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第7話 久遠の抱擁

 そうして、10日がすぎ、ひと月が経った。  だが、いつまでたっても、アルーシャに近づいていると思える手がかりは、ひとつも見つからなかった。  やがて季節は厳しい寒さの到来を告げ、そしてゆっくりとまた新しい命の芽生えを予感させ、ただ時間だけが、非情に過ぎていった。  ——本当に、アルーシャは生きているのか。  この問いが幾度となく胸を灼き、ラングレンはその度に、必死にそのどす黒い疑念を打ち消してきた。  ついこの前まで、家に帰ればいつもアルーシャがいた。  柔らかい金の髪を揺らして、仕方がないと笑う顔。  外の話をして聞かせる時の、少しだけやきもちを焼いた顔。  安心させるように甘やかして抱きしめた時の、嬉しそうに照れる顔。  思い出が、胸に溢れる。  全てがもう、遠い昔のように感じられて、そう感じていること自体にまた、心が痛みを訴えた。  諦めれば、全ての可能性を手放すことになる。  そうして希望を捨てた先に、自分がなお生きていかなければならないという、その事実を受け止めることは、ラングレンにはもうできなかった。  ——もう、全て捨てて、楽になりたい……  そんな思いが、心をよぎった。  もしかしたら、あの手紙にあったことは全部本当で、今はもう、アルーシャはこの世のどこにもいないのかもしれない。  もし、それが真実なら。  いっそのこと、自分もアルーシャのいるところへ行けたらと、そう願った。  ラングレンはもう、疲れ果てていた。  ——今日で、最後にしよう。もう何もかも、お終いに。  行商先から久しぶりに戻った、2人の家。  眠れぬまま朝を迎え、窓から差し込む清らかな早朝の光に包まれながら、ラングレンはそう思った。    起き上がって、今もそのまま残してある、アルーシャの研究室を覗いた。  何ヶ月ぶりかに見る部屋の中には、所狭しといろいろな装置が置かれている。  まるでアルーシャが物陰から出てきそうなほどに、全てがかつてのままだった。  静かに主人の帰りを待つ器具たちに、そっと最後の別れを告げる。  ラングレンは何も持たず、身一つでレッキアの街を静かに出て行った。  レッキアの東には、広大な森が広がっている。  リヨンをはじめとした、レッキアの名産であるさまざまな薬草もこの森の中で採れる。  ラングレンにとっては、護衛を兼ねてアルーシャの手伝いに訪れた、思い出深い場所だった。  いつも薬草を採っていた浅いところを抜け、どんどんと森の中へ、ラングレンの足は迷いなく進んだ。  森の奥深くは、薬草採りの人間でも滅多に足を踏みいれない。  古い言い伝えでは、森の最も深いところには太古の昔から生きている精霊たちの力が満ちていて、神獣や魔物などが住んでおり、人が迷い込めば生きては帰ってこられないと言われている。  だが、森の奥で道に迷えば、普通にしていても生きて出てくるのはかなり困難だ。それを戒めるための昔語りに過ぎないだろうとラングレンは思っていた。  ——いっそ、神獣でも魔物でも出てきてくれれば、手っ取り早く向こうへ行ける。  決して自暴自棄というわけではなく、むしろラングレンは今までになく落ち着いている自分を感じていた。  憑き物が落ちたような、いっそ清々しい心地さえする。  あれほど胸を灼いていた焦燥感は消え失せ、心の中に残っているのは、全てのことに対する感謝の念と、ただただ最愛の人を思う、微かな痛みと切なさだけだった。  ラングレンは歩みを止めることなく、丸一日以上歩き続けた。  不思議と空腹も感じず、眠気も訪れなかった。  夜が来て、また朝が来た。  歩いても歩いても木々が尽きることはなく、森がこんなに広大なものであったのか、あるいは自分が同じところを何度も歩いているのかも分からなかった。  だから、見るともなく前方を向いていた視線の先に、不意に一頭の美しい獣を認めた時も、ラングレンは、とうとう幻覚を見るようになったのか、と驚きもしなかった。 「……」  金色の長いたてがみが、木々の間から差す朝日を受けて、きらきらと輝いている。  その光景は神々しく、見るものに畏怖の念さえ起こさせるようだった。  カサ、と獣の蹄が下草を踏み締める音で、ラングレンは我に返った。  たてがみと同じ色に輝く獣の目は、明らかにラングレンを捉えていて、こちらへ近づいてこようとしている。  恐怖は感じなかった。説明のつかない感覚が、ラングレンの全身を襲った。  その目。その表情。 「……アルーシャ」  掠れた声が、ラングレンの口からこぼれた。  アルーシャ、とラングレンの喉が音を立て、それが聞こえたかのように、獣の耳がぴくっと反応した。  なぜ、と問うような目で、獣がラングレンを見つめる。 「アルー、シャ」  今度は、はっきりと呼びかけた。 「お前だろう? アルーシャ……」  はたから見たら、自分は狂人と映るだろう。  どう見てもただの獣ではない生き物、それに最愛の人の名を呼びかける憔悴した男。  だが、ラングレンは確信していた。  なぜかと問われても多分説明はできない。  それでも、この獣がアルーシャであり、この獣もまた自分を求めていたことが、言葉がなくともラングレンには分かった。  朝日の指す木立の中で、1人と1頭は、固く固く抱き合った。  2つの影は、いつまでも、いつまでもそうしていた。

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