58 / 67
第58話 謝罪
タイガが書いた紙ナプキンは今もだいじに取ってある。彼の連絡先も携帯メモリにも登録した。あの夜は充実していた。トベラが戻ってくるまでは。
自宅の洗面所で幽霊のように上半身裸でつっ立ている。鏡に映った自分の姿を見つめる。鎖骨下に痛々しい赤い内出血の跡。トベラにつけられた跡だ。まだ消えてくれない。あのまますべて奪われるのかと覚悟をしていたが、意外にもトベラは屈服した姿に満足したのかあっさりと帰っていった。これからトベラがどう出てくるのか全く予想がつかない。このままで終わるはずがない。気持ちを切り替えるために冷たい水で顔をゆすぎ仕事に向かう準備をした。
誰もいない店内で仕込み作業に取り掛かる。もくもくと作業をしていると気持ちが少し落ち着いてきた。今日は新メニューの準備をしようと早めに出勤したから店にはまだ誰もおらず一人だった。そういえば、今日も店長とタイガが打ち合わせをすると言っていたことを思い出す。時計を確認する。その時間まではまだ余裕がある。
ようやく一品出来上がった。前から考えていたものだ。食をそそるように皿に盛りつけていく。
ガチャン。
裏口のドアが開いた。店長かもしれないと特に気にせずにいると思わぬ人物から声を掛けられた。
「カツラ。」
大好きな声だ。胸の高鳴りとともに驚き振り返る。タイガが立っていた。約束の時間にはまだ早いはず。また店長が時間を間違ったのかと彼に申し訳なく思う。
「まさかまた間違って...。」
タイガが首を振り言葉を遮る。
「いや。ちょっと。その...。話がしたくて。」
タイガの予想外の言葉に頭がフル回転する。「話ってなんだ?俺はまたなにかやらかしたか?」先日のトベラとの一件で、ますます自分がタイガからかけ離れていくように感じていた。つくづくタイガにはふさわしくない人間だと思い知らされる。その方が彼への気持ちに諦めがつくのだけど...。そんな雑念を払い平静を装い聞き返す。
「話?」
その時タイガの大きな腹の虫が鳴った。彼は本当にかわいらしい。自然と笑みがこぼれそうになるのを我慢し尋ねた。
「腹、減っているのか?」
聞けば、仕事が忙しく昼飯を食べる暇がなかったそうだ。相変わらず真面目なやつだと感心する。タイガが出来上がった新メニューの料理に視線を移したことにも気づいていたので、料理を試しに勧めてみた。
「いいのか?」
タイガは実に旨そうに料理を口にしていた。思い出がよみがえり、思わずおかしくなって笑ってしまった。
「なんだよ?」
タイガは自分のことを笑われたと思ったらしい。事実はそうではなかった。今タイガが口にしている料理は、タイガのためだけに考え作った料理だ。振り向いてほしくて一生懸命に考えた。タイガの好きな味付け、食感。毎朝来る日も来る日も手料理を携えて会いに行った。その時に一番最初に作ったレシピ。あれだけ一切取り合ってもらえなかったものを今はいそいそとタイガが食べているのがおかしかった。「無駄にはならなかったな。」
この料理を新メニューに考えていると話すと、人気メニューになるとまで言ってくれた。その言葉が聞けただけで満足だった。
不意にタイガがまっすぐこっちを見て姿勢を正した。なにを言おうとしているのか?
「お前を疑って悪かった。」
そう言って頭を下げたのだ。衝撃が走った。タイガは一切なにも悪いことはしていない。すべて自分に非がある。タイガの迷惑も考えずにしつこく付きまとってしまった。時間がたち冷静さを取り戻しそういう考えに至ったのかもしれないが、タイガを責める気などさらさらなかった。
「タイガ、頭あげて。」
今の自分の気持ちをぽつりぽつりと伝える。「やはり俺とは全く違う...。」まさか謝られるとは思っていなかった。「本当に真っすぐなんだな。俺みたいなやつにまで義理を通して。」変わらぬタイガのそんなところに強く惹かれる自分がいる。でももう戻ることはできないのだとしっかり自覚はしていた。これからは友達としてタイガを支えたい。自分の料理でよければいつでも食べてほしい。それぐらいは別にいいだろう。
打ち合わせ前に用意できるときは昼飯を作っておくと伝えると、タイガは喜んでくれた。携帯に登録したタイガの連絡先も役に立てそうだ。今日はタイガとたくさん話ができた。前と変わらないタイガの態度に胸がうずいたが、気にしないようにした。そんな資格はもうないのだから。
ちょうどその時店長がやって来た。タイガは出された食事を全て平らげ打ち合わせの席に着いた。
ともだちにシェアしよう!