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第4話 取引
——私自身を、差し出す……
その表現の気色の悪さに、アルーシャは再び目眩を覚える。
だが、この男と自分との接点が分かった時点で、おおかた、そうした類のことを言われることは覚悟していた。
この粘着質な魔術師がどのようにラングレンのことを知り、接触したのかはわからなくとも、この男がクロなのであれば狙いがラングレン自身ではないだろうことは、察しがついていたからだ。
「もちろん、君には、今のしょぼくれた研究室とも呼べないボロ屋とは比べ物にならない立派な設備を用意するし、前から勧めているとおり、君の魔術の素養を伸ばせば今より遥かに高いところを目指せる。生活にももちろん不自由はさせないよ。どうだい? そう悪くない話だろう?」
これで「そう悪くない話だ」と本気で思って言っているいるのだとしたら、狂っているとしかアルーシャには思えなかった。
この男はどうやら、アルーシャの食欲を減退させるラブ・レターを何通も送りつけていた学生時代から、1ミリも成長していないようだ。
その身勝手な思い込みの強さ、欲しいものはなんでも手に入ると信じて疑わないところ、それはさながら小さな子供のようである。
ただし、なまじ行使できる力があるところに、子供とは比べ物にならないたちの悪さがあった。
「それなら、最初からそんな周りくどい方法を使わず、私に呪いでもなんでもかけて言うことを聞かせることだってできただろう。なぜラングレンを巻き込んだ!」
それはランヴェールに目星をつけた時からアルーシャが思っていたことだった。
なぜ最初から自分を狙わない。
そもそもラングレンを襲ったのが病でなく呪いだと気づき、さらにその犯人がランヴェールであるところまで突き止めなければ、この取引はスタートラインにさえ立てずに終わるのだ。
そんな成功率の低い手段をなぜあえて選ぶ。
アルーシャの問いに、ランヴェールは意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。
「そりゃあ、君が自分から僕のところへ来るのでなけりゃ意味がないからさ。あのプライドの高くて、高潔で美しい君が、僕に己の意思で自分を差し出す。それ以上に心が震えることなんてないだろう? 力づくで言うことを聞かせるのはちっともエレガントじゃない」
その答えだけで十分に吐きそうだったが、アルーシャはまだ納得していなかった。
「では、もし私が、お前のしたことだと気づかなかったなら、ラングレンは病に冒されたのだと思い込んでいたままだったのなら、どうするつもりだったんだ」
アルーシャの言葉に、ランヴェールは怪訝そうな表情を浮かべる。
「そんなの、それならまた別の人間に同じことをするまでだよ。頭のいい君のことだ、真実に気づくまでそう時間はかからないと思っていたしね。事実、君はこうして僕のところへやって来た」
——わかった、もうやめろ……!
なぜそんな分かりきったことを聞くのかと言いたげな口ぶりでランヴェールが語る、その内容のあまりのおぞましさに、アルーシャはぎゅっと目を瞑った。
——この男は、人の心を失くしている。それが元からなのか、どこかで道を誤ってしまったのか、それを知る術は今はもうないが……
そして、最初にランヴェールと対峙すると決めた時から、アルーシャには分かっていた。
どのみちラングレンを救うには、この男の言うことを飲むしかないのだと。
「……お前の、言う通りにしよう」
絞り出すようなアルーシャの言葉に、ランヴェールの目が一瞬輝き、それから片方の眉が跳ね上がった。
アルーシャがすんなり言うことを聞くようなタマではないと、ランヴェールの方も分かっているようだ。
「ただし、条件がある」
その言葉を予期していたと見え、ランヴェールが芝居がかった仕草で続きを促す。
「姫の、仰せのままに」
——誰が姫だ、この腐れ外道が。
喉元まで込み上げる悪態を無理やり飲み込み、アルーシャはできるだけ事務的に聞こえるように、言葉を続けた。
「まず、さっきお前が言ったように、ここでは解呪を確認しようがない。したがって、お前はラングレンの前で解呪を行い、それを私がその場で直接確認する。それから、もうひとつ」
声が、震えそうになるのを、アルーシャは懸命に堪える。
「……ラングレンには、俺が死んだと思わせてほしい」
生きて、この男の好きにされていることを、ラングレンに知られるくらいならば死んだほうがましだと、そう言外に含ませる。
言葉を切って唇を噛むアルーシャの胸中を読んだかのように、ランヴェールがやや鼻白んだ表情を浮かべる。
「全くもって、麗しいことで。まあ、面白くはないけど、僕は心が広いから、姫のたっての願いは叶えてあげるとしよう」
姫呼ばわりを自分ですっかり気に入ったらしいランヴェールが、少し考えるそぶりを見せてからもう一度口を開いた。
「では、こういうのはどうだい? 君の希望通り、君の家で、青年にかけた術を解くことを約束しよう。そして、彼にはしばらく眠ってもらう。そうすれば目が覚める頃には君の姿はなく、君の置き手紙で彼は『真実』を知る」
アルーシャは黙って頷いた。
——今は、これしかない……
激しい怒りと嫌悪、悲しみの渦巻く心の中で、アルーシャは必死になって、答えを探していた。
日が暮れ、夜の帳が街をすっかり覆い尽くす頃、2人は連れ立って馬車でレッキアに向かう道を走っていた。
「ここでいい」
レッキアの町並みが遠目に見えてきたあたりでアルーシャが短く言うと、ランヴェールは御者に声をかけ、馬車は止まった。
アルーシャは、懐にしまった、ラングレン宛の置き手紙を服の上からそっと撫でる。
それを横目に捉えたランヴェールが、薄く笑った。
置き手紙は、家を出る前にランヴェールの目の前で、言う通りに書かされた。
ラングレンがかかったのは病ではなく呪いであったこと。
それをかけた呪術師を突き止めたが、解いてもらうために、自分の命を代償とするよう要求され、それを自分が承諾したこと。
ラングレンがこの手紙を読めているということは、自分の要求通りに呪いは解かれ、その代償として自分はもうこの世にいないだろうこと……。
この手紙を読んだ時のラングレンの受ける苦痛を思うと、アルーシャの心は張り裂けそうだった。
だが、今はこれしか方法がない。
レッキアに入る前に馬車を降りたのは、アルーシャの希望だった。
ラングレンが重い病に倒れているのは町中の人の知るところであり、そこへアルーシャが魔術師を連れてきたとあれば必ず噂になる。
アルーシャは死んだことになっていなければいけないのだから、それは避けなければならなかった。
町は、寝静まっていた。この時間でも開いている酒場の方から微かに騒めく声が聞こえてくるが、アルーシャの家の周りはみな明かりが消え、それぞれが明日の日の出までの休息をとっているようだった。
音を立てないよう、そっと家に入る。寝床に横たわるラングレンは、眠っているようだった。
この数日で呪いはさらに進行し、一日のほとんどは意識が朦朧としており、かろうじて目が覚めた時にようやく水を口にできるかどうかというほどまでに衰弱していた。
別人のようにやつれてしまったその顔に、アルーシャは悲しみと憎悪を新たにする。
「さっさとやってもらおうか」
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