーシャの方もラングレンのことを言えたものではない独占欲を胸の内に飼っているのだが、そのことにラングレンはあまり気づいていないようである。 「まあ、今日はどちらにしても、もう終わりにしようと思っていたところでしたから」  そう言ってアルーシャは結んでいた髪を解いて頭を軽く振り、仕事着にしている白い上衣を脱いだ。 「そうなのか? なんなら、まだ俺もう少し……?!」  最後まで言わせず、アルーシャがつい、とラングレンの頬を両手で軽く挟む。そのままふわりと引き寄せて、唇を重ねた。  カシャン、とアルーシャの顔から外された眼鏡が机に放られた音。  一気に、部屋の中の空気が濃くなる。 「……ん……」  ちゅっ、ちゅっと濡れた音を立てて、何度も、何度も唇をついばむように。  手のひらに、唇に、絡ませた舌に感じるラングレンの熱が、アルーシャの体内にじわりと広がる。  どさ、と荷物を床に落としたラングレンの大きな手が、アルーシャの後頭部に回って、頭を抱え込むように抱きしめられた。 「どした……?」  キスの合間に囁かれる。細められた翡翠の瞳は、アルーシャに煽られて獰猛な光をちらつかせ始めた。  甘くトーンを落としたラングレンの声は、ずるい、とアルーシャは思う。  普段の元気で明るいラングレン青年の顔はなりをひそめ、どこまでもアルーシャを甘やかして絡めとる、危険な肉食獣が姿を現すのだ。  本人はあまり自覚していないようだが、ラングレンはモテる。  それこそ、老若男女向かうところ敵なしに全方位からモテる。  本職はアルーシャの作る薬の販売だが、それ以外にも御用聞き、便利屋、用心棒など、頼まれればなんでもこなす。  その親しみやすさと頼もしさは、町中の誰からも好かれていた。  通りがかりに小さな女の子からお花をもらったかと思えば、頼まれごとをきいたおばあちゃんから山盛りの焼き菓子の籠を持たされて帰ってきたこともあるし、男連中からもしょっちゅう遊びの誘いがかかる。  そんなラングレンに、アルーシャはいつも少しだけやきもちを焼く。  ラングレンが皆に好かれるのは、間違いなく良いことだ。  あまり人との交流が得意とは言えない自分の分まで、ラングレンが町の皆とうまくやってくれていることで、助かっている部分も大いにある。そう頭では分かっている。  もう出会って8年になるというのに、自分の心の中にいまだにこんな狭量な部分があるのを、アルーシャは忌々しく思っていた。  このまっすぐな男の目には自分しか映っていないと十分すぎるくらいわかっていても、毎日のように今日はこんなものをもらった、こんなことを褒められた、と嬉しそうに話してくれるのを聞くたび、チリリと心の底が焦げるような思いになるのだ。  だから。  アルーシャを誰より大事に思っていてくれて、その意志を何よりも尊重してくれているからこそ、もう少し外で用事を足してこようか、という発言になるのだと分かってはいても。  ——今日はもうこれ以上、私以外の誰かに愛想振りまいてくることはないでしょう?  そんな思いを悟られたくなくて、性急にラングレンを求めてしまう。  口づけを止めぬまま、服を脱ぎ捨てて、もつれ合うように寝室へ向かった。 「……ッん、ぁ……」  緩やかな突き上げに、声が溢れた。  慈しむように、抱かれる。これでもかと愛を注ぎ込まれる。  肌が触れ合うところから、溶けるような幸福感が広がっていく。  少し眉を顰めたラングレンの顔にまた、煽られ。  腹の奥がきゅうっと中にいるラングレンを締め付け、わきおこる甘い痺れに背筋を震わせた。 「あッ、あ、あ……ぁ」  自分のものとも思えないような甘ったるい声が、ふたり分の熱気のこもる部屋に響く。  達した余韻に、吐息が震えた。  息を詰めるようにして、ほとんど同時にのぼりつめたラングレンが、どさりとアルーシャの上に覆いかぶさってくる。初夏の陽気に汗ばんだ肌が、どちらのものかわからなくなるほどにとろけあって、その熱と重みが愛おしくて。  こうしていると、小さなヤキモチも、不安も、全部溶けて消えていくようだった。  ずっと、こうして1日1日を生きて、少しずつ年を重ねて、いつかの別れの時まで、この愛しい男のそばに自分はいるのだろうとアルーシャは思っていた。  ——ある日突然、ラングレンが原因不明の高熱を出すまでは。

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