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第61話 大切な人

 タイガは生真面目な性格である。どんなにつらいことがあっても決められたことはやり通す。  トベラから衝撃の告白を受けたタイガであったが、翌日以降もしっかりと会社に出勤していた。毎日決められたルーティン通り、体は動くが思考は停止したままだった。  あれから数日が経っていた。ありがたいことに『desvío』との打ち合わせは最近はなく、カツラと顔を合わせる機会はなかった。今は彼の顔を見たくない。愛おしさゆえか裏切られたと感じる憎しみが募り、出会ったらカツラになにを言い出してしまうか自分でもわからなかった。一切の感情をなくしてしまったようなタイガはただ手を動かし、日々、業務を機械的にこなしていた。  考えることを放棄していたが、自分の意識とは裏腹に悪夢がふとした瞬間に勝手に頭に思い浮かぶ。それがタイガを苦しめていた。 トベラが。あの嫌な男がカツラの手をとる。二人はそのまま唇を重ねて。深いキスの後トベラがカツラの服を脱がしていく。まだ目にしたことのなりカツラの白肌にトベラの舌が這う。トベラの愛撫にカツラが快感の吐息といきを漏らす。再び濃厚なキスを交わしそのまま二人は絡み合って...。  「吐くっ。」タイガは喉元にまでせまった胃液を押し戻すように片手で口を押えトイレにかけこんだ。あれからこうだ。この思いに捕らわれると吐き気に襲われるのだ。  正面の鏡を見ると目の下にはクマができていた。タイガはまた眠れぬ夜を幾日も重ねていた。カツラに新しい恋人がいても奪い返すつもりでいたが、思うのと実際に聞くのでは全然違う。しかも相手があんなやつだなんて。あいつは他にも言っていた。カツラが手あたり次第楽しんでいたとか...。  トベラのカツラに対する馴れ馴れしい態度を思い出す。自分を残し二人きりでスタッフルームに行った事実。それらが余計にトベラの言葉の信憑性を高めるのだ。こんな思いをさせるカツラに腹が立った。  でも。タイガは確信していた。「俺はカツラを愛している。」こんなにつらいのだからもう関係を終わりにしたほうがいいのではという思いにも駆られたが、再会してからのカツラの自分への対応を考えると、こちらが引けば今度こそカツラとは本当に終わってしまう。それだけは嫌だ。そんな選択肢は決して選ぶことなどできなかった。カツラと一緒にいたい、優しい眼差しを自分だけにむけてほしい、彼を独り占めしたい。なにがあろうが心の奥にあるこの思いは変わらなかった。もはやタイガはカツラと離れることなど不可能なのだ。カツラの研修で離れ離れになった。そのときに嫌というほど思い知った。自分にはカツラが必要なのだと。  しかし、気持ちをどうにか立て直すまでには時間が必要だった。トベラが言ったことは真実なのか。もし真実なら、なぜカツラがそんなことをやったのか。「しっかりしなければ。トベラの言葉に振り回されていてはいけない。ツバキの時と同じ失敗を繰り返すことになる。」  心の忍耐が限界まで達したせいか、思考は単純な答えを導きだしつつあった。「周りはどうでもいいんだ。俺とカツラの問題だ。」そしてタイガはようやっとカツラの今までの行動を振り返る冷静さを取り戻してきた。  始まりは...。酒を。カツラがずっと振舞ってくれていた。元気になるようにと。付き合い始めてカツラから好きだとはっきり言われたことはない。でも、一緒にいたいとは言ってくれた。キスも。彼の方からしてくれた。満月の夜にだいじな仕事を抜けて会いに来てくれた。  タイガが怒りのあまり冷たくきつい態度をとり続けてもめげずに来て...。毎日毎日時間を合わせて手料理まで作って。自分が逆の立場ならあそこまでできるだろうか。来る日も来る日も無視され続け、つらくて苦しかったはずだ。いつしか一切取り合わない俺との未来はもうないと思ったら。  「俺を忘れるためなのか。」タイガはここにきてついにカツラの気持ちに触れたような気がした。霧が晴れたように今はっきりとわかった。  タイガもカエデに別れを告げられた時はボロボロだった。そんな時にカツラが優しくしてくれた。 タイガとのことで傷ついたカツラにトベラが言い寄っていたら。忘れなければという気持ちに後押しされそのまま流れに身を任せてしまうかもしれない。他にも言い寄ってくる者たちにやりきれない思いをぶつけたのかもしれない。全ては俺がカツラを無視したから。  タイガはその場にしゃがみ込みきつく目をとじた。  「俺が間違っていた。」最初にきちんと話を聞くべきだった。やはりカツラと話さなければ。俺たちには話し合いが必要だ。なにがあっても俺はまだカツラを諦めていない。絶対に諦めない。この気持ちを本人に伝えなければ。  自分と離れている間、たとえカツラが他の誰かと関係を持ったとしても構わない。それ以上に自分がカツラと愛し合えばいいだけだ。他を忘れるくらいカツラを愛してやる。愛しぬくその自信はある。もうなにがあろうがこの気持ちは揺るがない。  答えを見つけたように立ち上がる。顔をゆすぎ、鏡に映った自分の顔を見つめる。さっきまでの吐き気がウソのように治まっている。そこには決意を固くした精悍な顔の男が映っていた。  自分のデスクに戻ろうと廊下を歩いていると、タイガのデスクがある一室を覗いている者がいた。 見覚えのある後ろ姿。 「カエデ?」 タイガは声を掛けた。カエデは振り向きタイガを確認するとぱっと表情が明るくなった。 「タイガ。」 ようやく見つけることができたというようにカエデがタイガに歩み寄った。 「あれからどうしているかと思って。時間があるときに話そうって言っていたから。」 カエデは少し気まずそうだ。タイガはカエデと別れてから彼の番号を携帯から消去していた。タイガの携帯はメモリ登録されていない番号はつながらない設定になっている。 「そうだったな。フジキさんとの仕事は落ち着きそうなのか?」 タイガはカエデのメモリを消去してしまうなど、幼稚なことをしてしまったと恥ずかしい気持ちを隠すために話題を変えた。 「もうすぐね。だからそろそろ予定を約束しておいたほうがいいと思って。」 カエデがポケットから折りたたまれた紙きれを取り出した。タイガに見えるように広げて見せる。それは『desvío』のチラシだった。 「これは...。」 タイガの反応にカエデはキョトンとしている。 「もしかしてタイガ、このお店知ってる?」 よく見るとチラシの隅に簡単な地図がペンで書かれていた。ものすごくわかりやすい地図だ。 「これ...。」 タイガは書かれた地図を指さした。 「それね。親切な人が書いてくれたんだ。絵本の中から出できたような、すごい綺麗な人だった。エルフの王子みたいな。」 タイガは目を見開きカエデを見つめた。綺麗な人。それ...。カツラなんじゃないのか?カエデに詰め寄り聞いた。 「どこで?いつ?なんで会ったんだ?どんな感じの人?」 タイガの容赦ない質問責めにカエデがうろたえた。 「えっ?なに?えっと...。具合悪そうにしていたから。薬あげて。お礼に地図を書いてくれたんだ。黒いサラ髪に綺麗な形の翠の瞳だった。僕がタイガに会社で会ったときだよ。」 カエデはタイガの質問に全て答えてくれた。なんとカツラとカエデは会っていた。しかもその日はタイガがカツラと最後にあった日、カツラが急遽出張を思い立った日だった。「カツラはカエデだと気づいたに違いない。もしかして、俺とカエデの仲を勘違いしたのか?」  パズルのピースが埋まるように、カツラの気持ちの在り様がみえてくる。「やはり俺への気持ちを断ち切るために研修に行ったんだ。」研修後のカツラの一歩引いた態度に不安が募る。無理だとわかっていてもタイガは時間を巻き戻したい衝動にかられた。 「タイガ。大丈夫?あの人。タイガの知り合いだった?」 カエデが心配そうに聞いてきた。タイガはカエデの目を見てしっかりとした口調で答えた。 「うん。俺の大切な人だ。」

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