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第10話 君を忘れない
「やる」
その花をメイリールから押し付けられたとき、ディートハルトはあまりの驚きに、とっさに反応することができなかった。押し付けられた花の束を落とさないように、反射的に受け取ったものの、メイリールがなぜいきなりこんな行動に出たのか、面食らっていた。そして、偶然にしてはでき過ぎた出来事に、せき止めていた記憶があふれ出すのを止めることができなかった。
花言葉は、「君を忘れない」。遠くへ行ってしまう親しい人へ送る花の定番だ。メイリールが、それを知っていたとは思えなかった。その花言葉が引き起こす、苦い感情のことも。
ずっと、親友だった。少なくとも、彼——ライナスは、自分のことをそう思ってくれていたと思う。お互いに親を戦争で亡くした孤児として施設で出会い、その後三十年あまりもの間、片時もそばを離れたことがなかった。十六で騎士団を目指すと決めたのも、騎士団の勇姿を一目見ようと小さな身体で窓枠にしがみつき、絶対に自分も騎士になるんだと幼い頃から息巻いていたライナスの傍にいるためには、当然の成り行きだった。全ては、ライナスを守るため。物心ついたときから、その思いは変わらなかった。それがいつしか友情を、あるいはもし肉親がいたなら彼らに抱いたであろう情さえ超えたものになって、ディートハルトは鉄の鎧で心を閉ざし、ライナスの「親友」に徹した。
——ライナスが、伴侶となる女性ととうとう巡り合えたと、今まで見たこともないような顔でディートハルトに報告してくるまでは。
世界が足元から崩れる音を、聞いたような気がした。その日から、ディートハルトの世界は、色を失った。
ライナスからその話を聞いた日の晩。ディートハルトは宿舎にある自分の部屋へふらふらと戻るなり、崩れ落ちるように床に座り込んだまま、ぼんやりと壁を見つめていた。他の師団長たちからの食事の誘いも断った。こういうときはむしろ一人にならない方が良かったのかもしれないが、頭も身体もまるで別の何かに乗っ取られたように思い通りに動かなくて、気づいたら帰ってきていた。
しん、と静まり返った部屋の中で、恐れていたことが現実になった絶望感が、ひたひたと押し寄せてくる。いずれこの日が来ると自分でもわかっていただろうと嘲笑う声が、頭の中でこだました。こんなことになるのなら、いっそ自分の想いを打ち明けていれば良かったのか。だが、想像しかけて、ライナスの拒絶の表情を思っただけで、心臓が凍りつくようだった。この国は、同性間の恋愛に対してそこまで厳しくもないが、寛容なわけでもない。制度的には同性婚も認められているとはいえ、首都にあってさえ一般市民の間ではまだまだ偏見も強かった。男ばかりの騎士団では、猥談と混ざってそういった話題もしばしば酒の肴にのぼったが、そんなときのライナスの反応はごくごく一般的な、つまりは「他所でやっていただく分には構わないが、自分に被害が及ぶのは勘弁してほしい」という態度だった。望みなど、最初からない。叶うことのない想いを、ディートハルトは心の奥底に隠し、良き友として今日まで振る舞ってきた。始まる前から、終わっていたのだ。胸がつぶれるようだった。容赦無くやってくる明日からの毎日を、自分はどう過ごしていけばいい。ライナスとは、一体どのような距離感でいればいいというのか。お前には、一番に報告したかったんだと、親友は言った。もう今頃は団内で噂になっていることだろう。すれ違う連中全員から祝福され冷やかされて照れ笑いをするライナスを、自分は今までと同じように、そばで笑って見ていられるだろうか。考えるほどに、ディートハルトの心に浮かぶのは、もういっそ消えてなくなりたいという、胸の奥底から絞り出されるような願いだった。そして、どうせならライナスも共に、この手で——そこまで考えて、ディートハルトはハッと目を見開いた。
「俺は、今、何を……」
月明かりの差す暗闇の中で、ディートハルトは頬を伝い落ちる涙を拭いもせず、ただただ呆然と座り込んでいた。もう全てを捨て去って、誰も知らないところへ行こう。そう、思った。
まだ三十も半ばというディートハルトの年齢で、中央騎士団の師団長という肩書きを持つものはかなり珍しい。肩書きと給金目当てに寄ってくる女も後を絶たず、同輩たちからやっかみ半分でからかわれることもしばしばだった。世間から見れば、将来有望、これからというときなのだろう。だが、ディートハルトにとっては、全てがライナスのためでしかなかったのだから、今、その肩書きも、給金も、何もかもがなんの意味も成さなかった。ライナス以外の人間に、ディートハルトは全く興味がない。自分のことは、同性愛者ではなく、ライナスという一人の人間しか愛せない、欠陥人間なのだと思っている。ライナスのいない世界になど、何ひとつ未練を感じなかった。一師団長がいきなり失踪したとなれば、預かっている師団はもちろん、騎士団全体が混乱に陥るのは間違いない。今までのディートハルトであれば、そんな無責任な行動を取ろうと考えることさえなかっただろうが、今や何もかも、全てがどうでも良かった。
一度決断したら、あとは早かった。荷物をまとめ、大剣は目立ちすぎるので護身用に肌身離さず持っている短剣だけを帯びて、ひっそりと夜の闇に紛れて街を後にする。もともと施設育ちで身寄りもなく、騎士団から与えられていた宿舎にも最低限のものしか置いていなかったディートハルトにとって、存在の痕跡を消すことはそう難しいことではなかった。
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