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第1章 快楽(けらく)のイヴ

     0  俺の初めての客が、キサを壊した。  俺を不要と突き返した客が、キサを連れて行って、キサの外と中を徹底的に壊した。  だから、俺がキサに抱いている感情はきっと、同情や憐憫というよりむしろ罪悪感に近い。  あのとき俺が返品されなければ。  あのときキサが無理矢理連れて行かれなければ。  後悔じゃない。  俺が、キサをあんな風にした。  キサの元の人格は、サダが先代を「檀那様」という椅子に縛り付けるために人質に取ったとき、ちょっとやりすぎたとかでいなくなってしまった。  云い方を憚らなければ、死んでしまった。  元の人格を俺は知らない。  先代は元の人格を取り戻そうとキサにひどいことをした。  その総仕上げが、俺を突き返した客に連れて行かせることだった。  キサを殺すことで、元の人格を生き返らせようとしたらしい。  結果は、キサの外側と内側に修復不可能な傷を作っただけだった。  先代はようやく諦めて、元の人格と身体を共有するキサを愛することにした。  遅かった。  キサはすでに壊れ切った木偶人形になっていた。 「別に僕に気を遣わなくていいんだよ」  客のところに出掛ける前に、キサに顔を見せにいくと、決まってキサはそう返した。 「ああ、それとも僕に会いに来てくれてるだけ? ありがとう」  何度か顔を見せに行ったら、そんな笑顔が追加になった。  勘違いしたのだ。  キサが喜んでくれていると思ってしまった。  カネを稼ぐしか能のない売り物の俺にそんな風に笑いかけてくれるのは、キサしかいなかったから。 「おかえり。お腹空いてる? 待っててね。いま準備するから」  勘違いした俺は、客のとこから戻っても、真っ先にキサに会いに行った。  キサは単に俺が空腹に耐えかねて食事の催促に行っているだけだと思っているようだった。  先代の屋敷で一番の稼ぎ頭だった俺を、丁重に扱えとでも云われていたのだろう。  キサは何を差し置いても、掃除の途中でも、何かをやりかけていても、一旦中断して、俺の食事を作ってくれた。  それがまた勘違いだった。  俺を、最優先に考えてくれているのだと思ってしまった。  そんなわけはない。  ちょっと考えればわかる。  考えられなかった。  そのとき俺の周囲にいた人間は、大きく分けて、俺を売り物として管理する側と、買う側の2種類。  キサはそのどっちでもなかった。  キサだけが、そのどちらでもなかった。  だからまたも勘違いした。  キサが、俺の特別だと思ってしまった。  客のところに行ってもキサのことばかり考えてしまう。  仕事に支障は出ていないが、自分の中で区切りをつけるべきだと思った。  先代が留守している隙を見計らって、キサに云った。  受け入れてくれると思った。  勘違いに勘違いを積み重ねた累乗で正常な判断ができていなかった。  キサは、困ったような顔をして、突き放すようなことを云った。 「順序が悪かったね」  意味がわからなかった。 「僕はね、君と檀那様の区別がついてないんだよ」  意味がわからない。 「顔がどうとか、遺伝子がどうとかっていうことじゃないよ。ここがね、壊れちゃってて、見分けがつかないんだ。いまだって、僕と話してるのがどっちなのか、はっきりしてない。ねえ、君は誰だっけ?」  闇の中に突き落とされたみたいだった。  俺が、キサを壊したせいで。  キサは、俺と先代の見分けがつかない?  そんなことあるのだろうか。  そんなことあって堪るか。  キサに縋りついて、俺の顔をよく見せた。  キサは悲しそうな顔をして首を振った。 「もう帰って来たの? おかえり。ご飯、できてるよ」  それは、どっちに云ったのだ? 「ああ、それともお風呂にする? お湯溜めてくるよ」  それは、どっちに云ってるのだ?  気が狂いそうだった。  自分でやっておいて。  自分で壊しておいて。  お前のせいで。  お前が。  キサを。  帰って来たくなくなった。  あんなに帰りたかったのに。  帰ったら必ずキサが出迎えてくれる。  キサが待っていてくれる。  俺がいるからキサが混乱しているのなら。  先代が顧客管理で使っているPCをこっそりいじくって、自分を匿ってくれそうな客を探した。  自由になりたくて逃げている。  先代にも、他の誰にもそう思わせなければいけない。  俺がいるとキサが幸せになれない。  俺がキサを不幸にしている。  離れなければ。  距離を取ってわかったことは、俺がいようがいまいが、キサの崩壊は止まらないということだけだった。  キサは俺以外にターゲットを変更していた。  誰でもいいのだ。  先代でなければ、その闇は埋められない。  闇に囚われて、呑まれて、消える。  キサは、他人をいじめることでぎりぎり自我を保っていた。  先代に心ごと依存して。  売り物の少年たちを闇に引きずり込む。  ほとんど地獄絵図だった。 「ああ、久しぶり。元気してた?」  キサの笑顔に背筋がぞっとした。  あのときと違う。  何かが違う。  決定的な何かが欠けた笑み。 「君がいなくて淋しかったんだよ。帰ってきてくれて嬉しいな」  おそらく本心だろう。  キサは、俺に復讐したいんだろうか。  俺のせいでこんなになったから。  俺がキサにできる唯一のことが、もし、それしかないんだとしたら。 「明日から新しい子が来るんだって。楽しみだなぁ」  俺は。  地獄に落ちるべきだ。  でも、キサは。  俺を地獄に連れて行ってはくれなかった。  先に逝った先代を追いかけて。  自分から。  冷たい水に沈んだ。  寒い雪の日だった。  白い雪と、キサの白い肌。  俺には見分けが付いただろうか。  土の中から掘り起こしたこの白い砂とも。 「ヨシツネさん?」  能登くんは、キサにそっくりだった。  キサだと思った。  いや、能登くんと初めて会ったときはまだキサは生きていた。  キサがなんでここに?  見た目と声音が同じだった。  喋り方と記憶だけが違った。  もし、喋り方と記憶を、キサと同じものにできたら。  その思考の蓋を開ける。  白い砂の壺の蓋も開ける。  墓石に刻んである名前を指でなぞる。  キサは、  ここにはいない。 「ああ、こんなところにいた。どうしたんです?」  キサは。  ここに。  いるんだから。  今日も能登くんの食事にキサを混ぜる。 「せっかく来てもらってるさかいに。メシは俺が作ったるわ」  壺が空っぽになった。  俺も。  空っぽになった。    (おのれ)(おのれ)(とも)心亘(こころわた)ル  第1章 快楽(けらく)のイヴ      1  ――彼が求めるのは肉体の接触から来る安心でも、ひょっとしてそこから生まれるかもしれない愛のようなものでもない。  カネだ。  彼はカネが欲しいからカネを出した相手にお返しをしているだけなのだ。誕生日にプレゼントをもらってありがとう、と言うのと変わらない。   (『経絡(けいらく)感覚』より)   *  山の入り口でタクシーを降りる。図ったようなタイミングで車が出迎えた。  ケイちゃんが運転席から飛び出してきて、地面に額をこすりつけた。「妃潟(キサガタ)が攫われたのは俺の不注意です」 「上で聞こか」  ケイちゃんは、俺が怒っていると思っているのだろうか。愛想を尽かされたとでも思っているのだろうか。  責を追及してほしいのだろうか。  罰を下してほしいのだろうか。  そのいずれにも興味がないと云ったら、悲しがるだろうか。 「(はよ)う、車出したって」 「わかりました」ケイちゃんは一瞬虚を突かれたような顔になったが、すぐにドアを開けた。  喋る気が起きなかったので眼を瞑っていた。  頭重感と虚脱感と喪失感と。  すごく、疲れた。 「着きました」ケイちゃんがドアを開けて立っている。 「ああ、おおきにな」  玄関までの飛び石が歪んで見える。  俺の眼がおかしいのだろう。 「ツネちゃん、おかえりー」上から声が降ってきた。  屋根の上に、白いものが見えた。  猫か? 「どっもー? おひさー?ってもツネちゃん憶えてねぇだろうしぃ?はじめまして、つーことにしとくわ」白い塊が眼の前で着地した。  白髪の長い髪。細身の男。  知らない顔だ。 「誰なん? サダの知り合い?」 「サダくん?」男はしゃがんだ姿勢のままべろりと赤い舌を出した。「あー、ツネちゃん知んないの? サダくん、連れ戻されちったよ」  ケイちゃんが走ってきた。  俺と白い男の間に立つ。「すみません。ご無事ですか?」 「突然飛び出してったと思ったらさぁ、なーるほどねぇ。ツネちゃん帰ってくんの、わかったわけね。すっげーの」 「ヨシツネさん、俺の後ろに」 「わーってると思ってたけどさ、きみ程度、命を盾にしたところでツネちゃん護れないよ」白い男がさも当然のように云う。「何遍わからせりゃあ、気が済むんだ? あ?」 「せやから、お前は誰なん? 不法侵入やさかいに」  俺がいない間に屋敷に押し入ってケイちゃんと一戦やり合ったのだろう。  ケイちゃんがまったく敵わなかったのはよくわかる。  スゲが霞む。相当の手練れだ。俺にだってわかる。  同時に理解する。 「お前が、キサを攫ったんやな?」 「さっすがツネちゃん。話が早いね」白い男がにやりと嗤って舌を出す。「俺の主人の命令でね。仕方なくー? これでも俺、反対したんだけど。命令だからさ、仕方ないんだよねぇ」 「キサは生きとるんやな?」 「ツネちゃんの願望? それともなんか確信あんの?」 「キサを生かしといたほうが、俺にゆうこと聞かせやすいのと違うん? 人質は生かしといてなんぼやろ?」 「ツネちゃんと知恵比べはしたくないねー」白い男がバネみたいに立ち上がって脇に逸れた。「ツネちゃんお疲れだろうし? 続きは中で、ってね」  白い男が俺を殺すためにここにいるとしたら、俺が門をくぐった瞬間にやっている。  俺の帰りを待っていたとするなら、俺に用があるのだろうか。  いや、たぶん、主人とやらの命令で、俺を監視するためにここに滞在する気だろう。  とするなら、主人というのは。 「ツネちゃん、お客に座布団もくんねぇの?」白い男が畳に寝転がる。  池の見える客間。  ケイちゃんは俺のすぐそばに片膝立ちした。 「客なら名乗ったらどうや?」  俺への殺意も殺気も感じない。ケイちゃんが一方的に殺気を放っているだけだ。 「あんれ? ゆってなかったっけね」白い男が仰向けになったまま口をあんぐり開ける。「番犬くんゆってくれてない?」 「番犬くんやのうて、ケイちゃんや」ケイちゃんの殺気を増やさないために訂正した。 「あぁ?番犬じゃん? なんか間違ってっかよ?」 「自己紹介したってよ」 「俺? ビャクロー」白い男が身軽に逆立ちする。白く長い髪が逆さに垂れ下がる。「自称500歳の虎でーっす。ゲッスーの師匠で、いまは、後継者ツネちゃんの監視中ね」 「主人ゆうんは、俺の自称妹のことなん?」 「あぁ、チューザちゃん? お元気してたー?」  違うのか。  あの自称妹の他にもまだ、北京(ベイジン)がらみのわけのわからない刺客がいるのか。 「主人ンことは聞かないどいてね。俺の寿命の記録更新がかかってからね」ビャクローとやらが宙を蹴って逆立ちをやめる。畳にしゃがんだ。「んで、本題だけど、主人がねぇ、番犬くん欲しがってんのよ。キサっちの生き映しくんがいまどーなってんのか、俺にはわかんねぇけど、番犬くんと引き換えに、戻ってくる可能性はなきにしもあらずーってねぇ。どーするよ?」 「俺と交換で妃潟が戻ってくんのか」ケイちゃんが俺を見ずに云った。 「主人の気が変わってねぇんなら、そーなるねぇ」 「ヨシツネさん」ケイちゃんが俺を見た。「行かせてください」 「ちょお落ち着いてな? 人質交換なん、いっちゃん信じられへんわ。証拠見せたってよ」 「証拠ねぇ?」ビャクローが腕を組んで首を横に倒した。「主人のことはゆうなって云われてっしなー」 「なんでケイちゃんを連れていきたいん?」 「わかんねーの? 主人の狙い」 「俺に怨みでもあらはるんかな?」 「ツネちゃん、知ってっかぁ? なんでツネちゃんが跡継ぎンなってるのか」  北京の血を引いているから。 「半分せーかい」ビャクローは俺の思考を読んだ。「でももういっこ、ツネちゃんが知んない事情ってのがあんの。知りてーか?」  ケイちゃんの殺気が強まる。  北京の血を引いている人間は、俺だけじゃない。  自称妹だって、別の屋敷で檀那様業をこなしている兄だって、養子に出された金髪碧眼の兄だって。  俺が知らないことが、まだありそうだ。 「知りたいゆうたら、ほいそれと報せてくらはるんかな?」 「俺けっこーおしゃべりだかンね。主人のこと以外は割とゲロっちまうわけね」ビャクローが身を乗り出してにやりと口を裂く。「知ってっと思うけど、うちンとこ、女系っしょ? ベイ様に会ったことある?」 「ベイ様?」 「北京(ベイジン)ってゆったらわかっかぁ? いろんな呼び方あって紛らわしぃわなぁ。ベイ様、一度も名前なんかゆったことねぇのになぁ。周りで勝手に付けちまってさ。偉い人の名前はそー簡単に呼ぶもんじゃねぇぜ?」 「お前かてゆうたはるやん?」 「俺はいーの。後継者の爪と牙ンなって、命がけで護ンのが俺の存在意義だっし? あー、そうそう。後継者の条件の話だっけね。ツネちゃん、親父の顔知ってる?」 「サダやろ?」 「違う違う。遺伝子の話してンの」ビャクローが予想通りとばかりに嗤う。「ついこないだ、だっけかなぁ、1年は経っちまったかなぁ、とにかく死んじまったってわけ。死因知りてぇか? ツネちゃんの妹のチューザちゃんが喰っちまった。生きたままばりばりむしゃむしゃってやつ。さすがの俺もドン引きよー」  自称妹は確かにそう云っていたが。 「ほんまなん? 正気と違うやろ?」 「チューザちゃんもう、いっちまってっしねぇ。問題は、なんで食べたか、っつーほうよ。ツネちゃんならわかっかなー?」  ケイちゃんの表情に変化はなかった。  話の内容はもしかしたら聞いていないのかもしれない。ビャクローの動きに全神経を集中している。 「自分のものにしたかったのと違うん? 死んだ父ちゃんは北京のもんやさかいに。死んだら中身くり抜いて、マネキンにしはるんやろ?」 「さっすがツネちゃんだねぇ。んで?どう? ツネちゃんが跡継ぎな理由、わかっちった?」 「跡継ぎのうちの一人、とかやないんやな?」 「そうそ。ツネちゃんが死んだらまた別の跡継ぎがベイ様ンとこ行くだけってね」  てっきり檀那様業を継ぐこと、イコール、跡継ぎだと思っていたが、実情はもっと生々しかったわけか。 「そんなん勘弁してほしいわ」 「はぁ? あんだけ男と寝といてよ、まさかのまさか、女は初めてとかじゃねーよなぁ?」 「あんだけ男と寝とったさかいに、まさかのまさかやわ。嗤えるやろ?」  とすると、北京の決定と、自称妹の狙いがぶつかる。  ビャクローの主人とやらの目的も、いまいちぼやけたまま。 「なあ、サダはマネキンか」 「せーかい。会いてーか?」 「俺がマネキンんなったら会えるやろ」  そうか。道理で連絡が取れないわけだ。  いなくなるなら、いなくなると云ってからいなくなってほしかった。  これでは実感が伴わない。  サダならそのうちひょっこりと顔を出しそうな気配も予感もある。 「お前の主人は、俺を苦しめてどないしたいん?」 「だから、主人のことは云えねっての」ビャクローが云う。「番犬くんを犠牲にすりゃ、生き映しくんは戻ってくんの。なら答えは決まってンじゃねぇの?」 「行きます」ケイちゃんが間髪入れずに云った。「行かせてください。俺に挽回の機会を下さい」 「なあ、俺がビャクローの主人なら、ケイちゃんを連れてって、代わりにキサの死体を届けるえ?」  ケイちゃんが俺を見た。 「行かせられへん。俺に二人も喪わせんといて」 「でも」 「俺に罪滅ぼししたいんやったら、死ぬんやのうて、他の方法で償ってな? 無駄死にだけは赦さへんで」  ケイちゃんの顔が曇った。が、すぐに晴れて刺すような殺気が溢れ出た。 「なにナニ? 俺と戦ろうって?」ビャクローが大げさにかぶりを振る。「じょーだん。2秒で逝っちまうよ?」 「もうちょい平和な方法はあらへんの? お前の主人と直接交渉するとか」  話の途中で、ビャクローがバク転して縁側から外に出た。  ケイちゃんが追いかけたが、すでに姿はない。 「追跡は無謀やな」ケイちゃんの隣で庭を眺める。「主人とやらに報告に行っとったらええのやけど」  おそらく、また来る。  警戒しつつ、次の襲来に備える必要がある。 「あの、ヨシツネさん」ケイちゃんが板の間に正座する。「妃潟のことですけど」 「ケイちゃんは罰が欲しいん?」 「俺は、命令を守れませんでした。留守を預かったのに」 「せやから、罰が欲しいんか、てゆうとるやろ?」  ケイちゃんが顔を上げる。  叱られ待ちの顔だった。 「さっきもゆうたけど、挽回したいんなら、命以外でしたってな? キサは生きとる。生きたまま取りかえす方法を一緒に考えてほしいさかいに。な? そないな顔せんといてよ」 「俺を責めないんですか?」 「責めてほしいからゆうてはるんやろ? 違うん?」  ケイちゃんが黙った。  自称妹の朱咲(スザキ)とやらは、期限を定めて俺を家に帰した。  8月半ばの暑い盛り。  自分の誕生日だそうだ。  それまでに俺に身の振り方を考えろと云う。  キサが戻ってきても、それと入れ替えで俺が攫われても莫迦らしい。  キサは。  生きていると思う。  朝頼の推論は間違っていない。俺に云うことを聞かせたいなら、キサを生かしておくしかない。  キサが死んでいるのなら。  俺に生きている理由がないからだ。  自称妹も、北京も俺の生存を望んでいる。  とするならやはり、俺の生きる理由になってる人間を易々と始末しないだろう。  ケイちゃんがまだ何か云いたそうにしていたが、気づかないふりをして自室に戻った。  微かにキサのにおいがする。  居心地が悪くなって障子を開けた。 「あの、ヨシツネさん」ケイちゃんが廊下に立っていた。 「行かせへんで」  話が堂々巡りで進まない。そんな話をしたいわけじゃない。 「頭冷えるまで筋トレでもしとったらどうなん?」  頭が冷えてないのはどっちだ。  ケイちゃんは黙ったまま頭を下げて筋トレ部屋に入った。  やつあたりだ。  他人を気遣う心の余裕がない。  ケイちゃんは俺にもは勿体ない。自分のことしか考えていない自分勝手な俺には。  早く見限ってくれないものか。        2 ――「おるんは勝手やけど、そないなことで俺は手に入らへんよ」 「じゃあどうすれば君が手に入るんだろう」 (『経絡感覚』より)  **  いっそ怒鳴り散らしてくれたほうが楽だったのだが。  ヨシツネさんはそんなことはしない。  云われた通り、部屋で筋トレをする。  この部屋に入ると思い出す。  ここで、妃潟が攫われた。  窓を開ける。  おかしい。  鍵がかかっている。内側から。  いや、窓から連れ出された後、窓から入ってきた白い奴が内側から閉めたのだ。なにもおかしくない。  本当に?  何かが、ひっかかる。  なんとなく。  イヤフォンが引っかかっていた。  コードの先にケータイがあった。  着信。  俺が拾ったのを見てから掛けた。そんなタイミングだった。 「あんたが主人とやらか」画面の表示は非通知。「俺はヨシツネさんの望まないことはできない」 「できないんじゃなくて、したくない。言葉は正しく使え」起伏のない低い声だった。  ビャクローが嗤ったような気がして振り返ったが、誰もいない。  襖が閉まっていることを確認する。 「後ろめたいことか」 「見てるのか」カーテンを引いた。「どこにいる?」 「生き映しの声を聞きたいか」 「生きてるんならな。俺がそっち行く以外で取り戻す方法を考えてるところだ」 「群慧(グンケイ)くん?」  妃潟じゃなくて、能登の声がした。 「能登か? 大丈夫なのか?」 「ヨシツネにざまあみろって云っといてよ」  能登じゃなくて、妃潟の声がした。 「絶対助けるから。頼むから」  ヨシツネさんをこれ以上悲しませないでくれ。 「殺す気はない」ビャクローの主人が云う。電話口の相手が代わった。 「俺がそっち行けば、だろ」 「なぜ生き映しを攫ったのかわかるか。番犬のお前が目的ならお前を攫えばいい」 「ケイちゃん? おる?」廊下からヨシツネさんの声がした。「さっきは云いすぎたな。謝ろ思うてな」  電話を切って座布団の下に隠した。 「悪いのは俺です。ヨシツネさんが謝ることじゃないです」襖を開けて頭を下げた。  顔を見せたくなかった。  ヨシツネさんがどうしてもお詫びに昼食を作りたいとのことだったので、一緒に買い物に行った。 「何食べたいん?」  全然食欲がなかったが、テキトーに思いついた料理を云った。 「あ、じゃあ」  ハンバーグ。  廊下に出ると肉を焼いているいい匂いが漂ってくる。  障子を閉める。  ケータイを耳に当てた。 「なんで攫った?」極力小声で話しかけた。 「ヨシツネを殺しても私が繰り上げになるわけではない」 「殺させない」 「言葉尻に反応して吼えるな。私はヨシツネを重責から解放してやろうと思っている」 「どういう意味だ?」  重責?  解放? 「待て。お前が後を継げば、ヨシツネさんは」  戻れるのか。  戻る?  どこに?  ヨシツネさんの家は、居場所は。  この屋敷じゃないのか? 「ケイちゃん? ご飯出来たで?」  ヨシツネさんの声と同時に電話が切れた。  俺は本当に電話をしていたのだろうか。 「いま行きます」  返事をしてから恐る恐る通話記録を見る。  曇っていて見えない。  太陽は。  どす黒い雲に隠されている。 「なんや、まだ気にしてはるん?」ヨシツネさんが白米を口に入れてから云う。  ヨシツネさんは食欲も戻り、ちゃんと昼夕食べられるようになった。朝食はもともと食べない体質らしい。  俺の皿は半分くらい減っていた。  誰が食べたんだろう。  俺しかいないか。 「ヨシツネさんは」そこまで云いかけて言葉が喉に詰まる。  後継者にならなくていいと云われたらどうしますか。 「云いたいことあらはるんなら聴くえ?」ヨシツネさんが箸を置いた。 「あ、いえ」  後継者にならなくていい未来があるのか?  電話口の男の平坦な口調が反響する。  後継者の座を代わる?  代われるだけの権利がある人物。  そんなの、  そんなに沢山いない。 「すんません、その」  確かめなくてはいけない。  電話の相手が何者なのか。  ヨシツネさんの呼び止める声を振り切って屋敷の庭を突っ切る。池の脇を駆ける。  もし追ってきてくれたなら、足は止まるだろうか。  振り返らずに走る。  師匠が飛び越える塀をよじ登って、湿ってぬかるんだ土を蹴る。  雑草を掻き分けて、竹林に辿り着く。  黒い車が止まっていた。  後部座席のドアが開く。  降りて来た人物は、ヨシツネさんと同じ顔をしていた。ただ髪だけが黒く、深い闇色をしていた。 「あんたは」 「わかりきっていることを問うな」声は相変わらず平板だった。「迎えに来た。私と一緒に来い」 「ケイちゃん!!」  停止していた頭に電撃が落ちる。  振り返れない。 「行かんといて」 「最後に選ばないものを所有するな」ヨシツネさんと同じ顔が云う。「捨てられるものがどのような想いを抱くのか。お前は想像したことがあるか」  ヨシツネさんの視線が俺を通り抜ける。  ヨシツネさんと同じ顔の男は、喪服のような上下に、白い薄っぺらいコートを羽織っていた。  身長も幾分か高い。  ヨシツネさんがもう少し年を重ねたら、こうなるのかもしれない。 「お前は」 「誰かと問うのか。火を、いや、鏡を見るより明らかだろう」男が云う。「お前が呪った生き映しは、こちらで預かっている。然る処置をしたのち、帰るべきところに返す」 「生きてはるんやな?」ヨシツネさんが云う。 「殺す理由が私にはない」  俺はまだ振り返れない。  ヨシツネさんと同じ顔の男を見ながら、ヨシツネさんの表情を想像する。  捨てられるものの思い。 「早く乗れ」 「ケイちゃん!」ヨシツネさんの声が後頭部に突き刺さる。  振り返れない。  振り返ったら。 「ケイちゃん!!」 「居てほしいと願っているのは、お前ではない」男が首を振って車に乗る。  足を進める。  前に?  後ろに? 「ケイちゃん! なぁ」 「ヨシツネさん」振り返らずに云う。「妃潟は、必ず生きて連れ帰ります」  名前を呼んでくれたと思う。  聞こえないふりをして、男の隣に座る。  ドアが勝手に閉まって、音もなく発進する。  運転席と後部座席の間に壁があるため、バックミラーが見えない。  振り返ったら。  車から飛び降りたくなるから。  下を見ていた。自分の手を。 「スゲに鍛えられた腕を、私の元で発揮してほしい」  右を向けない。  同じ顔だから。 「ああ、そうか。鏡がないと忘れるな」そう云って、男はおもむろにネクタイを緩めると、首に巻いていた包帯を取って、自分の眼を覆った。「この顔が思考の妨げになるだろう」  横目で見ていた。 「気にしなくていい。私もこの顔が」  気に入っていない。  男の名前は、武天玄愚(タケソラくおろ)といった。 「ビャクローは、ゲングウと呼ぶが、ビャクローしか呼んでいない」  車はハイウェイを飛ばして、海の見えるインターで下りた。海沿いにしばらく走り、高層マンションのポーチに横付けした。  男――武天は、まるで眼が見えているかのように(実際に見えていたのだろう)、真っ直ぐエレベータに乗った。到着してドアが開くと、正面に扉があった。武天は手探りもせずにドアノブをつかむ。  ただっ広く、白い空間に出た。  窓もなく、薄暗い照明が中央のベッドを示す。  妃潟、いや、能登が寝ていた。 「の」と、と云おうとしたのを遮られた。 「寝かせてやったほうがいい」武天はサイドテーブルにあったノートを手に取る。「専門家に診せた。元の人格に戻すには、洗脳した本人と距離を取るのが最善だそうだ」 「じゃあ、あんたは」  能登を元に戻すために。  武天が俺を見る。 「そんなに何もかも都合よくはない。ヨシツネには生きていてもらわないと困る」 「俺がいなくなったくらいじゃ」  ヨシツネさんは諦めない。 「だから、私が知り得る限り最強の牙を置いてきた」武天が云う。「だがそうすると、私が無防備になる。私を護ってほしい」  何から?護ればいいのだ。  何からの危険にさらされているのだ?  勢いよくドアが開いて、車椅子の女が武天の名を呼んだ。  クオ、と。 「遅かったな」武天には想定済みの客だったのだろう。  俺には、車椅子を押す人物に心当たりがあった。 「屋島(ヤシマ)」  屋島は返事をせずにベッドに駆け寄った。車椅子を放って。 「もう会えないかと思った」泣きそうな顔で能登の蒼白い顔に触れる。 「わたしは約束を守ったわよ」車椅子の女が不満そうに云う。「クオ、あの胡散臭いの、免許ないんでしょ? 大丈夫なの?」 「免許を取るための学校に行っている。取れなかった場合に言ってやれ」 「無責任ね」女が吐き捨てる。「そうゆうところが嫌いよ」  女は興味がなさそうに俺の方を見た。武天と能登以外に興味があるものがなかっただけだろうが。 「新しい盾? 頼りになるの?」 「そうなるよう願っている」武天が云う。「ビャクローの孫弟子らしい」 「ふうん」女はやっぱりどうでもよさそうだった。  武天が女を連れて(車椅子を押しながら)別室に消えた。  屋島は能登に縋りついている。  話しかけられる雰囲気も、話したいことも特になかった。  窓から風が入って来る。  その風でサイドテーブルのノートが揺れる。武天が手に取ってすぐに置いたものだ。  表紙に黒マジックで、診療録、とあった。能登の容態を診ている医者の記録だろうか。  見るなとも云われていないので中をめくった。  クセの強い走り書きなのと、ところどころに英語か専門用語みたいな文字が混ざってて解読が難しい。俺なんかの頭じゃ、どだい意味もわからない。  最初のページの日付と時間が、能登が攫われた当日だった。  昨日。  何度思い返しても、口の中が血の味で満ちる。  なんで。  なんで俺は。 「群慧くんは」屋島が云う。  屋島の声に慣れなくていちいち虚を突かれる。声というか、喋ること自体いままであり得なかった。  喋らなかった理由は、以前ヨシツネさんが云っていたのを聞いたことがある。  喋る必要がないから。  要は、喋る必要に迫られて、喋らないことをやめたのだ。  そうまでして、取り戻したかった。  理由は。  わからなくはない。 「さっきの、ヨシツネさんにそっくりな人に付くの?」  意味がわからなくて、屋島の顔を見た。 「違うの? じゃあ、なんか取引?」 「あんたは」  車椅子の女に付いたのか。そうゆう意味で聞き返したが。 「俺は、ノリウキを取り返すためなら何でもするよ」  屋島が云いたいことがわかったので黙っていた。  妃潟(能登)をヨシツネさんのところに連れ帰るなら、互いに敵同士だと、そうゆうことだ。  ヨシツネさんを前にしたら、そう云える。  でも、屋島を前にしたら。屋島に遠慮しているわけではなくて、判断が鈍る。  なんでだ?  何に迷ってる? 「ねえ、一旦帰るけど?」車椅子の女が戻ってきた。 「電動のを買わないのは、お付きが欲しいから?」屋島の眼は能登から離れない。 「皮肉ごっこしてるんじゃないのよ」女が溜息をつく。「いいわ。気が済んだら連絡ちょうだい。迎えを遣るから」 「ここに連れてきてくれたのは感謝してるよ」屋島が云う。「でもまだ契約に足りてないっていうんなら努力するよ」 「頑固すぎてお友だちが羨ましいわ」女が自分で車椅子の向きを変えた。「クオ、ご飯食べてなかったら教えてあげてね」 「一人で平気か」武天が云う。単なる皮肉なのか、心配しているのかは声音からはわからなかった。 「知らないの? これ、乗ってるだけで道を開けてくれるのよ」女が云う。「じゃあね」  本当に一人で帰ってしまった。  武天によると、このフロアと、一つ上のフロアを所有しているので自由に使っていいとのこと。  でも、俺がここにいる理由は。 「四六時中張り付いている必要はない」武天が云う。「暗殺の類はおそらくない。その必要がない。それより、やってほしいことがある」  武天に付いて、最上階に上がる。  プールだった。 「泳ぎに自信はあるか」  ここで首を振ったばっかりに、起きている間中、泳ぎの練習をすることになった。

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