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第1章 中編
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――「天罰じゃない?」少女が微笑う。「わたしが依頼したの」
(『イヴクロテクス』より)
***
思いのほか早かった。
事件発生から1週間。
同級生Bが眼を覚ました。
主治医は記憶の整合性に難ありとの判断だったが、面会という名の事情聴取の許可はくれた。
「なんだ、お前一人か」先生が俺の後ろを見た。「てっきり大王の過保護引率かと思ったが」
「使い物にならないってことすか」ちょっとムッとしたので短絡的に反応してしまったが、すぐに思い直した。「いえ、お疲れ様です」
「挨拶だけなら一人前だな」先生はちゃんとお見通しで肩を竦めた。
先生が所長を務める怪しい研究所の方ではなく、県警近くの救急病院。
同級生・少年B。
少女Aが自殺した(とみられる)同日、現場となった小学校から僅か200メートルの距離の河川に転落したが、救助が早かったことが功を奏したのか、奇跡的(?)に大した怪我も後遺症もなく。
「電話で云った通り、ここの」先生が自分のこめかみをつつく。「成長途上によろしいとは言えんからな。私も同席させてもらう」
「便利な機械があるでしょうに」天井のカメラを顎でしゃくった。
「私の城ならな。さすがにアレのデータをまるっと寄越せなんていう権限はない」先生が苦笑いする。「ところで保護者はどうなってる? まさか逃げ回っとるんじゃないだろうな」
少年Bは、いわゆるいいとこのお坊ちゃんで、豪邸と呼んで差し支えない大きな一軒家に、住み込みの家政婦が家事や育児を一手に担っており、坊ちゃんのための必要経費は毎月まとまった額が振り込まれている。
「学校から番号引っ張ってかけてみたんですけどね」俺は首を振る。「それに家政婦さんじゃ何とも」
「カネがなかったらただの虐待だな」先生が眉をひそめる。「勤務先は聞いていないのか」
「そっちは俺の担当じゃないんで」
出来ていないことの言い訳じゃない。
任せてもらえないことへの不平不満だ。
「大王に泣きついて、大舞台を割り当ててもらったわけか」先生が冗談まじりに云いながら足を止めた。
奥まった個室。
ドア前に立っていた制服に挨拶する。自分だって制服だけど。
おまけに同行しようとしたので異を唱えたが、向こうのほうが先輩なので意味なし。
刑事ドラマみたいに単独行動なんかできやしない。
「女性捜査員の到着が遅れているみたいだな」先生が何の気なしに云う。「仕方ない。私が代わろう。到着次第引き継ぐからここは」
反論するだろうなと思って見守っていたが、制服はあっさり従って道を譲った。
なんで??
「私の評判を知らんのか?」先生がドアを閉めてから呟く。視線はすでに衝立の向こう。「失礼する。今日は診察ついでに話を聞かせてもらいたい。簡潔に云えば、取り調べだ。警察を連れて来た」
「あ、はい」
返事が返ってきたことに驚いた。
俺だったら絶対に返事なんかしない。
「調子はどうだ?」
先生越しに少年Bを見つける。
白いベッドに上体を起こして座っていた。腰から下は薄い掛け布団で見えなかったが、頭と腕に白い包帯が巻かれており、彼の怪我の程度がうかがい知れる。身体の表面への傷は大したことなかったのだ。
先生の専門は、身体の内側への傷。脳とか心とかそのあたり。
俺の保護者ヅラしてるあの人のお墨付きの専門医なんだとか。
「あんまりよくねむれなくて。きのうもなんども目がさめちゃって」少年Bが俺に視線を移す。「あの、あなたが?」
「急に来てビックリしたと思うけど、捜査に協力してほしいんだ」俺は自動で手帳を見せた。「答えたくないこともあると思うけど、何でもいいから、思い出した時点で教えてほしい」
「先生に話したことも、もう一度ってことですか?」少年Bが先生に言う。
「私はお前を治療するためにここにいる」先生が言う。丸椅子に腰掛けながら。「打って変わって、こいつは事件の真相を突き止めるためにいる。真相なんてものがあれば、だがな」
「え、あの」少年Bが眉を寄せた。「ぼくがだれかにつき落とされたかもしれない、て思ってるってことですか」
「そうなの?」あまりに話がスムーズで思わず笑みがこぼれてしまった。
いけないいけない。
仕事モードに戻らないと。
「わからないです」少年Bの視線が手元に落ちる。
「思い出せないのか、思い出しているけど相手がなぜ君を突き落としたのかわからないのか、どっちかな?」
「わからないんです」少年Bが項垂れる。「思い出してるんですけど、その」
「君は自分から川に落ちたの?」
少年Bが首を振る。表情が険しくなってくる。
「じゃあ、川に落ちる前はどこで何をしてたか憶えてる?」
「あの、先生」少年Bが先生に助けを求める。
「お前が思っていることを言えばいい」先生が間髪入れずに答える。「お前の親が来ないせいで、忙しい中こうやって立ち会ってやってるんだ。私はお前の主治医だからな。お前の未来の精神面によろしくないような展開になれば止めてやらないでもないが」
なるほど。主治医のドクタストップがかからない以上、少年Bは何かしら発言をしなければならない。
相変わらず、相手方の動きを封じるのがお得意だ。
万に一つも敵に回さないように注意しよう。
「君以外は知ってるから伝えるけど」言いながら、全神経を少年Bの反応に集中させた。「君のクラスメイトが、君が川に落ちた時間とほぼ同時刻に、学校のベランダから転落した」
「え」少年Bが身を乗り出す。興味というよりは度を超えた驚愕に近い。「あの、だれですか? だれが」
俺はその子の名前を言った。
少女Aだ。
「うそ」少年Bの表情が剥離する。「なんで」
「君は、なんでその子がベランダから落ちたのか、知っている?」
「しらないです」少年Bが首を振る。
「その子と君は仲が良いって聞いたんだ。何か知ってることがあればと思ってね」
「ぼくのことを聞きに来たんじゃないんですか」
「優先順位の問題なんだ」俺は極力フラットな感情を心がけた。「今一番知りたいのは、君がその子について何か重要なことを知ってるんじゃないかなと、個人的な言い方をすれば、当たりを付けてる」
「うたがわれてるってことですか」少年Bが言う。
「うん、そうだね。警察は、君を、疑っている」
少年Bは先生を横目で確認すると、何の弁護も期待できないことを悟ったのか、唇を噛み締めた。
ここまでは。
予想通り。
さて、この先は。
「ぼくのことを聞き回ったんなら」少年Bが重い口を開く。「○○ちゃんがぼくのことをたよりにしてくれてたのはしってると思います」
「らしいね」
「ケーサツの人が聞きたいのは」少年Bが絶妙な間をとる。「ぼくが○○ちゃんにそうゆうことをゆったかどうか、じゃないんですか」
そうゆうこと。
自殺幇助。
「例え言ったとして、何の証拠もないよ」
「だから、ぼくにゆわせようとしてる」
「言ったの?」
少年Bが黙る。
やはり。
「○○ちゃんからは、家のことでこまってるってゆわれてて」少年Bが沈黙に耐えかねて口を開く。「それで」
「飛び降りれば楽になるって? 冗談じゃない」
「ちがう!」
「違わないよ。何も、違わない」
「なんでぼくの話を聞いてくれないんですか?」
「聞いてるよ。聞いたうえで、その可能性が高いと」
「かってに決めつけないでください。それにぼくは、川に落ちて」
「だから、その川に落ちた云々が、カムフラージュだったって言ってるんだよ」
カムフラージュにしてはやりすぎだが。
ガキは加減がわからない。自戒も込めて。
「死んでもよかったから?」
少年Bは何も言わない。
「それとも」
項垂れた少年Bの視線が一瞬上がって。
下がる。
「君は、責任を感じて、命をもって償おうとしたの?」
「その辺にしてやれ」先生が俺の肩に手を置いた。「お前の役割を忘れるな。お前にこいつを裁く権利はない」
少年Bは項垂れたまま、じっと黙っている。
ここへ来て黙秘は最悪だ。
親が金持ちなら弁護士くらいすぐになんとかする。
「邪魔したな。ほら行くぞ」先生が丸椅子を片付ける。「日を改めさせる。それまでは私の診察だけだ」
「また来るね」
「ぼくは」少年Bが息だけの声で叫ぶ。「ころしてない」
俺は足を止めて振り返る。
先生もドアノブから手を離す。
「やってません」少年Bが必死そうな顔で訴えていた。「しんじてください」
笑いだしそうになるのをこらえる。
笑っちゃ駄目だ。
まだ。
「警察の仕事はね」俺は真面目な表情を作ってからベッドに近づく。「生憎と、信じることじゃないんだ。君がまんまと引っ掛かってくれて助かった」
「え」少年Bの表情が凍りつく。「引っかかって?て」
「川に落ちた君とほぼ同時刻に学校のベランダから転落した○○ちゃんの生死を知ってるのは、つい数日まで生死の境を彷徨っていた?君以外の全員だ。わかる? 君は、君が知っているはずのないことを知ってたんだ」
「え、だって、飛びおりたって」
「そう。俺は転落した、としか言ってないよ。それにね、君は第一報を受け取ったときの反応を間違えた。曲りなりも仲が良かったクラスメイトがベランダから落ちたら、フツーは、大丈夫ですか?て聞くんだよ。飛び降りた友だちが無事に生きてるかどうか、それが何より知りたいことだと思うけどね。違うかな」
少年Bの顔面から、表情の一切が削ぎ落ちた。
いや、もともとこの顔が正常だったのかもしれない。
少年Bが俺を真っ直ぐに見た。
とても、10歳にも満たない少年の顔立ちではなかった。
「どうだろう。何か話してくれる気になったかな」ゾッとする背筋を感じないように肘を抑えた。
「日をあらためると聞きましたが」機械的な音だった。少年Bの口から発せられた言葉だとわかるのに時間がかかった。のを少年Bは見逃さなかった。「おとなはうそつきですね」
まずい。この流れは予想してなかった。
「すまない。私が止めておきながら」先生が助け船を出してくれた。「今日はこれで終わりにしよう。その代わり、日を改めて、お前は話すべきことをぜんぶ話すと約束しろ」
「先生が立ち会ってくれるなら」少年Bは布団を被ってベッドに横になった。「さようなら」
「ああ、一つ聞き忘れた」先生が言う。「お前、男と女、どっちが好きだ?」
「意味がわからないですけど」少年Bは布団の中から言う。
「意味がわからんことを聞いた覚えはないんだがな。まあ、いい。出て行くとしよう」
ドアを開けると制服が敬礼をした。俺に、じゃない。先生に。
先生は適当にあしらって廊下を逆戻りする。
「お前、取り調べ下手くそすぎるぞ」制服が見えなくなってから、先生が吹き出した。「自分のことを推理小説の探偵か何かと勘違いしてないか。犯人はそんなに都合よく自白しないぞ?」
「途中までうまくいってたじゃないですか」
「大王が真っ先に私を頼るくらいだぞ? それ相応の難関だと思ってくれていい。お前の敗因は、相手を見くびったことだ。あいつはお前によく似てる」
「どういう意味ですか?」悪口だろう。「先生だって、知ってることがあるなら俺にも」
「大王に聞いてみろ。私の報告義務はお前にはない」
そんなの。
絶対に教えてくれない。
「まあ、なんにせよ」先生がエレベータのボタンを押す。「奴は、少女Aが死んだのを見てから川に落ちたのが確定したな。この順序がわかっただけでもなかなかの手管だぞ?」
「全然褒められている気がしないんですけど」
先生は駐車場に愛車を迎えに行くらしい。俺は本部まで徒歩で帰るつもりだったので、便乗する気満々でついていった。
遠くからでもすぐにわかる。
赤いスポーツカー。
「若いもんは歩け。と言いたいところだが」先生はドアロックを解除する途中で手を止める。「最後に私が奴に投げた質問。あれの意図を正解できたら、送ってやるのも吝かじゃない」
「先生こそ俺のこと見くびってません?」
簡単だ。
なんだかんだ言って先生はちゃんと俺にヒントをくれる。
雨が降りそうだった。
「虐待の可能性がないとするなら、少年Cとの関係でしょう?」
先生は鼻で嗤ってロックを解除してくれた。
少女Aは、死後、レイプされた形跡がある。
少年Bは、繰り返し、肛門を酷使した形跡がある。
関係者はもう一人いる。
少年C。
自殺(?)した少女A、川に落ちた少年Bと、これまた同級生。少年Bとは、とても仲が良かった、いわゆる親友だそうだ。
事件発生後、一度も学校に来ていない。自室に閉じこもっているという。少年Bの不在の両親の真逆。家族ぐるみで寄ってたかって束になって壁になって。警察はおろか、学校関係者までシャットアウトする。
少年Cは自分の意志で自室から出てこないのではなく、両親が我が子可愛さに護っている可能性。
「お前はどっちだと思う?」先生がいたずらっぽく言う。
「お見通しのくせに」
アポなしで、しかもいかがわしい心の専門家を同行させて、突破できる壁なら苦労しないが。
案の定、玄関先から一歩も入れなかったが、先生のよく通る声が天の岩戸を内側から開けた。
少年Cが顔を見せた。
母親が急いで我が子を部屋の奥に隠そうとしたが、時すでに遅し。
「いい報せだ」先生が少年Cの心を一発で捉える魔法の呪文を放った。「■■■君とやらが眼を覚ましたぞ」
少年Cの眼から、大粒の涙がこぼれた。
少年Cが落ち着いたのを見計らって、家に上がることができた。ほとんどどさくさだが。
先生はやっぱりすごい。
認めざるを得ない。いや、認めていなかったわけじゃないが。
「あの、■■■くんに会ったんですか?」少年Cがたどたどしく話す。
母親は少年Cの横にぴったりくっついているが、特に何も言わない。
とすると、彼は母親に何も語ってないってことか。
いけるかもしれない。
「ついさっきね」俺は自動で手帳を見せる。「無事だよ。怪我も大したことない。話もできたし」
「じゃあ、次はおれが話す番ですね」少年Cは決意したように顔を上げる。「○○ちゃんは、■■■くんに殺されたんだと思います、たぶん」
しぶしぶリビングに通された。二人掛けのソファに俺と先生が座って、俺の右隣に少年C。その間に母親が、折り畳み式の椅子をわざわざ持ってきて陣取った。
もちろんお茶も菓子も出ない。母親の眼力が結構怖い。
「たぶん、てのは?」俺は少年Cだけを見ながら言った。
「実際に殺したところを見たわけじゃない、てとこか」先生が少年Cの答えを先読みする。
少年Cが肯いた。
少年Cの母親が、言いたくないことは言わなくていいと優しげに言葉を掛けるが、少年Cはゆっくりと首を振った。
「■■■くんが、○○ちゃんを引きずっているところを見て、ビックリして」
逃げた。
ということは、少年Bは、親友に犯行?現場を目撃されたことを苦にして、川に飛び込んだ?
「■■■君は、君が見てたことに気づいたの?」
「それで、■■■くんが追いかけてきて、橋の途中で」
ピンポーン。
来客のようだ。
少年Cの母親が、彼の両肩に優しく触れて、躊躇いもなく廊下に出て行った。
いいのか?
「食料品だと思います」少年Cが苦笑いする。「いつもこの時間に届くので」
しばし沈黙。
少年Cの母親がひときわ高い声で応対しているのが聞こえる。
「えっと、橋の途中で?」話を戻そう。
「雨が降ってたんです」少年Cの視線が手元に落ちる。「大きな声で呼ばれて、足を止めました。振り返ったら、らんかん?に、こう、立ってて」少年Cが手を広げる。「まさか、て思った瞬間」少年Cが眼を瞑って天井を仰いだ。
後ろ向きに落ちた、と。
「足を滑らせたってこと?」
「雨降ってるってのに欄干に立つんだ。落ちるつもりじゃなきゃ何のつもりだ」先生が腕を組む。「お前は、なんで■■■君とやらが飛び降りたのかわかるか?」
「おれに、見られた、から?」少年Cは、一語一語確認するように先生をちらちらと見た。
「君にだけは見られたくなかった、てことかな?」
犯行の露呈よりも、親友に見られた方がショックか?
でもそんなことくらいで、橋から後ろ向きにダイブするだろうか。
「お前が見たのは、お友だちが死んだ女子を引きずっていた姿だけか?」先生が言う。「女子はすでに死んでいたか? お友だちは、女子を引きずって、何をしていた?」
「その、えっと、くらかったので」少年Cは眉を寄せて首を振る。
「暗かった?」ああ、そうか。死亡推定時刻は。
「あ、その」少年Cは、母親が出て行ったドアを一瞥してから口に手を当てる。「これ、お母さんにゆわないでほしいんですけど」
「言わないよ。何?」
「その日、じゅくの日で、その、サボっちゃって」
親友が同級生の女の子を引きずっていたことより、自分が塾をサボったことのほうが、親には知られたくないのか。
なんだか。
ちぐはぐだ。
「お前は塾をサボって夜中に学校に行ったのか?」先生が指摘する。
「よばれたんです。その、おもしろいことをするからって」少年Cが横目でドアを気にしている。「あの、もういいですか。これでぜんぶ、です」
「わかった。急に来て悪かったな」先生がソファから腰を浮かせる。
「え、行くんですか?」先生が粘ってくれると思ったから食い下がらなかったのに。
廊下に出ると、母親が顔を見せた。迎えたときより明らかに笑顔だった。
帰れ。
そうゆうことだ。
「帰る前に一つ」先生が靴を履きながら言う。「■■■君とやらにも聞いたんだが、お前。男と女、どっちが好きだ?」
「え」少年Cは一瞬虚を突かれたような顔になって。
眼を逸らした。
「どう、ゆう」
「意味がわからんか? ならいい」
先生の後に続いて屋外に出る。コインパーキングまで無言だった。
「入れ知恵か、共犯か」先生がエンジンをかけながら言う。「どうにも、はっきりせんな」
少年Cは、少年Bを庇いたいのか、その逆なのか。
少年Bのシナリオ通りに、少年Cが台詞を喋っただけなのか。
「奴らの証言は横に置いといて、現場を見に行ったほうがいいかもしれんな」先生が呟く。
「行ってくれるんですか?」
「それはお前らの仕事だろう。若造は本部に捨ててく」
「えー」
母親がいなくなったあと、明らかに少年Cの言葉の歯切れが悪くなった。
逆ならわからなくないが。
いや、母親が貼りついていたときに言っていたことが本当で。
母親がいなくなった後に言っていたことが、台詞だったとしたら。
母親の前では嘘が吐けなかった?
なんで??
先生の有難い助言通り、現場の一つ、少年Bが転落した橋に来た。
欄干の高さは、130センチほど。
彼らの身長程度。
これに、
よじ登った?
わざわざ?
本当に死ぬつもりだったら、もっと確実な方法がいくらでもある。
車道に飛び出すとか、凶器を突き立てるとか。
水面まで5メートルほど。
水深もプール程度。
クラスメイトの女の子を引きずっているところを見られて。
急いで追いかけて。
大声で振り返らせて。
よじ登って。
後ろ向きにダイブ。
なんか、
芝居染みていないか?
証言は横に置いて。先生の助言通りに。
事実と現場を見る。
学校のベランダから転落した少女A。
橋から川に転落した少年B。
事件発生翌日から学校を休んで自室に閉じこもっていた少年C。
電話が鳴った。
こうゆう時に連絡してくるお節介な保護者はこの世でたった一人。
「昼ならこれからですけど?」
「早く帰ってこないと、これを」俺が気まぐれで作った弁当だ。「部下が見ている前で自慢しながら食べることになる」
「あのですね」ケータイを反対の手に持ち替える。「露呈して困るのは、俺じゃなくてあなたのほうです」
意味のない沈黙。
「いまどこだ?」
「最初にそれを聞きたかったんでしょうに」わざとらしく溜息をつく。「現場ですよ、橋の方。小学校はこれからです」
校舎は眼と鼻の先。
ちょうど、正午のチャイムが鳴った。
「一人か?」
「わかってることを聞かないで下さい」
さすが、取り調べが拷問になることで有名な人だ。
「善意の報せがあった」
先生しかいない。
「君からの報告がまだな気がするが」
「今日中には」
再び意味のない沈黙。
「気に入らないのはわかるが、一人で行動しないでくれと」
「親友に見られたくらいで飛び降りるでしょうか」欄干にもたれて空を仰ぐ。
どんどん暗黒が拡がる。
しまった。傘を先生の車に置いてきた。
「眼の前で冬の海に飛び込んだ人間を知っているんだが」
しまった。
自爆。
「あれだけはやめてくれ」
「わかってます」
大切と思われている相手に迷惑をかけたい?
ちがう。
「学校への聞き込みは君の担当じゃない」
「わかってます」
演技性とメッセージ。
なんだ。
なにか。
掴めそうな。
「そこに資料ってあります?」
「帰ってからにしてもらいたいが」
「Aちゃんは発見されたとき」無視して続けた。「泥だらけでしたか?」
おかしい。
ついこの間まで保育園か幼稚園に通っていたガキがたった一人で。
女児とはいえ、遺体を引きずれるだろうか。
もしこれが。
二人で協力して引きずったとしたなら。
「気づいたことがあるなら直接聞こう。15分以内に戻らないと」
迎えを寄越す、ではなく、迎えに行く、と。
さすがにそれは。
「はい」
「待っている」電話が切れた。
欄干を蹴ったところで。
降り始めた雨が已むわけでもなく。
いっそ少年Bの真似をして欄干に立ってやろうかとも思ったが。
足を滑らせた場合のデメリットがでかすぎることに気づいて。
間違いなくあの人のクビが飛ぶ。
少年Bは飛び降りたほうがメリットがでかかったんだろうか。
結局事件は。
4
――結果的に三人の共犯になってしまった。
のではなくて、最初から。
三人は共犯で。
(『イヴクロテクス』より)
****
「どうなったんですか?」助手がお茶を淹れながら聞く。
独特の酸っぱい匂いがする。
ローズヒップ。
「それを今日の配信でやるから」
「わかりました。楽しみにしておきますね」
時間になった。
はじまりはじまり。
「今日は、前回にも言ってたけど、僕が小学校のときに実際にあった事件について話します。僕には仲の良い親友がいたんですが、彼が」
気になっている女子がいた。いや、気にしていたかどうかはどうでもよかった。
彼女は、僕に相談してきた。
どうしたら、お母さんが家に帰ってくるか。
彼女は、母親に世話を放棄されていた。
今で言うネグレクトだ。
「さて、僕はその女子に何と言ったでしょうか? 皆さんなら簡単でしょう」
コメントに眼を遣る。
当てに来てるの半分。大喜利半分。
「うーん、ピタリ賞はいなさそうですね。いいですか? 答え言いますよ?」
死ねば帰ってくる、と。
自殺か、そうじゃないか、選べ。
「とても医者になろうとしてる奴の台詞とは思えないですよね。我ながらひどいことを言ったものですよ」
女子は、僕を人殺しにするわけにはいかない、迷惑はかけられない、と云って。
自殺を選んだ。
自宅で死ぬと母親が疑われるので、場所は自宅以外。
塾?
公園?
どこか他には。
学校しかない。
学校が一番いい。
「なんで学校なんか選んだんでしょうね? 一番ヤバい場所じゃないですか。今の僕なら絶対選びませんね」
今ならどこを選ぶか。コメントが多いので答えておく。
「そうですね。やっぱり自宅ですかね。自宅が一番安全です。邪魔も入りませんし」
いや、それは殺す場合の方か。
まあいいか。誰も気づいてなさそうだし。
「今でこそ不審者対策してますけど、当時の学校って、門は開けっぱなしだし、出入り口は開いてるし、来客もノーチェックだし、それはそれはオープンな場所だったんですよ。下校の時間過ぎたって、校庭で遊んでたらそのままだし」
僕らは一旦家に帰って、夜になってから再登校した。
南門はいつでも開いていた。
教室のベランダを見上げられる。
校舎は3階建て。
3階から飛び降りても死ねるかどうかわからない。
「さて、ここでクイズです。僕はどうやって致死率を上げたでしょうか?」
コメントを眺める。
さっきよりは話に入ってきてくれている印象。
さすがにそろそろ気づいただろう。
これが。
ノンフィクションだってことに。
「答えは、落ちる場所を工夫した、でした。当たってた方、ちらほらいましたね」
とにかく、女子はうまいこと死ぬことができた。
雨が降ってきた。
いや、回想の話。
死んでるってのに、雨ざらしになるのがどうにも可哀相になって。
引きずって、引きずって、引きずって、引きずって。
どうしたっけ。
あれ?
「んー、そうそう、気づいたらベッドの上にいて。いやいや、夢オチじゃないんですよ。女子はちゃんと死んでたんで。ケーサツの事情聴取?みたいなのも受けたし。あのとき僕を誘導訊問した、一人称“俺”の女性警官、めっちゃヨかったなぁ。また会いたいなぁ。もっかい誰か殺したら会えるかなァ。あ、いや、殺してないんだけど」
コメントで笑われる。
別にウケを狙ったんじゃないけど。
「最後どうなったのか、ていう質問が多いですが、当時7歳ですんでね。どうにもなりはしないですよ。親が付けた有能な弁護士がどうとでもしてくれちゃったんですよ。“俺”女性警官に会いたかったのにねェ。あの人まだ地元にいるか調べよっかなァ」
話がズレていると指摘。
その“俺”女性警官について詳しく、てのと半々。
「事件暴露して、俺も配信もまとめて終わりってのじゃつまんないわけです。俺もリスク承知でやってるし。俺の狙いはですね、親友君です。彼をですね、捜してるんですよ。事件後に転校しちゃってそれっきり生き別れ。え、名前? さすがにさすがに。俺が顔出ししてるから赦してもらいたいですね。要は、向こうから見つけてもらいたいわけです。はい、俺の顔に見覚えある、小学校のときの親友君はここに連絡を!」
親友君の個人情報を求める声が多いが無視。
「じゃあ、まあ、せっかく見てくれてる方々にだけ、顛末をさらっと。親友君も見ちゃったんですよ。なにせ女子の飛び降りショウ、ったら可哀相だけど、面白いものは共有したかったわけで。夜にも関わらずですね、呼んだらあの真面目な親友君が、まさかの塾サボって来ちゃって。あー、いや、でもどうだったかな、親友君来たときには死んでたかな? ちょっと記憶曖昧ですね」
止めようと思って来たのでは?という鋭い考察が光る。
敢えて拾わない。
「でも親友君、俺がやったって、その“俺”女性警官にゲロっちゃったんですよ。だから親が弁護士なんか付けてくれやがってですね。親友君が?俺を?売った? いやいや、それするメリットないですし。一緒に引きずったなら同罪ですし。あれ? ああ、そっか。重くて引きずれなかったから、一緒に引きずったんだったかな? 引きずったあたりの記憶飛んじゃってまして。思い出したら、そんじゃま次回」
事件の全貌が全然わからないっていう否定的な意見。
親友君見てくれていたら是非連絡をという協力的な応援。
それと。
俺にしか見えないコメント(有料)でまったく別の話題を振ってくるシンパとアンチ。
内一つに目印を付ける。
「記憶飛んでるって、嘘なんじゃないですか?」配信が終わってから助手が声を掛ける。
「やっぱ?」
「謝罪会見を期待されてたんじゃないですか? 視聴者はよく燃えるものがお好きでしょうから」
「あー、マズった?」
「ええ」助手が苦笑いしてお茶を淹れ直す。「作り話の反応を計測して、手応えがあればなんたら賞にでも応募しようと思われているかもしれませんね。もしくは首謀者の手記辺りを出版にこぎつけるとか」
落ち着くいい匂い。
カモミール。
「そんなことしないよ。ガチに百パ、リウに会いたいだけなんだから」
「では、その親友君の転居先をすでにあなたが掴んでいるというのは内緒ですか?」
「リウに見つけてもらいたいわけ。君ならわかるでしょ?」
「さあ」助手は非の打ちどころのない完璧な微笑みを残して、キッチンに消えた。
あの笑顔だけで相当稼げると思うが、所有欲の強い彼氏のせいでバイトも禁止されてるんだとか。
彼氏が執り仕切るいわゆる“副業”が芳しくないせいで、最近距離を取られて淋しそうにしていたので、小遣い稼ぎに配信の助手をしてくれたら手当は応相談、と持ちかけたらば、短期間ならという条件で、溜息が出るほどの美人を手元におけることになった。
配信にちらちら見切れるので、新しモノ好きの視聴者も気になっていることと思うが、助手の個人情報は明かさないという条件でこちらもやってるわけで。
カップを洗う後ろ姿が見える。
白磁みたいな首筋が支配欲をそそる。
「助手の君にだけホントのことを教えようか」助手が振り返らないのを見届けてから続けた。「君の言うとおり、忘れてなんかないよ。引きずったあたりの記憶が吹っ飛んでたのは本当だけど、事実として憶えてるだけで、何て言うかな、実感がないんだ。解離っていうか、なんだっけ、離人? とにかく、あっけなかったね。あんなに簡単に人が死んじゃうなんて」
助手はほとんど聞き流していた。ことはわかっていた。
俺みたいな奴の話をまともに取り合わないほうがいいことを、経験としてわかっているようだった。
配信は毎回アーカイブを残している。
助手君を紹介してくれたご令嬢(俺が勝手にそう呼んでる)から連絡が入った。アーカイブを見たのだろう。
「随分と派手に宣伝されますのね」ご令嬢はあきれた様子だった。
重要な話があるからと、会員制のホテルに呼び出された。23時を回っている。明日は午後から講義だったからよかったものの。抗議は受け付けてもらえないし仕方なし。行き帰りのタクシー代もらえるし。
「目立つのがお好きなのかしら」ご令嬢が挨拶代わりに嫌味をくれる。
もう慣れたけど、ご令嬢の都合(詳細は不明)でいつも部屋が致命的に暗い。お付きがドアを開けたり閉めたりしてくれなかったら、訪問のたびにドアの数だけおでこにコブを量産してしまう。
丸いテーブルの中央に古風なランプ。悪の秘密結社の極秘会議だってこんなに陰鬱じゃない。向かいの玉座めいた仰々しい椅子にご令嬢がちょこんと座っている。小さな顔を覆う大きなサングラスは相変わらず。顔を隠したいというより眼が見えてないんじゃないかと予想してるけど、いまだ明確な解答をもらえていない。眼玉がないっていう可能性だってないわけじゃない。
お付きが紅茶を淹れてくれた。
茶葉が高級すぎて銘柄がわからない。
「突然お呼びしましたのは」ご令嬢が紅茶を一口含んでから言う。「わたくしの兄を診ていただきたく、お願いしたい所存ですのよ」
「質問があるんですよ」
「ええ、どうぞ」
「俺まだ医者でもなんでもないんで」
「練習台、ということですのよ」
「はあ、そうすか」
断るとか断らないとかはない。
決定事項の発表会にすぎない。
「ちなみに、お兄さんはどんな病気でしょか」
「それを探るのがあなたのお役目でしてよ」
「言い方変えます。お兄さんは、どんなことで困っていて、医者にかかろうと思ってるわけで?」
「亡くなった意中の方にそっくりな外観の人間の中身を抉り出して入れ替える、いわば反魂の外法の反動ですわ」
「へェそりゃ面白いや。で?本当のところは?」
ご令嬢はにっこりと微笑む。この笑顔の口の感じがどことなく助手に似てる気がするけど、美人なんかみんな同じ顔に見えるってゆうあるある現象だろうと。
「追ってお兄様の育ての親から連絡が入りますわ」
「お兄様の育ての親ってことは、つまりご令嬢の」
「赤の他人ですわね」間髪入れずなお答えだった。「忠告ですけれど、わたくしがお兄様と感動の出会いを果たすまでわたくしのことはお兄様に伝えないでいただきたいの」
「誰の紹介か黙ってろってことでしょ? わーってますって。顔だけ見て帰ってきますよ」
翌日知らないアドレスから、日時と場所の指定があった。まさかの明日とか急すぎるけど、ご令嬢の関係者ならこんなもんだろうと。
医者になるための勉強がどんどん疎かになってる気がしないでもない。医者になった後の練習ばっかしたって、免許がなかったら元も子もないわけで。その辺をきちんとわかってくれているのか定かではないが、医者になった後の就職先は面倒を見てくれそうだから、如何なく顔は売っておきたい方向で。
住所を伏せておきたいのっぴきならない意図を感じた。出発の駅で受け取ったチケットで新幹線。到着の駅で迎えに来ていた車に乗る。無個性な黒スーツの男が運転する。
沈黙に耐えかねて可もなく不可もない話題提供をしても完全無言。無視というより、客と口をきくなと命令されているのだろう。
純日本家屋の門の前で降ろされる。勝手に入るなとも待っていろとも言われていないので。
「すいませーん」と声を上げた。呼び鈴が見当たらなかった。
「お待ちしていました」と優しげに応対してくれた男の顔を見て。
十年前に欠けたピースを取り戻す。
なんで。
いや、
まさか。
いや、
神よ!
て感じか。
ご令嬢はぜんぶご存じ?
ぶっちゃけお兄様は栄養が足りていないようだったので、それっぽい助言をそれっぽくでっち上げて適当に済ませたし、顔なんか見るどころじゃなかった。
ずっと、
ずっとずっと、
ずっとずっとずっと捜していた。
親友に再会できたことが感極まりすぎて。
「リウ?」門まで送ってくれたのでこっそり声をかけたが。
「忘れ物でも?」初対面ですよみたいな笑顔で首を傾げられた。
食い下がって不審がられてもご令嬢のご意向に反しそうだし。
亡くなった意中の相手にそっくりな外観の人間の中身を抉り出して入れ替える、いわば反魂の外法。
お兄様が使った外法の材料が、リウだったという。
ことだ。
リウを取り戻さなければいけない。
俺のことを憶えていないだなんて。
リウはすでに実家にはいない。リウの通っている大学を突き止めないと。
学部は?
アパートは?
俺が焦って自暴自棄になっているのがよほど見るに堪えなかったのか、ご令嬢がヒントをくれた。
「あなたと逆ですわ」
逆?
「しっかりなさって? 自分のことを忘れられていたくらいで。忘れられたのならまた思い出させればよいだけのこと。違いますかしら?」
「励ましてくださってるんで?」
忘れているというよりは、記憶を書き換えられたんだと思うけど。
とうとう住所が送られてきた。
「さっさと取り戻してくださいな」
ご令嬢にお礼を言って、リウの住んでいるマンションまで急いだ。
俺と逆。
俺はリウを追いかけて、リウの転校先の県の大学を選んだ。
リウは、俺のことなんか忘れて、俺を置いていった県に戻った。
オートロック。
部屋番号はわかってるのに。
番号を。
押すだけでいいのに。
また。
またあの顔で。
知らないと言われるのがつらすぎて。
「どうされたんですか?」
リウの声がして振り返る。
最高のタイミングを掴んだ。
神も天も俺を見放していない。
「能登教憂 君だよね?」
ここの住人を装ったってどうせ嘘がバレる。
「俺のこと、憶えてない?」
「えっと」リウが困った顔をする。「大学の?」
待て。
リウだ。
これは、リウだ。
この間お兄様の家で会った“彼”とは違う。
戻った?
リウに戻ったのか?
「リウ」
「あの、立ち話も何なので。よかったら」
なんで。
ノーガードでわけのわからない他人を部屋に招き入れるのか。
「最近記憶がぷっつり途切れることが多くて」リウが苦笑いする。「ご迷惑をかけてる人が多いみたいなんです」
ぷっつり途切れている間に、その故人の人格が身体を動かしているのだろう。
部屋はそこそこ散らかっていた。台所は使った形跡がない。学生が借りるマンションにしては広い。2DK。親か兄のカネだ。
リウのにおいがする。
デスクにあった読みかけの本のタイトルを横目でインプットする。
「用件はレポート写させて、とか?」リウが座布団を用意しながら言う。「俺の見た目のせいかそこそこそうゆうお願いが多いんだけど、最近記憶がぷっつりてのと土日はちょっと用事があって出掛けちゃってるから、あんまりカバーできてないんだよね。むしろこっちがお願いしたいくらいで」
「あー、えっと」まずい展開になってきた。「俺は、同じ大学じゃなくて」
「え、そうなんだ」リウがちょっとがっかりしてる。「じゃあ」
何しに来たのか。
何しに来たんだ俺。
「リウ、本当に俺のこと憶えてない?」
「えっと」リウが俺の顔をまじまじと見る。「ごめん」
「小学校のとき、同じクラスだった」
「小学校?」
俺は学校の名前と地域を言う。
「うーん」リウが眉をひそめる。「そうなんだ。ごめん、全然思い出せないや」
お兄様の禁術のせいで消えたわけじゃなくて、当時とっくに消していた、てのが有力か。
「あのさ、リウ、俺と」
「へえ、随分モテるんだね、“彼”」リウがメガネを外した。
リウじゃない。メガネを外したら見えないはず。リウはそのくらい近眼。
“彼”は、
お兄様の屋敷にいたあの男だ。
「なんで?て顔してるね。僕だって好きで出てきたわけじゃない。君、彼が封印してる記憶を掘り起こそうとしてない? それは困るんだ。彼が壊れちゃうから」
あのときも思ったけど、表情が全然違う。
リウはそんな顔しないし、そんな喋り方もしない。
「彼が壊れちゃうと、僕もどうなるかわからない。それは、僕としては避けたい。せっかく生き返ったんだから、やりたいことはやっておきたい」
「名前は?」
「聞く前に自分から名乗ってよ。僕も君とはほとんど初対面なんだから」
「比良生禳 」
「正常?」彼は莫迦にしたように嗤う。「ひどい名前だね。親の顔が見たい」
「俺は名乗ったんすけど」
「キサガタ。これでいい?」
喉の奥がカラカラに干上がる。
時計の秒針が耳に障る。
「君、彼のことが好きなの?」
「だったらどうなんすか」
「彼の童貞は君がもらったの?」キサガタが嗤う。「なんでそんなことわかるのって顔だけど、僕は彼の記憶を全部見ちゃったからね。君との思い出はぜーんぶ、厳重に封された壺の中にあったよ。よっぽど忘れたかったんだね、君のことなんて」
俺の神経を逆撫でようとしているのが痛いほどわかる。
そうか。
彼は、
こちら側だ。
「仲間なんて思われたら心外だなぁ」彼が俺の考えを読んだ。「僕は君と違って、この手で、自分の手でやってるから。君は自分の手を汚さないで追い込むのが好み? どっちがえげつないのかって、比べるまでもないと思うけど」
「リウに戻ってほしいんすけど」
「嫌だよ。戻った瞬間押し倒すでしょ? それ、世間では強姦て言うんだけどな」
「じゃあ俺が帰ったら、その身体、リウに返してくれますか」
「君が帰ったあとのことなんか知らないよ。ねえ、なんで女子を屍姦したあと、彼の眼の前で川に飛び込んだの?」
「予想ついてるくせに」
「そうだね。予想は付かなくもない」彼が鼻で嗤う。「でもその程度のことで飛び降りないでよ。下手したら君、死んでたかもしれないよ。ああ、死んだら死んだで都合いいのか。死んでも死ななくても、眼の前で飛び降りることがだいじだったみたいだしね」
なんだこの気持ちが悪い。
不快極まりない。胸糞悪い。
「見抜かれるのは初めて?」
「お兄様には悪いスけど、あんた、相当性格悪いスね」
背筋の悪寒を感じないようにする。
感覚遮断。
不快不快不快。
「あんたを消したら」
「記憶ごと消えるよ。それでもいいの? 君との関係はリセットだ。ああ、むしろリセットされたほうがもう一回やり直せるから都合よくなっちゃうか。じゃあ、記憶は置いてくよ。蓋だけ開けて。彼が苦しむ顔が見れないのは残念だけど」
何も話さないほうがいい。揚げ足どころが墓穴になりかねない。
こんなに危機感を覚えた相手は、
あのときの“俺”女性警官以来。
いや、あのときは眩すぎる光が相手だった。
今回のこれは、
闇よりも尚深い。
どんな地獄を見てきたらこんな真っ黒に染まるんだ。
「帰ります」
「それがいいよ。出直すのもなしで」彼はリウのメガネを弄びながら呟く。「君は、彼にあんまりいい影響をもたらなさそうだから」
マンションを後にしてすぐにご令嬢に連絡した。
肩と首の違和感が、何度タオルで拭ってもこびりついて落ちない。
「わたくしも直接お話ししたことは御座いませんけれど、先代を心中に駆り立てたくらいの猛毒ですから。でも、お兄様はどのような方法でその方を黄泉の国から連れ戻したのか。末恐ろしいことですわね」
本気で言っているのか。
本気でそんなことが出来るとでも?
「ご令嬢?」
「何ですの?」
「なんか、変なもの喰ってません?」
ご令嬢が笑った音がした。
それからしばらくして。
お兄様にそっくりな男が、近いうちにリウを攫うので治療しろ、と無理難題を吹っ掛けて来た。
「いや、何度も言ってるんですけどね、俺はまだ」
「出来ないなら他を当たる」
それは。
困る。
「どうする?」
やるしかない。
とりあえず。
「お兄様とは距離を取った方がいいですね」と適当な治療計画をでっち上げて。
海の見える高層マンション。
白いベッドにリウが寝ていた。
まさかマジで攫っちゃうとは。
「これに」お兄様と瓜二つの男がノートを手渡した。「進捗を書くといい」
「カルテってことですか」
お兄様によく似た男は、眼が見えないようだった。
包帯をぐるりと巻いて両眼を覆っている。
杖も何もなしですたすたと歩くし、ドアにも壁にもぶつからない。
ご令嬢と一緒で、なまじ眼球よりよく見える何か別の臓器をお持ちのようで。
お兄様が席を外したあと、リウの頬に触った。
冷たい。
心配になって胸に耳を当てる。
聞こえる。
二度と眼を覚まさなかったら。
眼が覚めてリウだけいなくなっていたら。
厭な想像に首を振る。
そうしないために、俺がいるわけで。
ご令嬢の従姉とやらにも会った。ご令嬢からの紹介じゃなくて、お兄様に酷似した方。
なんでこんなご令嬢の親族一同に挨拶回りをしなければならなくなっているのだろうか。
「若過ぎない?」ご令嬢の従姉は俺を訝しげに見上げた。
従姉さんは、膝から下がない。
車椅子に乗っている。
「まだ勉強中なもので」正直に言っておく。
「飛び級とかじゃなくて、まさか免許まだなの? 信じられないわ」
俺自身に攻撃が来るのかと思ったが、従姉さんは、学生の身分の俺をいいように使おうとしているご令嬢やお兄様そっくりの彼に対して非を追及するつもりのようだ。
従妹さんは、ご令嬢とは敵対関係にあるんだとか。
それは割とどうでもよくて。
気になったのは、
この一族は身体のどこかを故意に欠損している。
じゃあ、
お兄様は。
どこを。
強いて言うなら、
正気の沙汰じゃない。
まともな神経なら、友人を殺して自分の好きだった故人を憑依させるなんてこと。
思いつかない。思いついたとしても実行に移したりなんて。
「殺さないからちょっと我慢してね」助手の白磁のような白い首を絞める。「ホント殺さないから。殺すのなんか全然興味ないし、ご令嬢や君の独占欲の強い彼氏に呪い殺されても本意じゃないし」
助手が持っていたカップが床に落ちる。
割れて。
破片が。
足の裏に刺さってるけど痛みは不思議となかった。
ケトルが蒸気を噴く。
力を込めるのに疲れて。
手を離す。
助手が勢いよく咳き込む。
「ごめんごめん。ちょっとやってみたかっただけだから、もう、たぶん、しない」
「破片を、踏んでいます」助手の声はひどく掠れていた。「片付けます、ので」
床に血が。
絵の具みたいだった。
絵の具が飛んだのを気づかずに、その上を歩き回った、みたいな。
濁った黒。
「何を?」
イイコト。
「思いついちゃった」
リウは、
誰にも渡さない。
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