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第2話 異変
「熱冷まし、作ってきましたよ。飲めそうですか?」
「ん……あり、がと……ッゲホ、ゴホッ」
起きあがろうとした拍子に、うまく息を吸い込めなかったのか咳き込むラングレンに、アルーシャが慌ててカップを置いて背中をさすった。
——もう、10日になる。
その日の朝は、特に変わったことはなかったはずだった。
いつものようにラングレンは、アルーシャが前の日に精製した薬と宛先や金額の書いてある冊子を持って、元気に家を出て行った。
そして、太陽が真上から少し西へずれ出す頃。
そろそろ休憩するか、とアルーシャが作業机から顔を上げたのと、ほぼ同時だった。
表のドアに何か重たいものがぶつかるような、鈍い音がした。
何か予定外のことがあって、ラングレンが戻ってきたのかとアルーシャが玄関に向かおうとしたその時、ドアが軋むような音を立てて開いた。
その隙間から、まるで中身の詰まった重い麻袋がせり出してくるように、ラングレンの身体が玄関の床に崩れ落ちる。
駆け寄ってラングレンを抱き起こしたアルーシャは、触れた肌の熱さにぎょっとした。
——なんてひどい熱……!
意識を失ったままのラングレンの身体はずしりと重たく、アルーシャ1人で運ぶのはかなり骨が折れた。だが、万一感染症にかかっている可能性も考えると、不用意に応援を呼ぶわけにはいかない。
寝床に横たえて、服を脱がせ、外傷などがないか確認する。だが、ラングレンの身体にはこれというアザや咬傷は見当たらない。
太陽に当たりすぎて一時的に体温が異常上昇した可能性も考えたが、それならば皮膚表面は熱く乾いていて汗をほとんどかかないはずで、ダラダラと汗を流しているラングレンの現状は当てはまらない。
——ということは、身体の内部のどこかに炎症を起こしているか、あるいは、一番考えたくないが、なにか良くないものに感染したか……
アルーシャの頭が、考えられる可能性を追って忙しく回転する。どちらにせよ、アルーシャの手に負えるものではない可能性が大きい。そうなれば、医師を呼ぶしかない。
レッキアには常駐する医師はおらず、1番近くて隣町で小さな診療所を構えているラモ医師がいるが、もう高齢でその診断にあまり信頼がおけるとは言い難い。一番確実なのは首都から呼んでくることだった。
首都の医師は腕利きが揃っているが、その分多忙であり、高名な者となれば何ヶ月も予約待ちになることも珍しくない。
だが幸い、アルーシャにはつてがあった。学生時代の恩師と呼べる一人であり、首都有数の名医と名高いマルロ医師である。本職は医師だが、中級レベルの治癒魔術も扱うことができる異色の凄腕だ。
ここ数年は直接会う機会こそなかったが、日頃滅多に使わない魔術による緊急通信を行ったのが功を奏したか、マルロ医師はアルーシャからのたっての要請を快諾してくれた。
だが、多忙を極めるマルロ医師に無理を言い、最短で予定を調整してもらって取り付けた約束は、12日後。それまでに熱が下がってくれれば……と一縷の望みを抱いて毎日さまざまな種類・配合で薬を処方していたアルーシャだが、ラングレンは日に日に衰えていくばかりだった。
「だめだ……さっぱりわからない……」
専門ではないものの、アルーシャも大学で基礎的な医学の知識はひととおり学んでいた。
だが、考えられそうな感染症や炎症など片っ端から当てはめてみても、それに効くはずの薬は全く効果を表さず、容態も徐々に悪化していく一方だ。
昨日から、とうとうラングレンは固形のものを食べるのを嫌がるようになってしまった。
それは、噛んで飲み込むという動作をするだけの力まで、失われつつあるということを示していた。
自分より若く健康で、病気らしい病気もしたことのないラングレンのその頑丈さに、甘えていたのかもしれない。
常に病と向き合う仕事を選んだ自分にとって、あまりに皮肉だった。
——私が代わってやれるものなら、どんな手を使ってでもそうするのに……
祈るような気持ちで、アルーシャはもう一回日が昇り、また沈むまでを過ごした。
ラングレンが目を覚ますたびに汗を拭いてやり、解熱と滋養強壮作用のある薬草を煎じた湯を飲ませた。気休めでしかないことはわかっていても、もう他にどうすることもできなかった。
もはや自分の食事など摂る気にもなれず、アルーシャはただただ己の無力を呪った。
外での仕事をラングレン任せにしていなければ、自分に治癒魔術が使えれば、自分が薬師でなく医師を目指していれば……後悔は尽きることがなかった。
どうにかして、ラングレンの身に降りかかった災厄を己が肩代わりできないか、呪術まがいの本まで引っ張り出してきて、病床の横でひたすら調べた。
何もできない無為な時間を過ごすことに耐えられず、とにかく何かしていないと気が狂いそうだった。
そうして迎えた、12日目の朝。
扉を忙しく叩く音で、いつの間にかラングレンの寝床のそばでうたた寝をしていたアルーシャはハッと顔を上げた。
「マルロ先生……!」
ドアの外に、懐かしい恩師の顔があった。
この時間にここへ着くということは、夜中から馬車を飛ばして来てくれたに違いない。
本来ならば礼を尽くしてもてなしたいところだが、今は状況がそれを許さなかった。
マルロ医師もそれを察知しているようで、記憶の中の柔和な顔は、厳しく心配げな表情を浮かべている。
「アルーシャくん、ひどい顔だな……君まで倒れては、元も子もないよ」
「わかっています……どうぞ」
すぐに中に通し、そのままラングレンのところまで案内する。
ラングレンはもう、昨晩からは目を開けることもしなくなっていた。微かに上下する胸の動きで、まだ命があることがかろうじて知れる。
マルロ医師は仕事の顔になると、鞄から診療器具を取り出しながら、矢継ぎ早にこれまでの経緯やアルーシャの所見について質問を行った。
アルーシャの答えを聞き終わると医師は早速ラングレンに向き合い、あちこちに触れたり、器具を当てて反応をうかがうようにじっと見つめたり、一つ一つ確認を始めた。
アルーシャは、ただそれを見守ることしかできない。
歯がゆい思いを抱えながら、じっとマルロ医師の顔を見つめ、そこに浮かぶ表情を固唾を飲んで見守る。
「ふむ……」
難しい顔でマルロ医師が何かを呟き、おもむろにラングレンの額の上に手をかざした。
ふわ、と柔らかい光が広がる。
——治癒魔術……!
なかなか実地で見る機会のない治癒魔術の展開に、くたびれ果てていたアルーシャの心が少しだけ弾む。
だが、次の瞬間。
「えっ……」
バチッ、と何かに弾かれるように、光が消失した。
「うむ……そういうことか」
マルロ医師がつぶやいた。
「何か、分かったんでしょうか」
弱々しい自分の声が、まるで別人のように聞こえる。
「アルーシャくん……これは、おそらく」
アルーシャはゴクリと唾を飲んで、マルロ医師の言葉の続きを待った。
「呪いだろう」
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