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第3話 魔術師
「呪……い……?」
アルーシャはマルロ医師の言葉をおうむ返しにつぶやいた。
無論、意味は分かる。だが、あまりに考えられないことだった。
呪い、つまり呪術は、公式には使用が禁じられている。
この国では、国の最高機関である枢府から許可を受けた魔術師たちが、定められた用途、範囲に応じて魔術を使用する。
魔術はいかなる場合においても、国民の生活に資するものでなくてはならないと法で定められており、従って、人を陥れ、人に害をなす用途で使われる力は即ち呪術とみなされる。
万一呪術の使用が明るみに出れば、当該魔術師は即刻免許剥奪、ほぼ例外なく実刑判決を言い渡される。最悪の場合はもちろん死をもって贖うことになり、もし仮に命は助かっても、社会的には死んだも同然になる重罪であった。
早い話が、呪術の使用はこの国でも最も重い犯罪であり、首都であればまだしも、このような片田舎でそのようなことが起きるとはまず誰も考えない。アルーシャとて、その例外ではなかった。
この長閑な町で起きるには、あまりに似つかわしくない、恐ろしい出来事だ。
——呪い? 誰が? 何のために……?
自分ならまだしも、この太陽のような男に、誰がどんな理由で呪いをかけるというのか。
アルーシャは、にわかには事態が飲み込めなかった。
「しかし……ラングレンに呪いをかけるような人物も、そのようなことを彼がされる理由も、私には全く見当がつきません」
これは何かの間違いじゃないのか。
この期に及んで、アルーシャはそんな儚い希望を握りしめていた。
こんな誰からも好かれ、一歩外へ出ればあちこちから声がかかるような男が、呪いをかけられるだなんてことがあるはずがない。
「私は彼のことを直接知っているわけではないから、なんとも言えないが……私の治癒魔術が弾かれた。これは、人為的な呪術によるもの以外では、まずあり得ないことなんだ」
重々しく、マルロ医師の口から、動かしようのない事実が語られる。
アルーシャは、喘ぐように震える息を吐き出した。
「それでは……私がこの呪いをかけた魔術師を見つけ出し、呪いを解かせなければ……ラングレンは……」
その先を口に出す勇気は、アルーシャにはなかった。
「……もって、半月というところだろう」
部屋の中に、重苦しい沈黙が流れた。
——……半月。半月の間に、私が全てを突き止めなければ……
すまない、と力無くつぶやくマルロ医師に、アルーシャはただ黙って首を横に振るしかできなかった。
マルロ医師を送り出してから、アルーシャは直ちに行動に出た。
ことがことであるだけに、大っぴらに人に調査を依頼することはできない。
だが、大学時代に親交のあった知人のつてをたどり、呪術使用の疑いで枢府の監視対象になっている人物のリストを入手することに成功した。法外な謝礼を要求されたが、そんなことは構っていられない。ラングレンを救う手がかりが金で買えるのならば、安いものだった。
アルーシャは、文字通り寝る間も惜しんで、手に入れたリストを隅から隅まで洗った。
そして、そこから、1名の魔術師の存在が浮かび上がってきた。
「マーク・ジロン・ド・ランヴェール……」
その名には、見覚えがあった。
学生時代しつこく送られてきた気味の悪いラブ・レターに、いつもこの長ったらしい名前が署名してあったのを、アルーシャはおぼろに思い出す。
魔術専攻の学生には、なぜか対人距離の感覚とでも言うべきものが麻痺している連中が多く、このマーク何某も例外ではなかった。
魔術の素養があるからといって全員が魔術師になりたがるわけでもなく、まして「その素晴らしい素質を生かさないのは世界にとって損失となるだけでなく、君自身も後悔することになるだろう。君が望むのならば僕は喜んで君に個人的に手ほどきを、」などと書かれて、一体誰がその気になるというのだろうか。
——しかし、私を狙うならばまだしも、この男とラングレンは面識すらないはず……
だが、リストにある残りの魔術師の名には何の覚えもなく、自分と関連がありそうには見えない。
このランヴェールという男だけが、他の者たちと違い、今回の件に何か関係しそうな人物と言えた。
「とにかく、会ってみるしかない」
危険は承知だった。
アルーシャに、魔術はほとんど使えない。せいぜいが通信や探知など日常で使うものに限られ、攻撃系の術式などとはまるで無縁の生活をしてきた。かといって、ラングレンのような屈強な身体も、戦う術も持たない。
だが、行かねばならなかった。こうしている間にも刻一刻と呪いは進行しているのだ。
翌日。
アルーシャは、昼間だというのに薄暗いランヴェールの居宅で、部屋と同じくらい薄気味悪い空気を纏った家の主と対面していた。
ランヴェール自身は国に正式に登録している魔術師の1人であり、その住まいを知ることはさほど難しくはなかった。
「やあ、アルーシャ。君から僕に会いにきてくれるなんて、どんな風の吹き回しかな? 相変わらず、チンケな雑草と向き合っているんだろう? それとも、とうとう魔術の道へ転向する決心をしてくれたのかな?」
首都のはずれにあるその家は、ランヴェールの家が代々所有するものの一つのようで、決して趣味の悪い作りではないはずだった。だがその主のまとう陰の気が家全体を覆い尽くしていて、まるでそこだけ日が当たっていないかのように妙に薄暗い。
目の前のこの男が真っ当な生き方をしていないのは、火を見るよりも明らかだった。
「私がお前に接触した時点で、見当はついているだろう」
ねっとりと肌を這うようなランヴェールの声に寒気を堪えながら、アルーシャは無感情に言い放った。
「ああ、とても素敵だよアルーシャ。かつて僕らが学び舎を同じくしていたあの頃より、今の君は輪をかけて美しい……普段はお上品に澄ましたその口が、僕にだけぞんざいな言葉を吐くというのもたまらなくゾクゾクするよ」
うっとりとしているようにさえ見えるランヴェールの目つきに、アルーシャは形容しがたい嫌悪感を覚える。
今すぐにでもこの男の前から立ち去りたいが、ラングレンの呪いとランヴェールの関係がわかるまでは逃げ出すわけにはいかなかった。
どんな手を使えばこの男が真実を吐くだろうか、と殺気を滲ませるアルーシャに、ランヴェールの目が下卑た光をたたえる。
「さて、何かお困りかな? 僕の力が必要になって、ここへ来たんだろう?」
その表情から、アルーシャは確信した。
——やはり、こいつか……!
アルーシャの奥歯がギリリ、と嫌な音をたてる。
いっそもし自分が呪術使いであったなら、とあらぬ思いまでよぎった。
だが、ラングレンの命を握られている手前、あくまで下手に出るほかない。
「何が、したい……! お前は、ラングレンに一体何をした!」
「うんうん、飲み込みが早いね。話が早くて助かるよ」
アルーシャの殺気をものともしていないかのように、ランヴェールが笑顔で言葉を紡ぐ。
だが、その目は笑っていなかった。
「しかし、あまり事を急くのは優雅さに欠けるね。僕の趣味じゃない」
「お前の趣味など知ったことか……! 今すぐ、ラングレンにかけた、その穢らわしい呪いを、解くんだ!」
怒りのあまり、語尾が震える。
爪が手のひらに食い込むほど、拳を握りしめる。そうでもしていないと、殴りかかってしまいそうだった。
「ふふ、そんなに焦るなんて、君らしくもない。それもすべてあの青年のせいだと思うと、僕もあまり穏やかじゃないけどね……第一、じゃあ僕が呪いを解きました、と今ここで言ったところで、君はどうやってそれを確かめるつもりだい?」
ランヴェールの言う通りだった。
今ここにラングレンがいない以上、この魔術師はいくらでも嘘をつくことができる。
いつもの冷静さを欠いていたことは認めざるを得ず、アルーシャはグッと言葉に詰まった。
「まあ、そんなに怖い顔をしないでおくれよ。僕も悪魔じゃない。ここはひとつ、良識ある国民どうし、取引といこうじゃないか」
——その下衆な根性は悪魔にも劣るし、どこをどうとってもお前を良識ある国民とは誰も思わないだろうよ。
内心そう毒づきながら、アルーシャは沈黙することで続きを促した。
ランヴェールは、今にも舌なめずりをしそうな顔つきで、こう続けた。
「君自身を僕に差し出すこと。それが条件だ」
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