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第8章 キに寄りて魚を求む
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「そうですか。KRE 次期社長には、とある噂がありましてね。根も葉もない言いがかりなんだとは思いますが、ああ、そうだ。これはご存知です? 次期社長の父親について」
「知らんし要らんわ。興味もあらへんし」
「そうですか? 聞けばそれなりに面白いと感じるかもしれませんよ」
「そんなんお前の趣味の問題やろ?」
「知っといた方がいいですよ。KRE一番のスキャンダルなので」
音声が切り替わる。
明らかに編集点があった。
「で? 実際に伝えたのかどうか、ですよね? それはご自分で確かめたほうが、あなた好みだと思って。この先は敢えて残していません。え?違うって? そうです。さすがお見通しですねぇ。私だけで愉しませて」
切った。
腹が立ったわけじゃない。そもそも彼はそういう奴だ。
彼を遣いに行かせたことが、そもそもの誤りだったと思うしかない。
このやり取りを何度も再生している。
何度も何度も。
何度再生してもこの最後のあたりで止めてしまう。
そうか。
やっぱり、憤っているのか。
でも、何に?
言いつけた役割をきっちり果たさなかったことに対して?
いや、彼は僕にとってなんでもない。ただ利害が一致したからこのとき一時的に手を結んだだけのこと。いわば期限付きの同盟関係。
すでに解消され、彼と僕の関係は元の緊張状態に戻った。
ああ、そうか。
彼は僕に嫌がらせをした。それで僕が憤りを感じたのか。
なんのことはない。安い挑発だ。
「大丈夫ですか?」たいらが僕の機嫌センサに反応して声をかけてきた。
「大丈夫じゃなかったらどうしてくれるわけ?」
「僕でお役に立てるのであれば」たいらが身を委ねるような視線を向けた。
ムカついたので手元にあったペットボトルを投げた。
空っぽだったので、そんなに痛くはないだろう。首から下を狙ったので当たりどころも悪くない。
「少しでもお役に立ちたかったら頭を使えよ。身体しか使い物にならないお前に言っても仕方ないけど」
「申し訳ございません」
「じゃあ試しに頭使ってみろよ。聞いてやるから」
たいらが困ったような顔を浮かべる。
「あと3秒。3、2」
「今月の生誕祭で」たいらが眼を瞑りながら言う。
僕が何かを投げつけると思ったのだろう。
「確定事項に口を挟まれてもな。余計にムカつくんだけど」
たいらが床に膝を付いて頭を下げた。
降参の合図。
「頭上げなよ」
踵でたいらの脳天を撫でる。
「お前、自分に何ができるか、その可哀相な頭でよく考えなよ」
「はい、努力します」
教祖の生誕祭まであと2週間。
夏休み前にちょっとした事件を起こしてあげよう。
そしてまた、あなたのひどく乱れた絶望の表情を僕に見せてほしい。
ねえ、
藤都巽恒 ?
第8話 キに寄りて魚を求む
1
KREの管理していた辺鄙な山を買い取って総本山を構えた新興宗教団体・白竜胆 会。
来たる7月の2週目の日曜日、教祖の生誕祭があるらしい。
「是非、実敦 さんもいらしてほしくて」小張有珠穂 がデコラティヴな白い封筒を差し出す。
彼女は、白竜胆会の幹部。2年以上前に、とある依頼で関わったことがある。
初めて会ったときよりさらにボリュームアップした(布の量的な意味で)スカート。ふんだんにレースをあしらった透け感のあるブラウスに、薄い黄色のカーディガンを羽織っていた。
少女趣味の服装のせいだけではない。相変わらず、年齢感がぼやける。この人の周りだけ時空が歪んでいるのかとさえ錯覚する。
「もちろん、来ていただけますわよね?」小張有珠穂が満面の笑みで迫る。
KRE鎌倉支部にいるのはいま、事務員の伊舞 とバイトの巽恒のみ。小張有珠穂の視界に巽恒が入っていないことを願いつつ。
「返事をする前に確認なのですが、僕以外にも?」
「ええ、会長と社長と。そちらは直接ではありませんけれど、是非。本来であればKREの社員の方には全員をもれなくご招待したい気持ちもあるのですが、生憎と会場が手狭なの。ご不便をおかけしますわ」
おそらく本気で言っているのが、小張有珠穂の恐ろしいところだ。
呑まれてはいけない。
「わかりました。できる範囲で出席させて頂きます」
「嬉しい。実敦さんならそう言っていただけるって、信じていましたのよ」そう言うと、小張有珠穂は足取り軽く事務所を後にした。本当に招待状だけを渡す用件だけだったのだろう。
「はあ、なんなん? あのお嬢様」巽恒がカウンタの内側から恐る恐る顔を出した。
空気を読んで隠れてくれていたなら幸い。
巽恒に改めて白竜胆会のあらましと、KREとの関係の概略だけ伝えた。
「しゅーきょーの。ほおん。そらええ関係やな」巽恒がどうでもよさそうに吐き捨てた。
俺だってそうしたい。
でもそうできない深い事情があったりなかったりする。
とりあえず、会長に確認。するまでもないか。会長もとい祖父 さんが参加する理由がまったくない。
社長は。
「だいじょう?」巽恒が眼の前で手をひらひらさせていた。「意識どっか行ってへんかった?」
「問題ない」
「行かはるん?」
「お前も来い。バイト代は弾む」
「俺関係あらへんやろ? 部外者が行くんは」
「俺だって部外者だ」
「せやったら、なんじょうお嬢様幹部が直接招待状持ってきよるん? ちゃっかり気に入られとるのと」
「さっきの人は、うちの社長の元同級生らしい」
「はあ、若造りやね。せやけどお前の母親? 社長やったっけ? よう知らへんな」
「言ってないからな」
伊舞が複雑な表情でこちらを見ていた。「私が行きましょうか?」
「いい。受け取ったのは俺だ」
「俺は受け取ってへんやん」巽恒が異を唱える。
封筒の中に二つ折りのカードが入っていた。
日付はいまから一週間後。
会場はもちろん白竜胆会の本部。
差し出し人は、白竜胆会総裁。
それだけのたった三行で済む程度の内容が、いかにも仰々しく印字されていた。
生誕祭て、やっぱりドレスコードか。巽恒の服も見繕わないと。
「俺は行かへんで」巽恒がこちらの脳内を見透かしたように言う。
「わかった。いくら払ったら行くんだ?」
「いくらもろても行かへんて」
「面倒だからか?」
「他にあるかいな、教祖の生誕祭やなんて。しゅーきょの儀式やん。そんなん胡散臭すぎてサブイボ出るわ」
「じゃあどんな条件なら付き添うんだ」
「どないな条件かてあかんわ」
伊舞が心配そうにこちらを見守っている。「やっぱり私が」
「ええやん。カネやんがそうゆうてくれはるさかいに。お言葉に甘えて」
「わかった。なんで俺が行かないといけないか教えてやる」
「お得意さんやからやろ? そんなんいちいち言わんでもわかるわ」巽恒がうんざりしたようにカウンタに頬杖をつく。「関係壊したないんやろ? わかるさかいに、諦めて大人しうお前だけ行ったったらええのに」
「心細いから付いてきてほしい」
「はあ、随分弱気やな。お前らしない。どれどれ」巽恒が俺の手から招待状のカードをつまみ上げる。中をちらりと見て。「は?」と大きく眼を見開いた。
「どうした」
「気ィ変わった。行くわ。行ったる」
なぜ突然巽恒の気が変わったのか。何がそうさせたのか。気にならないわけではなかったが、気が変わる前に礼服を選びに行きたかったので敢えて掘り下げなかった。
午後の仕事を早めに切り上げて、馴染みの店に足を運んだ。先に電話で来店を伝えていたこともあり、スムーズに対応してもらえた。つまり、あらかじめ候補をピックアップしてくれていた。
「俺は学ランでええで」巽恒が面倒くさそうに言う。
「信者の礼服 が何色か知ってるか? ヒントは団体名」
「はあ?」
「白竜胆会だからな。目立ってもいいならそのまま行けばいい」
巽恒はこれでもかと言わんばかりに嫌な顔をして、「先に言えや」と大きな溜息を吐いた。
2
一週間後の日曜日。
白竜胆会のロゴの入ったマイクロバスが事務所の前まで迎えに来た。お陰でこの目立つ白の礼服で街中をうろうろしなくて済んだ。
本部に行くのは実は初めて。2年ほど前の依頼のときは、本部の近くの神社までだった。
酔いそうなカーブを上って、半円上の球体がぼこぼこと生えている異空間に出た。テーマパークに連れて来られたのではと勘違いしそうなゲートをくぐると、全身白でコーディネートした信者たちが一斉にこちらを見て「ようこそ!」と歓迎の言葉を投げかけてくれた。あながちテーマパーク説は間違いでないのかもしれない。巽恒は半歩引いていた。
案内役に敷地内配置図のパンフレットを渡された。あとで使うからと言われたので鞄に仕舞った。
「ほお、太陽系なんやな」巽恒がパンフを見ながら呟く。
一番手前の長方形の建物が海天宮《うみあまみや》という名称らしい。その奥のひときわ大きな半球状のドームが木天宮《きあまみや》。なるほど。
海天宮を抜けると人二人がぎりぎり行き違いできる幅の屋根付き通路が伸びており、木天宮とつながっていた。木天宮が今回の生誕祭のメイン会場とのこと。
すでに多数のゲストと信者が集まっていた。案内役は木天宮の入り口で深いお辞儀をして通路を引き返して行った。
見事に皆さん真っ白の衣裳で。男性はそれこそ白いスーツが大半だったが、女性は白という共通点の元にいろいろと趣向を凝らしているようだった。ワンピース、パンツスーツ、ドレスなどなど。
中央に円柱状の台があり、その周りに丸テーブルが点々としていて、立食パーティ形式のようだ。皿を受け取って料理を見て回ることにした。
「なんや変なもん入ってへんやろな」巽恒はじろじろと見るだけで皿に取ろうとしない。
11時。
パーティのタイムテーブルを知らないが、直接幹部が招待状を持ってきた以上、そう短時間で解放してくれそうもないので、念には念を入れ腹に物を入れておいた方がいいだろう。
「味は悪くないぞ」
「さよかあ」巽恒はついに皿を返却してしまった。「調子悪ぅなったら相手の思うツボやで? 看病ついでにあのお嬢様にぺろっといただかれてまうで?」
「冗談だろ」
「でやろ?」
見知った顔に挨拶をして回ることにした。
市長夫人とその娘。桓武《カンム》建設御曹司。確かここは婚約関係を結んでいたはず。
商工会会長。駅前商店街振興組合長。臨海商業組合長。こちらはお馴染みの面々。
合間合間に信者に心地の良い歓迎を受けた。
さすがに神社仏閣の関係者はいないだろうと思ったが、俺が通っている中学の校長が来ていた。校長は経慶《けいけい》寺の住職の弟だ。住職の代わりに来たのだろう。巽恒を見るなり孫の件で世話になったと改めて礼を述べながらも、表情はやや複雑そうだった。
それはそうか。
孫がああも真っ直ぐに陥落してしまえば。
小張有珠穂にも挨拶したかったが、裏方にいるのだろうか。姿が見えなかった。
代わりにと言ってはなんだが、総裁の長女と長男が目敏く俺を見つけた。長女は落ち着いた印象の物怖じしない女性で、長男は一秒でも早く帰りたいオーラを隠しもしないやる気のなさだった。
長女が、朝頼《トモヨリ》翡瑞《ヒズイ》。
長男が、朝頼《トモヨリ》舞弦《マズル》。
「二男と二女もいるの。後で紹介するわ」そう言うと、長女は有無を言わさず長男を引きずって会場の奥のほうに行ってしまった。
「次期総裁争いゆうこと?」巽恒が俺に耳打ちした。
「仲はよくなさそうだったな」
「総裁ゆうん? なりたいんやったらええんやけど、強制の可能性もあるんかな」
先ほどの二択であれば間違いなく長女に軍配が上がるだろうが、二男と二女もいるとなれば。
どうでもいいことか。うちと良好な関係を続けてくれるのであれば誰でも。
突然照明が落ちた。
誰も慌てている様子がないとなると演出の一部だろう。
先ほどまで暗がりでよく見えなかった会場の奥がライトで照らされ、ステージ上に整った顔立ちの身長の高い男が立っていた。手元にマイクを持っている。
「お集まりの皆々様。本日はマチハ様の生誕祭によくおいで下さいました」
男は名乗りもせずに、耳に残る低い声で長々と挨拶を続ける。
名乗らなかったのは、敢えて名乗る必要がないからだ。
彼は、白竜胆会総裁。
朝頼《トモヨリ》ガルツ。
招待状の差出人。
「ではお待たせ致しました。マチハ様からお言葉を賜ります」男がそう言って一礼すると、ステージの照明が再度落ち、会場中央の円柱状のステージに照明が移る。
白いベールで顔を覆った女性が、装飾の多い肘掛椅子に座っている。
「本日はわたくしのために集まっていただき感謝いたします。皆様に幸多からんことを。せめて本日だけは自分のために良いことをなさってください」
割れんばかりの拍手。
場に倣って拍手した。巽恒もそれっぽく手を鳴らしていた。
「マチハ様からもあったように、本日は自らのために良いことをしてよいのです」再び照明が総裁に戻った。「このあとの予定は各皆様にお任せします。マチハ様と交流されたい方は金天宮《かなあまみや》へ。自らのために祈りを捧げたい方は水天宮《みずあまみや》へ。自らの心と身体に休養を与えたい方は冥天宮《めいあまみや》へ。そして、ゲストの方々でお食事を続けたい方以外はどうぞ風天宮《かざあまみや》へ。ちょっとした趣向をご用意してございます。お付き合いいただければ幸いにございます」
巽恒がパンフレットを広げて指を差す。
風天宮。
いまいる木天宮からつながっている。
「趣向ってなんやろ」
少なくとも食事よりは興味を引いたらしい。巽恒が移動する気満々なので後に続いた。
風天宮に集まったのは、俺と巽恒。市長の娘と桓武建設御曹司。総裁の長女と長男。
見事に未成年の一団。
なるほど。大人たちはすでに酒気帯びなので聞こえていなかった可能性が高い。
「ちょうど3つのペアになりますね」緋の袴を掃穿いた巫女が待っていた。手に白いボードを持っている。「紹介が遅れました。わたくしは白竜胆会の社で巫女をしております、小張《オワリ》メイアと申します」
小張有珠穂の娘か姪だろうか。ホール内が絶妙に薄暗く、顔が似ているかどうか比べられない。
「これから皆さまに出題を致します」巫女がボードを見ながらすらすらと話し出す。「要はゲームです。入り口でお渡ししたパンフレットを参考にご移動下さい。ただ、水天宮のみ立ち入りはご遠慮ください。立ち入らずとも成立するよう配慮してございます。どうぞご理解を」
「移動はええけど、ゲーム内容ゆうのは?」巽恒が言う。
巽恒が聞かなかったら俺が聞こうと思っていた。
「出題内容は、各会場に隠されたキーワードを揃えて、秘された謎をお解きください。ちなみに風天宮のキーワードはこれです」巫女がボードを開いて見せた。
A4サイズの紙に大きく手書きで「×」とあった。「x」かもしれない。
「巫女さん、そらエックスなん? バツなん?」すかさず巽恒が訊く。
「キーワードを集めていけばおのずとわかるはずです。メモがご入り用な方はこちらを」巫女がてきぱきと自分と同じ白いボードを手渡す。
二つ折りのボードの内側はバインダになっており、白い紙が何枚かと、ボールペンが付いていた。
「便宜上、こちらからAチーム、Bチーム、Cチームと致します」
俺と巽恒ペアが、Aチーム。
市長の娘と桓武建設御曹司ペアが、Bチーム。
総裁の長女と長男ペアが、Cチーム。
「謎を解かれた方はここ、風天宮まで戻っていらしてください」巫女が説明する。「これは競争です。一番早かったペアにはささやかなプレゼントを用意してございます。何かご質問はございますか?」
「確認なんやけど」巽恒が間髪入れずに手を挙げる。「こっちのCチームさん、身内やん。ゲームの内容わかってて八百長ゆうことはあらへんよね?」
「ご心配には及びません。ゲーム内容を知っているのはわたくしともう一人。これを考案した者のみとなっております」
「やっぱあいつかよ」長男がはあ、と深い溜息を吐いた。「だと思ったんだよな」
「そうよね」その脇で長女が眉を寄せて腕組みをした。
この二人には、出題者が誰なのかわかっている。
「私も一つ」市長の娘が手を挙げる。「勝者は1ペアだけ? それなら最初のペアが解けた瞬間に他の2ペアは参加意義を失うじゃない? リアルタイムでアナウンスはあるの?」
「勝負が付き次第各会場に控えているスタッフから声掛けがございます。わたくしと同じこの白のボードを持っておりますので、各会場での不明点もその者にお聞きください」
「じゃあ俺も」長男がやる気なさげに手を挙げる。「俺らが勝ったらその出題者に一発お見舞いしたいんだけど、今日ここ来てんの?」
「どうぞ勝った暁にお聞きいただければ」巫女が動じずに言う。「他にございますか? なければ始めさせていただきます」
12時。
巽恒が空腹を感じていなければいいが。
「ほんなら奥から攻めよか」巽恒がパンフレットを開いて指を差す。
木天宮とは反対側の通路でつながっている3施設。
土天宮《つちあまみや》を中継地点として、同じく半球状の火天宮《ひあまみや》、台形のような冥天宮《めいあまみや》。
Cチームは木天宮側に引き返し、Bチームは我々と同じ方向に行くようだ。
「廟晏《びょうあん》くん、案内してくれる?」市長の娘が御曹司に言う。
先を越されないように巽恒が早足になったので続いた。
土天宮。
木天宮は中央が一段高くなっていたが、こちらは逆に一段低い。円状に低くなった部分に丸テーブルが置かれ、外周をソファが囲んでおり、休憩スペースに宛てられているようだった。風天宮からつながる通路と火天宮につながる通路の入り口に挟まる形で階段があった。ここは上階もあるらしい。
階段の前に白いボードを持った信者が立っていた。眼が合うと向こうは感じのいい笑みを向けてくれた。
よく見ると、外周にドアが点々としている。
「客室ですよ。望めば宿泊も可能です」御曹司が教えてくれた。
「これやな!」巽恒が中央の丸テーブルに駆け寄った。
先を越されたくないのではなかったのか。そんなに大きな声を出さなくても。
テーブルに先ほどと同じくA4サイズの紙が貼られており、そこには「2」とあった。
「2やな」巽恒が呟く。
念のためメモしておく。ボードは巽恒が俺に押し付けた。
「どう思う?」市長の娘が御曹司に訊く。
「これだけではなんとも」御曹司がゆっくりと首を振る。
「次や次。俺はこっち行くさかい」巽恒が冥天宮への通路を指差す。「そちらさんはあっち行ってくれへん? 時短や。協力せえへん?」
Bチームには火天宮に行かせるらしい。
「別にいいよ。ね、いいよね、廟晏くん?」市長の娘が言う。
「千崗《ちおか》さんがいいなら僕はそれで」御曹司も頷く。
御曹司はすでに市長の娘の尻に敷かれてはいまいか。いや、他の家の家庭事情(未来図)などどうでもいいか。
「ほんならあとでな。行くで?」巽恒は楽しそうだった。
こうゆう謎解きゲームが好きなんだろうか。
冥天宮に入ると、左右に細い廊下が伸びており、壁には先ほどと同じように扉が点々としていた。ボードを持ったスタッフに尋ねたところ、こちらは信者用の短期宿泊施設とのこと。
向かって左の奥の扉に、A4サイズの紙が貼ってあり、「9」とあった。
「これだけ惑星と違うんやったっけな」巽恒が言う。
「戻って他のも確認するか」
「せやな」
土天宮の中央ソファにBチームのペアが座っていた。
「なんやった?」巽恒が尋ねる。「こっちは9やで」
「こっちは7だよ」市長の娘が言う。「やっぱり全部回らないとわからないかな」
「そらCチームの協力次第やろ」巽恒が企んだように笑う。
風天宮を通過して、木天宮への通路の途中でCチームと出くわした。
「こっちのヒント教えるさかい。そっちのも教えてくれへん?」巽恒が真っ先に切り出す。
「悪ィがな、もう解けちまったんだ」長男がどうでもよさそうに言う。「いまから見に行っても間に合わねえぞ?」
「ホンマなん?」巽恒が鎌をかけるのと。
「ウソ。すごーい。どうしよ」という市長の娘の純粋な驚きが被った。
長女が長男の後ろで得意そうな視線を寄越したので、おそらく本当に正答に辿り着いたのだろう。
「行くか?」俺は巽恒に訊いた。
「ムダ足なるんも虚しいさかいに。聞いてからにしよか」巽恒が眉をひそめて踵を返す。
全員揃って風天宮に戻った。
「解けたぜ、預言者さんよ」長男が巫女に軽口を叩く。
「いまはメイアとお呼びください」巫女が真顔で返す。
普段から付き合いがあるのだろう。
距離感もそんな感じがした。
「やっぱ身内補正で簡単やったんと違うん?」巽恒が言う。
「俺ら向けに簡単にしてくれてあったのは間違いねえだろうな。あいつのやりそうなこった」長男が吐き捨てる。
俺ら、というのは身内のCチームペアだけではなく、ここにいる全員を指しているような口ぶりだった。
「私から言うわ」長女が一歩前に出る。「太陽から近い順よね」
「違います」巫女が言う。
「は? いや、そうだろ?」長男が食い下がる。「だって、木が5で、水が1なら」
「違います」巫女は動じない。「他のキーワードを集めてきた方がよろしいかと」
木が5で、水が1?
「太陽系の並べ替えゆうんは、俺も考えたわ」巽恒が口の形だけで俺に囁く。
ここまで出たヒントを整理すると。
風天宮が、× ないしx 。
土天宮が、2。
冥天宮が、9。
火天宮が、7。
木天宮が、5。
水天宮が、1。
「金天宮は見てへんの?」巽恒が長男に尋ねる。
「勝手に聞いてんじゃねえよ」長男が視線で凄む。
「マズル君、こっちも教えるから。ね?」市長の娘が仲裁に入る。
「さっき断られてるさかいにな~」巽恒が意地悪げに言う。
「金天宮は見てないのよ」長女が言う。
「なるほど。交流会が盛り上がってるわけですね」御曹司が言う。
「はあ?信者が多すぎて入れんかったゆうんか」巽恒があきれたように溜息を吐く。「そんなん無理矢理入ったったらええのに。勝手知ったる庭やろ?そちらさん」
「もしかして、海天宮もご覧になっていない?」御曹司が言葉を選びながら言う。
「よくわかるわね。さすが、よくわかってるじゃない」長女がうんざりしたように言う。
「いえ、単に所要時間的に足を運べていないと思っただけで」御曹司が思考を付け足す。
「どうしますか?」場がごった返してきたので口を挟んだ。「みんなで見に行きますか?」
「方向的にぞろぞろ行くんは無駄やろ」巽恒がパンフを開いて指差す。「Cチームさんはお詫びついでに金天宮。Bチームさんは海天宮。巫女さん、聞きたいことあるんやけど」
「どうぞ」巫女が言う。
「地天宮《ちあまみや》ゆうんは、どっかにあるん?」
巫女と長女と長男が一斉に巽恒を見た。
パンフに表記はない。
しかし、施設名が一部(風天宮)を除いて太陽系の惑星で揃えてあるとするのなら。
「地下があるんやろ? どっから行けるんかな」
「申し訳ございませんが」巫女が深く頭を下げる。「地下は関係者のみの出入りとなっております。今回のゲームの会場ともしておりません」
「そか、残念やな。そこの数字がけっこうミソやと思うとったんやけど」
結局、巽恒の指示通り、Cチームは金天宮へリベンジ。Bチームは海天宮へ。
「お前は行かねえのかよ」長男が出発間際に言った。「付いて来なけりゃ、嘘教えるかもしれねぇぜ?」
「ここで調べたいことあるさかい。嘘教えてくれはっても、なんも教えてくれへんでもかまわへんよ」
「は、言ってろ」
「私は教えるからね。調べ物頑張ってね」市長の娘が巽恒に手を振った。
「ああ、おおきにな」巽恒はげんなりしていた。
市長の娘の胸元の大きく開いたワンピースが眼に毒なのだろう。一度もまともに視線を合わせていない。いや、むしろそもそも視界に入れていないかもしれない。
7マイナス4は。
俺と巽恒と巫女。
「正解ゆうてもええかな」巽恒が巫女に言う。
「は? え、お前」
「邪魔もんがいななってくれてよかったな。正解は」
巽恒が宣言すると、
巫女は胸元から小型マイクを取り出して小声で「終わり」と告げた。
我ながらひどいチームメイトだ。
3
巽恒は巫女から受け取った「ささやかなプレゼント」を確認するや否や不機嫌になった。
金粉で白竜胆会のロゴが入っているカステラ。
結婚式の引き出物だろうか。
「要らんわ、こないな」
床に投げつけそうな雰囲気だったので急いで止めた。
KRE と白竜胆会 の関係の悪化につながりかねない。
手持無沙汰で木天宮に戻ってきてしまった。
13時。
Bチームもとい市長の娘と桓武建設の御曹司は、市長夫人に先ほどのゲームを報告しに行った。
Cチームもとい総裁の長女と長男は、ゲーム考案者に文句を言うためにどこぞへ消えた。
前者からは称賛を、後者からは非難を。
それについては何も間違っていないので甘んじて受け取ることにした。
「さすがに腹減ったな。これ喰ろうたろか」巽恒が冗談ぽく言う。カステラの包みを開けるフリをしながら。
「やめてくれ。何か持ってくるから」
「毒見せんでええよ」巽恒は会場の隅のソファで待っているようだ。
相変わらず、他人 を顎で使うのが上手い。
正午を回ったが、料理はまだ残っていそうだった。定期的に補充しているのかもしれない。
簡単に摘まめて、それでいて腹持ちがよさそうなものを皿に並べた。
ふと、同じく料理を物色している背の高い男と眼があった。
「これはこれは、支部長」白竜胆会の総裁だ。「挨拶が遅くなり失礼した」
「こちらこそ。ご招待いただいたのに」
「ちょっと、ケーキ持ってくるのに何分かかってるわけ?」総裁の後方から、聞こえるはずのない声がした。
まさか、
いや、でも。
正式に招待をするのなら、支部長の俺じゃなくて。
「チョコレートと、チーズケーキとひとつずつって言ったでしょ?」社長だった。「さっき残ってるのちゃんと確認したんだから」
眼は。
合わない。
合ったことはない。
なにせ、俺は。
存在しないのだから。
「どうしたんだい? 体調でも悪いのかな」総裁が声をかけてくれたが。
「いえ、何でもないです。あの、失礼します」
手が震えて皿をひっくり返しそうになる。
大丈夫だ。
大丈夫。
巽恒にだって見られていないはず。
「遅いわ」巽恒がソファから腰を浮かせる。「いつまで待たせとくんや」
「悪い」
「どないしたん?」
「なんでもない。早く食え。食ったら帰る」
「ええの? まだ宴続いとるぽいさかい。お嬢様幹部にも会うてへんし」
「いい。帰る」
「まあ、座りぃな」
「なんだ」
巽恒に隣に座らされた。
「何があったかは知らへんけど、俺でええならあとで聞くで?」
「何もない。気を遣わなくていい」
「実はな、見えとったん。誰なん?あれ」
「誰でもいいだろ」
「身内か」
「しつこい」
帰りたい。
一刻も早く。
「あ、やっぱり! 藤都 くんじゃない!!」社長が飲み物を持って近づいてくる。
なんで。
こっちに来るんだ。
巽恒を知ってる?
「へ、あれ? モトエさんなん? 奇遇やな」
知り合いなのか?
なんで?
二人の接点がわからない。
「そか、社長て、まさかKREなん? 嘘やろ。ほんならお前の」巽恒がそこまで言いかけたときに。
「どうしたの? 信者さんだったってこと?」社長が巽恒に訊く。
「いや、俺は社長サ、いや、支部長サンに連れられて」
「ん? 支部長?」
「支部長サンですよ。ほら」
やめてくれ。
「なんのこと?」
お願いだから。
「へ? あの、そちらさんの会社の鎌倉支部ゆうんが」
「そんなのあった?」
頼むから。
「あれ? 知らへんのですか? 鎌倉に。なあ? 支部長サン」
「ねえ、支部長って誰のこと?」
さすがに巽恒も気づいたらしい。
社長には、
俺が、
見えていない。
「社長。ピスタチオのケーキはお好きかな」絶妙なタイミングで総裁が声をかけてくれた。
「もう、私を太らせるつもり? いいわよ。食べてやるわよ」社長が言う。「じゃあまたあとでね。どうしてここにいるのかはよくわからないけど、ゆっくりしていくといいわ」
駄目だ。
いまここで巽恒に説明するだけの余裕は残っていない。
「ああ、ちょい、どこ行かはるん?」
呼び止めたのか、単に急に走り出したから声を発しただけなのか。
どちらでもいいし、どちらでなくてもいい。
風天宮方面と反対側の通路を行くと、信者が列を成している金天宮につながっていた。逃げる方向を誤ったらしい。
「実敦 さん?」小張有珠穂 だった。ちょうど金天宮から出てきたところで。「どうなさったの?」
「あ、あの」返答に困っていたら、腕を掴まれて。
金天宮の入り口脇へ。
パンフレットによると確か、水天宮 。神像の安置場所だからみだりに入るなと案内を受けていた場所だが。
信者が数名ほど床に座り込んで祈りを捧げていた。
これまでのドームよりも格段に小さくて狭くて天井が低い。
中央に、鈍色に光る縦長の彫刻が聳え立っていた。
「皆さま、申し訳ございません。しばしご退室を」小張有珠穂が優しく声をかけると。
信者たちは、はいともいいえとも言わず、ぞろぞろと無言で部屋を出ていった。
「オールクローズ」小張有珠穂が天井目掛けて呟く。
カメラがあるのがわかった。
「これで5分ほどですけれど、録画が止まります。さあ、どうなさかったのか。教えてくださいな」
「あ、あの」
「落ち着いて。さあ、深呼吸を。まずはお掛けになって?」
折り畳める丸椅子が二つ。
神像を臨みながら、横並びで座った。
「母が、来ていまして」
「そう。わたくしが呼んでも来ないでしょうから、総裁の名前で招待状を送りましたが」
仲が良さそうだった。
考え過ぎでなければ、
ビジネスパートナ以上の関係になってはいまいか。
「実敦さんはご存じないでしょうけれど、総裁と源永さんは学生のときからの知り合いですのよ」
「そうだったんですか」
知らない。
知るわけがない。
「会長からお聞きになってないのですね」
「ええ、祖父からは特に」
「では、支部の事務員からは? 何も聞いていないの?」
「何のことですか」
「そう。ではわたくしが教えてもよいものか」
「あの、ですから何の話を」
小張有珠穂はちらりと腕時計を確認してから、落ち着いた声音でこう告げた。
社長と総裁は昔、婚約までしていた仲だったと。
嵌めてはいけないピースが嵌まった感覚がした。
4
社長サンが走ってどこぞへ行ってしまった。
追いかける義理もないので放っておいたが、さすがに一人では心細くなってきた。
「やっと一人になってくれましたね」金髪のガキ――朝頼東春 が隣に座っていた。
溜息も出ない。
「失礼ですね。僕の顔を見るなり溜息とか」
朝頼は白のパーカーに白のズボン。そうか。そうゆうラフな格好も白なら問題ないか。
何が悲しくてこんな結婚式の主役の片割れみたいな。
「お前なん?」
「どうしてそうなるんです? 僕がやったのは楽しい楽しいゲームの発案くらいで」
「ほんまにな、お前の性格が滲み出た、いけずなゲームやったわ」
このゲームの正答は2パターンある。
集合場所を、中間地点の風天宮にしたところからしてすでに考案者の手の平の上。
参加者は確実に別方向に分かれる。
そこを逆手に取る。
木天宮~水天宮~金天宮ルートを戻った側に解かせた正答と。
土天宮~冥天宮~火天宮ルートを行った側に解かせた正当に差異を持たせる。
つまり、正答は最初から二種類あった。
「いいじゃないですか」朝頼が言う。「最初からあなたのところを正解にするよう言いつけておいたんですから。花を持たせるべきは身内でなく常にゲストです」
「ねーちゃんとにーちゃんにどつかれたらええんや」
「実はいま逃げてるんですよね。あなたの疑問を解消したらとっとと失せますよ」
モトエさんがKRE社長ということは、取りも直さず社長サンの母親ということに他ならない。
ではなぜ、
あたかもここには誰もいないように振舞う必要があったのか。
「お答えしましょうか?」朝頼が見透かしたように言う。
「ええわ。直接社長サンに」
「教えてくれないと思いますよ?」
「なんで?」
「支部長さんのトラウマなので」朝頼がとびきり意地の悪そうな顔で嗤う。「自分からカサブタ剥ぎ取って中身見せる人なんかいますか? 血がだらだら滴ってるってのに」
そういえば、母親の話どころか父親の話も聞いたことがない。
そして、その話を誰かに持ちかけられて断ったことがあったようななかったような。
「他人 のカサブタ剥ぎ取って中身見せびらかすような奴よりはマシやと思うけどな」
「よかった。やっぱりご存じないわけですね」朝頼はなぜか満足そうに微笑んだ。
「なんや、気色悪い」
「いいえ、真っ白く綺麗な新雪に黒い足跡付けるのって、堪らなく背徳的だと思いません?」
「ようわからへんけど、お前の趣味が悪いんは改めて理解したわ」
モトエさんと総裁が仲良さげに談話しているのが見える。
ゲスト(成人)は酒が入っていて誰も彼らのことに気づいていないようだった。
傍目からでもわかる。
これは、
ビジネス以上の関係がありそうだった。
「スキャンダルゆうこと?」
「それがそうでもないような、そうでもあるような」朝頼が思わせぶりに顎に手を当てる。
「なんや、裏があるん?」
「なにせ彼らは学生時代に付き合いがあったとかなかったとかで」
「ほお、復縁ゆうこと?」
「それがそう簡単な話でもなくてですね。あ、まずい。お付き添いの方が戻って来られたんで、僕はこれで」そう言うと、朝頼はそそくさとどこぞへ行ってしまった。背が低すぎるお陰ですぐに人の間に紛れて見えなくなった。
「誰かいなかったか」社長サンがきょろきょろと周りを見回す。
「気のせいと違うん?」
心なしか、社長サンの表情が陰っているように見えた。
「ほな、帰ろか? 疲れたわ」
「そうだな」社長サンが肯いた。
海天宮にいる信者に声をかけて帰宅の意向を伝えると、すぐにマイクロバスを手配してくれた。お暇 の挨拶は省略でいいだろう。宴もたけなわのところに水を差してはいけない。
移動中、社長サンはずっと窓の外を眺めていた。俺と眼を合わせたくなかったんだろう。俺は寝たふりをしていた。疲れて眠かったのも事実。
支部に着いた。1階の事務所を通らずに、裏口から3階に上がった。事務所はカネやんが留守番してくれているので引き続き任せるのだろう。もともと帰りの時刻は読めないと伝えてあった。
14時。
「付き合わせて悪かったな」社長サンがネクタイを緩めながら言う。上着を脱いでから窓を開けた。
7月の陽気で長袖の上着はなかなか酷なものがあった。二人とも汗だくだった。
冷房のスイッチはもちろん真っ先にオンになっていた。
「なあ、話あるんはわかるし付き合うたるさかい。着替えてからにせえへん?」
「すぐ終わる」社長サンが言う。
「ほんなら扇風機」強風にして顔の前に持ってきた。
「聞こえないだろ」
1段階弱めた。
「これでどない?」
「二度は言わないからな」社長サンが重い口を開く。「お前にも知っていてほしい。俺の母親と父親のことだ」
暑いのでこっそり窓を閉めた。
社長サンの表情は曇ったまま。
「俺の母親は、俺を産みたくて産んだんじゃない。父親に無理矢理作らされたんだ。父親とは結婚もしていない。母親も俺も、父親とは認めていない」
社長サンはベッドに腰掛けている。
俺は、ベッド脇にある、クッションのようなソファに座った。
「だから、母親は俺のことをいないものとして扱っている。さっき見た通りだ。俺は母親にとって透明人間だ。そこにいるけどいない。だから俺がいる鎌倉支部も存在してないし、支部長なんてのもいない。それだけのことだ」
「それだけ、て。ホンマに? それでええの? お前は」
「いいも何も。俺に決定権も選択権もない。結果としてそうなっているから、そうとしか」
そんな。
物分かりのいい。
「諦めとるん? 母親に認識されんでもええって」
「だから、俺は産まれないほうがいい子どもだったんだ。生きてても仕方がない」
「生きてても仕方ないやつが、どこの馬の骨ともわからん俺にカネつぎ込んで、そばに置こうとしよるんか?」
「俺の想いに応えるつもりはないんだろ? 虫のいいことを言うな」
おかしい。
何もかもがおかしい。
「怒ってくれてるんだったら無駄なエネルギィだ。俺はとっくにどうでもいい」社長サンがひどい顔で自嘲する。「悪いのは俺なんだ。あの人は何も悪くない」
なんて返していいのか。
肯定も否定もできない。
すでにそんなもの通り越している。
深い深い傷。
修復方法はたった一つしかないのに、その方法は決して叶わない。
「俺はこれ聞いてどないしたらええの?」
「あの人とどこで知り合った?」社長サンが尋ねる。
母親を、
あの人と呼ぶ。
「お茶屋さんやさかいに。5月の頭やったかな。偶然店で会うて。高っかい玉露ご馳走んなって、ほうじ茶も買うてもろたよ」
「そうか」社長サンは悲しそうに笑った。
羨ましい、と。
書いた顔をすぐに黒で塗りつぶした。
「会長サンもそれでええんか? 孫がそないな目に遭うとるのに」
「娘と孫のどちらがだいじか。考えなくてもわかるだろ」社長サンが立ち上がって玄関のドアを開ける。「話はこれで終わりだ。今日はもう帰っていい。明日学校でな」
帰ってくれ、とそう言っている。
「わーった、と言いたいとこやけど、このまま放っておけへんさかいに。社長サン、着替えてくるからちょお待っといて。絶対にわけわからんことはせんといてな?」
2階で着替えをして、3階に戻る。
社長サンはまったく同じ体勢でベッドに座っていた。
「そっちも着替えたったらどうなん?」
「そうだな。シャワーも行ってくる」社長サンがゆっくり立ち上がる。
「一緒に入ったろか?」
「悪いが冗談で流せない」
「そか。いってらっしゃい」
15時。
「お前は?」十五分程度で社長サンが戻ってきた。
「ええわ。汗臭いんやったら行ったるけど」
「気にならない。なんだ。帰ってほしいのが正直な気持ちなんだが」
「こっち」ベッドを叩く。
「なんだ。期待させるな。いますごく気が立ってるんだ」
「そっちばっか話させるん悪い思うてな。俺のことも教えたるわ」
社長サンがごくりと喉を鳴らした。
正面に座っているのでよく見えた。
「失望してくれてかまへんよ。俺はここ来る直前まで春売り少年しとったん。白いもんが出るずっとずっと前から数えきれんほどの客と寝たわ。母ちゃんがな、そっちの世界の総元締めでな。カネが必要だった育ての父ちゃんゆうんがな、俺を使うてぼろぼろカネ儲けしとったゆうわけ。ひどい話やろ?」
今日一日だけで百面相が見れている。普段仏頂面で通っているあの社長サンが。
こんなに、
ころころと表情を変えてくれるのか。
「俺の稼ぎがええさかい。母ちゃんは続けさせたかったらしいんやけど、育ての父ちゃんがな、何を血迷うたか、俺をフツーの世界に送り込もうとしよってな。母ちゃんを泣く泣く説得しよって、見事俺は中坊からカタギデビューやわ。んで、育ての父ちゃんがお前んこと見つけて、利用できるゆうて俺をここにやって、いま社長サンの前にいるゆうわけ。以上、面白くもなんともないどうでもええ話やわ」
なんで。
社長サンの口が動く。
「なんで、俺に聞かせた?」
「もらった分の見返りのつもりやけど?」
「そうじゃない。なんで、そんな話」
笑って話せるのか。
他人事のように切り捨てられるのか。
どうやって乗り越えたのか。
「乗り越えてはへんよ。ゆうてへんかったけど、期限があるん。高校卒業までゆうリミットやさかいに。高校卒業と同時に俺は月に帰らなあかん、かぐや姫や。言わんとその日が来たらすうっと幽霊みたいに消えよ思うとったけど、あかんな。ゆうてもうたわ」
「それは変えられないのか」
「せやね、決定事項や。すまんね。ずっと社長サンとこで面白おかしくバイトしてたかったんやけど」
「お前がいなくなったら俺はどうすればいい」
「そこやで。俺がおらんくなったら社長サン、飛び降りるか吊るか飲むか、どれかが関の山やさかいに。心配で置いておけへん思うて」
「それで、聞かせたのか」
部屋が涼しくなってきた。
ベッドからタオルケットを引っ手繰って背中に羽織る。
「寒いか」社長サンが心配したような声を出す。エアコンのリモコンを触ろうとする。
「ええて。面白ない話のせいやさかい」
「こっち来い」
「くっつきたいだけやろ?」
「そうだな」
「ったく、正直なやっちゃで」隣に座ったと同時に。
社長サンが肩を抱き寄せた。
「いなくなる日まで、こうしていたい」
「無理な相談やな」
熱い。
手も腕も。
「なんでいなくなるんだ」社長サンが悔しそうに言う。
「なんでやろな」
「好きだ」
「知っとる」
「あの駄犬になんかやらない」
「せやろな」
「誰にもやりたくない」
「客はみんなそうゆうとったで?」
「俺も客だと思ってるのか」
「でやろな。客以外にこうゆうことされたことあらへんさかいに」
肩に込めた力が強くなる。
ぎゅう、と痕が付きそうなくらい。
「客でもなんでもいいから、いなくなるまで傍にいてくれ」
「カネ払うてくれるんなら、いくらでも」
急に力が弱まって正面で向かい合わされる。
「抱き締めていいか」社長サンが真面目な顔で言う。
「客はそないなこと聞かへんよ」
「じゃあ俺は客じゃないな」
「そうみたいやな」
社長サンは、俺の肩に置いた手をゆっくりと抱き寄せる。
慣れてなさすぎるぎこちない動きで噴き出しそうになったが我慢した。
背中に両手が密着する。
熱かった。
夏のせいだろう。
俺は、抱き締められながら、晩ご飯のメニューを考えていた。
「今日着てた礼服 」社長サンが耳のそばで言う。「結婚式みたいでドキドキした」
「なんやそれ。ほんま、おめでたいやっちゃな」
わけのわからないことを言われて気が抜けた。
冷蔵庫の中のもので適当に作るか。
5
「源永 さんと総裁――ガルツさんは昔、婚約までしていた仲でしたのよ」
水天宮 内の空調で、小張有珠穂 の顔を覆っていた白いヴェールが揺れる。
いま気づいた。
俺は、
この人を。
木天宮 で見た。
「ご存じでしょう?」小張有珠穂が続ける。「源永さんの婚約者が失意の底で自殺したという痛ましい話を。あの話には実は続きがありますのよ」
5分と言う時間制限があるせいか、小張有珠穂は事務的に淡々と事実だけを告げた。
自殺したはずの婚約者は実は一命を取り留めていたが、いわゆる記憶喪失になっており、名前はおろか自分に関係するあらゆることを忘れてしまっていた。もちろん、愛する婚約者のことも。
それを不憫に思った白竜胆会の教祖が、彼を総裁として取り立て身元引受人となった。
「そしてまっさらになったガルツさんと、源永さんは再会を果たすのです。わたくしを仲介者として。お陰でわたくしは源永さんの機嫌を損ね、絶交宣言ですけれどね。そんなこと、どうでもいいのです。わたくしは源永さんに少しでも幸せを取り戻してほしかったの」
「どうしてそこまで?」
「お友だちだから、というのが表向きの理由です。実敦さんには裏の事情もお話ししましょう。岐蘇 家と小張家の本当の関係を」
祖父 さんに幼い頃から言われていた。
小張の家には近づくな。関わるな。
「そちらの会長とわたくしの父親――エイスは、兄弟なのです。つまり、わたくしと源永さんは従姉妹 同士なのですわ。無為に血が濃くなるのを忌避したのでしょう」
だったら最初からそう言えばいい。親戚なのだと。
なぜ忌み嫌うような言い方をして遠ざけていたのか。
「ごめんなさい、時間ですわ」小張有珠穂が申し訳なさそうに言う。「会長に訊けないことで、わたくしに訊きたいことがあればいつでも連絡を下さいね。わたくしは実敦さんの味方ですから。それだけは覚えておいて?」
逃げるように水天宮から出て、金天宮へ戻って行った。小張有珠穂は白いヴェールを被り直し、信者からは口々にこう呼ばれていた。
マチハ様、と。
6
地天宮 の自室。
たいらに見たことをすべて報告させた。
と言っても、施設内のカメラですべて見ていたのだが。
「千崗 、怒ってなかった?」これも知っている。
「ええ、ああ見えて勝負事が嫌いじゃない人ですから」たいらが言う。
たいらも僕がすべてを知っていることを知っている。
正直に、如何に正確に、僕の見立て通りに理解できたかどうかのテストにすぎない。
「そうそう。支部長の過去、やっぱ巽恒知らないらしいよ。あいつ、ごり押しできてなかったみたい。僕にあれだけケンカ売っておいて。ざまあみろだ」ベッドサイドに直立するたいらを手招きする。「来いよ。機嫌いいから構ってやる」
「ありがとうございます」たいらが、ぱっと嬉しそうな顔になる。
僕はこの顔が歪むのが大好きなので、この反応も織り込み済みで楽しみだ。
たいらを構っている間に3回ほどノックがあった。
姉さんと兄さんと、あと一人。
預言者あたりだろうか。今日のクイズ大会の司会の件で文句でも言いに来たのだろう。
そしてまたノック。
誰だ。いま忙しいのに。
無視無視。
電話も鳴っている。
誰だよ本当に。
ノックと着信音のお陰でたいらがぎゅうぎゅう締め付けるのでそれはそれで悪くはなかったが。
邪魔されるのが一番耐えがたい。
いっそ電話に出てやったほうが盛り上がるかもしれない。
「はい?」
「実敦さんをあまりいじめないでくださいね」マチハ様だった。「用件はそれだけです。では」
「ちょっと待ってください。水天宮 に支部長を連れ込んだの知ってるんですよ。彼が童貞じゃなかったら一体どうなされるおつもりですか?」
「知ったことではありません」
切れた。
僕も切れそうだった。
水天宮に処女童貞以外入れない決まりは、そっちが勝手に決めたことだろう。
自分だってそうやって好き勝手やってるくせに、僕のやることにいちいち口出して。
うるさい。
本当に心底うるさい。
いつもいつも母親ヅラして。
母親でもなんでもないのに。
教祖の娘なだけだってのに。
このイライラはすべてたいらに叩きつけて吐き出した。
すっきりはしないが、さっきよりはマシになった。
どうにかして、僕以外の全員が不幸になるように立ち回れないかって。
いつもいつも考えている。
さて、次の手だ。
7
「知っといた方がいいですよ。KRE一番のスキャンダルなので」
「どうでもいいわ」藤都巽恒が吐き捨てる。
「釣れませんね」何か他の方法で興味を惹けないものか。「じゃあこっちはどうです? オニの家庭事情とか。割と入り組んでて面白いですよ?」
「せやから他人の過去をさくさく掘り起こすんは、褒められたもんと違うやろ?」
「ではあなたの過去は?」
「初対面で訊く話やないな」
「どこまで親しくなったら聞けるんでしょうか」物理的な距離を詰めてみた。
スサと絶賛バトル中のオニから、凄まじい殺気を感じたので、すっとかわした。
オニの暴力が私に向くことはおそらくない。
オニはああ見えて、一度懐に入ったものを無下にはできない。
「あなたの警戒を緩めるために私の話をしますが、私はしたいことがあるんです。そのために武世来に入った。それが叶う準備が着々と進んでいるようなので、とても、とっても喜ばしくて仕方がないんですよ」
身震いがする。
眼前で行われているこれもすべて私の為に捧げられた儀式と言って差し支えない。
そう思わされる。
「自分、ヘンタイさんやろ」藤都巽恒が私を見て引いている。
「それこそ初対面で言いますか? まあいいですよ。ほら、終わったようです。私たちが次に会うのはいつでしょうか」
「これを最後にしてもらえへんかな」藤都巽恒がベンチから腰を浮かせる。「自分、災厄の部類やで? ニンゲンを燃やして、その燃えた炎でキャンプファイヤーしとるニンゲンを、えっらい高いとこからのぞき見てる、クソのド外道やで?」
「私の関する的確な評価ありがとうございます。やはりあなたは他人を見抜く才能がおありになる。オニのこと、よろしくお願いしますね。彼は私の手に余る。私の下では、彼を十二分に活かすことができない」
「は、最後までええ性格なやっちゃな」
オニが向けた射殺すような視線が貫通する。
ああ、ぞくぞくする。
でもまだ。
まだ早い。
準備が十全に整ってから。
そうですね、秋がいい。
その頃にまた。
そのときは迷いなく、
私を
殺してくださいね。
次回予告
夏にいろいろあったけど、それはここでは敢えて触れないとして。
季節は秋。
涼しくて過ごしやすい外気と裏腹に、ケイちゃんがビリビリと殺気立っている。
「悪い。俺には止められない。頼む。手を貸してくれ」
武世来 現ヘッドの彼がケイちゃんに頭を下げてまで依頼する。
「お久しぶりですね、オニ」
いまは副官と名乗った自称ナンバーツーの彼が、武世来を乗っ取ってまでやりたかったこと。
それが判明したときにはすでに大蛇の腹の中。
次回 第9話
『キ神 に王道なし』
「テメェ、モロギリ!! ぶっ殺してやる!!!」
「いいですね。それです! あなたのその顔が見たかった!!!!」
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