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第2章 道反(ちがえし)でふさぎ

      0 「社長サン、俺、明日から夏休みな」帰り際、唐突に巽恒(ヨシツネ)が言った。  8月の2週目の金曜日。  夏休み真っ只中。 「俺、行きたいとこあるん。せやから休み欲しいんやけど」  言っている意味がわからなくて二の句が継げずにいたら、向こうで勝手に承諾の意思だと思われてしまったらしく。 「カネやん、申請書とか要るん?」 「いや、そうじゃない。なんでだ?」  事務員の伊舞(イマイ)が馬鹿丁寧に書類を渡そうとしたので割って入った。 「なんで、て、バイト君にも夏休みはあるんやろ? そこまでブラックな企業なん?」 「行きたいところってどこだ。まさか」  実家じゃないだろうな。  それか、二度と帰って来ないところとか。 「待て。早まるな。休みは無理でも時短勤務ならなんとか」 「わけわからん妄想に付き合うとる暇はあらへんの。明日から来ィひんさかいに。ほんなら」そう言って帰ってしまったので急いで電話をかけた。  出ない。  メールを送った。  休んでもいいが毎日連絡を寄越すように、と。  それと、最長でも1週間だと。  返事は来なかった。  不安だ。      1  巽恒が突然夏休みを取って一日目。  土曜日。  朝9時。  目覚めは最悪だった。  まず起きる時間が遅すぎる。布団から出られなかった。布団から出たその先の世界で、俺の視界に巽恒が映らないことを想像して絶望した。  せめてメールの返信があれば救われるのに。何もない。何度送っても何も返って来ない。着信はしつこいと拒否されそうなのでしていない。  どうやってこの世界で息をしていたか思い出せない。  事務員の伊舞に話したらきっと大げさだと笑い飛ばされるだけ。  話を真面目に聞いてくれそうな人はいないわけではないが、その人物がいるのが。  巽恒を住まわせている平屋。  巽恒が出掛けたあとなら合い鍵で忍び込めるが。  俺は今日も仕事だ。  着替えて事務所に降りる。 「若、大丈夫ですか?」すでに出勤していた伊舞は、俺の顔を見て思わず挨拶を二の次にした。 「大丈夫なように見えないか」 「残念ながら。今日が休みでよかったですね」 「ん?」 「あれ?もしやして若、本日のご予定をお忘れですか?」伊舞が言う。  事務所の壁のカレンダーを見た。  ああ、そうか。  そういえば、その日だった。 「すまない。頭が死んでる」 「無理もないです」伊舞が苦笑いする。「一応確認ですが、昼にお墓参りでそのままいつもの蕎麦屋へ。夕方に皆で会長の家に集まることになっています」  墓参りは行くつもりだったが、巽恒がいることを想定して蕎麦屋と会食は遠慮すると返答していた。  が、いないなら。 「悪い。墓参りの後の予定、俺も参加していいか」 「もちろんです。会長に連絡しておきますね」伊舞が言う。  8月のお盆前は、伯母――時寧(ときね)おばさんの命日。  おばさんは母親の姉だ。  7年前、おばさんは亡くなった。  最期は俺が立ち会った。  死因の真相を知っている人間は多くない。 「出掛ける前にちょっと行って来ていいか」 「どうぞ? 出発前までに戻って来ていただけるなら」伊舞が言う。  外はとても暑い。徒歩で行けなくもないが自転車に乗った。  久しぶり乗った。  巽恒は自転車に乗れないので、俺が乗ると置いてきてしまう。  巽恒さえよければ乗る練習に付き合うのに。強がって首を縦に振らない。  そうゆうところが好ましくて好きなのだが。  俺と巽恒が通う中高一貫校の校庭の裏。巽恒に貸している平屋はそこにある。  到着。  おばさんが死んでいたのが、実はこの平屋だった。  地元では幽霊屋敷と名高かったが、その実呪いを溜めこんでいる呪い屋敷だった。  おばさんは、呪いに呑まれて死んでしまった。  死んでしまったあと、呪いとして蘇った。  その呪いを、俺の師匠が祓った。  (ノウ)水封儀(みふぎ)。  師匠は、代々呪いを祓う巫女の家に生まれた最後の巫女だった。  すでに家がもぬけの殻なのを確認してから合い鍵で開ける。 「みふぎさん、いますか?」  師匠も3年前に亡くなった。 「藤都(ふじみや)くんなら出掛けたぞ?」縁側から声がした。  は、いつもそこで寝そべっている。 「何度も言いますけど、あいつに用があるときはそう言います」 「そうだったな。意地悪をしたんだ」師匠は眉を寄せて上半身をねじる。「どこに行ったか教えようか?」  承諾の意の代わりとして隣に座った。 「あ、いらっしゃーい」師匠の夫が庭にいた。「今日もあっついね~」 「あっくん、おはよう」師匠の子もいた。  この家族は、  俺にしか見えない。 「水族館だ。どうやらだいぶお熱らしい」師匠が言う。  それならそうとひとこと。 「独りで行きたかったんじゃないのか?」師匠が言う。 「デートを避けたってことですか」 「なんでデートになるんだ」師匠が言う。「お前は藤都くんのこととなると途端に莫迦になるな」  師匠の夫と子が庭で遊んでいる。  俺が師匠と話しているときは無理に割り込んで来ないのが有難い。 「避けられてるんですかね?」 「たかが一週間だろ? なんでそんな世界の終わりみたいな」師匠がそこまで言って一旦言葉を区切った。「悪かった。茶化すつもりはなかった」  師匠に聴いてもらうとよくわかる。  俺は、ひどく落ち込んでいる。 「追いかけるか?」師匠が言う。 「いえ、誘われてないんで」 「そこで無理矢理行かないのがお前のいいところだからな」  師匠が慰めてくれているのがよくわかる。 「嫌われるようなことをしたんでしょうか」 「心当たりがないなら違うんじゃないか?」師匠が言う。 「ないと思うんですけど」  沈黙。  師匠が困っているのがわかった。 「すみません、困らせてますね」 「いや、話す相手がわたししかいなくて難儀してるのはお前のほうだろう」師匠が言う。「藤都くん以外に友人はいないのか?」 「いたら来ません」 「だろうな。莫迦なことを聞いた」  じりじりと熱く照りつける太陽。  11時。 「そろそろ戻ります」 「そうか? 1週間経って事態が好転しなかったらまた来いよ?」師匠が言う。「わたしでよければ、だが」 「いつもありがとうございます」 「もう帰る?」師匠の子が言う。 「また来るよ」屈んで眼を合わせた。 「みっふーに恋の相談は荷が重いよね」師匠の夫が言う。 「聞こえてるぞ」師匠が言う。 「気のせい気のせい」師匠の夫が言う。「気軽においでよ。君が元気がないと僕らも気分良くないからさ」 「レー、言い方」師匠が言う。「悪いな。心配してるってことには違いないんだ。何かちょっとでもいいことがあればいいんだが」 「このあと祖父(じい)さんたちと会います」 「ああ、そうか」師匠が眼を伏せる。「いかんな。この姿になると時間感覚がなくて。そうか。時寧によろしくな」 「みふぎさんは行かないんですか?」  墓参りに。 「わたしはここを離れられん。いわゆる自縛霊みたいな存在に近いか。いや、この屋敷のお陰で辛うじて存在を保てているんだ。ここを離れたらどうなるかわからんよ」 「おばさんは、成仏できたんでしょうか」 「できたから、こうやってわたしたちがこんな姿になってる。あいつの怨念はなかなかのもんだったよ」  時寧おばさんは、呪いに呑まれたあと呪いになってしまった。  それを師匠たちが協力して祓った。  3年も経った。  伯母さんの本当の命日は7年前だが、呪いの状態でも会えた俺には3年前のあの日こそがその日に思える。  師匠たちに別れを行って事務所に戻った。  伊舞が出掛ける準備をしてくれてあったので、社用車で経慶寺の裏の墓に向かった。  12時。  墓にはみんなが揃っていた。  祖父さん、祖父さんの家政婦――手束(テヅカ)さん、伯父さん(時寧おばさんの夫)、翔幸(かけゆき)(時寧おばさんの息子)。経慶寺の住職も来てくれていた。 「遅かったな」祖父さんが言う。 「すみません」伊舞が代理で謝ってくれた。  順番に線香をあげた。  7年前のことをようやくぼんやりと思い出せるようになった。  それでも、俺には。  3年前の別れのほうが鮮烈で。  時寧おばさん。  俺は、  なんとかやってます。  母さんは相変わらずです。 「さて、行くかな」  祖父さんの号令で皆が移動する。ぞろぞろと馴染みの蕎麦屋に入った。今年は大人数なこともあり予約をしていたらしかった。いつもの奥の座敷にテーブルが一つ増えていた。  祖父さんと伯父さんが場を繋ぐように喋って、伊舞が絶妙な合いの手を入れていた。その横で手束さんが頷く。いつもと変わらない光景。翔幸は蕎麦が嫌いらしく、一人だけうどんを注文していた。  俺も特に話すこともないので適当に相槌を打った。  俺だけ、  時寧おばさんの最期を二度も見ている。  なんで、俺だけ。  食べ終わって、祖父さんの家に移動した。  14時。  手束さんがアイスクリームを出してくれた。冷たくて美味しかったけど量が多かったので伊舞にあげた。 「最近どうよ?」翔幸が訊く。  俺がトイレに行ったのを見計らって付いてきた。 「どうってなんだよ」 「どうもこうも」翔幸が肩を組んでくる。「最近ご無沙汰だからよ。いろいろ大丈夫か?」 「大丈夫じゃないのはお前の頭だ」手を振り払った。「俺はもうそうゆうことはしない」 「そうなの? あ、ふーん。本命ができたとか言ってたっけか」  話をしたくなかったのでさっさと用を済ませて戻った。  伯父さんが心配そうな視線をくれたので知らないふりをした。  やっぱり伯父さん気づいてるか。  伯父さんはKREで産業医をしている精神科医。俺の相談に乗ってもらうこともあるけど、無理に診察を受けろとかは言ってこないのでその点はまともな人だ。 「体調悪いのかな?」伯父さんが声をかけてきた。  よほど顔に出ていたらしい。 「夏バテです」嘘を吐いた。 「そうか。昼食も残していたね。話して楽になるようなら時間を作るよ?」 「夏バテって話して何とかなりますか?」 「ごめんごめん。昨日眠れてないよね?」 「なんでわかるんですか」  伯父さんには珍しくぐいぐい入って来るのでちょっと不快になった。 「今日は時寧さんのことを思い出す日だから。あっくんもそうじゃないのかなって思っただけだよ。違ったらごめんね」  ああ、なるほど。  微妙に論点がずれていて助かった。  適当に返事をしていたら向こうで勝手に完結してくれた。  来るんじゃなかった。  いまから帰れないだろうか。伊舞にこっそり相談した。 「え、いいですけど」伊舞が吃驚したように言う。「会長が悲しむので」 「急用とか言えば問題ないだろ」 「今日仕事休みにしてるのご存じなので」 「わかった。一人で帰る」 「ちょっと待ってください」伊舞が追ってきた。「さすがに徒歩では」 「手束さんは自転車で買い物に行くって聞いた」 「手束さんはここに住んでいるんですよ? 土地勘もない若には無理ですって」 「どうした」祖父さんに気づかれた。「サネ。どこに行くんだ」  どこも何も。 「家に帰るだけです」      2  結局帰らせてもらえず、家政婦の手束(テヅカ)さんの料理の手伝いをすることになった。  15時。  料理の腕がもはやプロフェッショナルな手束さんに俺なんかの手伝いが必要なわけはない。  俺をクールダウンさせるためだ。 「座ってていいですよ」手束さんが背もたれつきの椅子を持ってきてくれた。「実敦さまには味見をお願いしますね」 「前から言おうと思ってたんですけど、俺なんかに(さま)とか付けなくていいですよ」 「そうはいきませんよ」  言っても無駄そうだった。わかってて言ったので別にいい。  まな板で野菜を切る小気味のいい音。油で肉を炒める音と香ばしい匂い。ぐつぐつと鍋が沸騰する蒸気が満ちる。  暑い。 「どうぞ」手束さんが冷たいジュースをくれた。「夏の調理場は居心地悪くて申し訳ないですね」  少し見ていなかった間に料理が次から次へと出来上がっていた。  どれも美味しそうだったが、そこまでお腹が空いていない。 「味見してもらえますか?」手束さんが料理を一口ずつとって皿に盛り合わせてくれた。  和、洋、中混合だったが統一性は特に気にならなかった。自分で料理をしないからかもしれない。 「美味しいです」 「よかった。これなら皆さんに喜んでもらえそうですかね」手束さんが嬉しそうにする。  手束さんの料理は確かにどれも豪勢で完璧だったが、俺には巽恒の作った簡素な単品料理がすごく懐かしかった。 「実敦さまは、以前より食事を楽しまれるようになりましたね」手束さんが言う。 「あ、はい。作ってくれる奴がいるんです」 「それはよかったですね」 「あ、あの、今日いますぐじゃなくてもいいんですが、料理のレシピとか聞けますか?」 「構いませんよ。その方にお伝えするんですね? じゃあ、実敦さまが美味しいと思った料理を中心にコツをお伝えできればと思いますので、今日に限らず、私の作った料理で口に合ったものを教えてもらえますか?」  思い出せる限り伝えた。  手束さんはメモを取った。  余計なことをするなとか、仕事を増やすなとか言われそうだが、巽恒に作ってもらえたら嬉しい。  17時。  手束さんのお陰でだいぶ頭が冷えた。  経慶(けいけい)寺の住職がやってきた。祖父さんはすでに酒盛りを始めていた。 「モリくんは私が来る前にさっさとやってるじゃないか。ああ、お孫くん、さっきぶりだね」住職が言う。「お嬢さんは息災かね?」 「ええ、まあ」 「屋敷も結局貸してしまったね。しばらくは見守ることにしたよ」  本音を言っているとは思い難いが、この場で入り組んだ話をしたくなかったので黙った。  住職が言うとは、俺の師匠のことだ。  師匠は住職の孫。  なぜ自分の孫をそんな遠回りな呼び方をするのかはよくわからない。住職は師匠――納水封儀が死んで尚呪いを祓う存在として屋敷に憑いていることを知っている数少ない人物。  そして、屋敷を貸したというのは、師匠の実家だった呪い屋敷はもともと住職のもので、それをいま管理しているのがKREで、それを俺の一存で巽恒に貸してしまったことを差している。だいぶややこしい。  敵には回したくないが、完全に味方に引き入れるにしても不安材料が残る。  非常に厄介な人物。  食事会はすでにできあがった祖父さんを中心に始まった。お腹は空いていなかったが、作るところを見ていた責任としてそれぞれ一口ずつは口に入れるようにした。放っておいても、大食らいの伊舞が皿を空っぽにしてくれる。  18時。  招待されていないはずの母さんが顔を出した。  俺は、  立ち去るしかできなかった。  背中越しに聞こえていた。  誰よそれ、と。  やっぱり母さんは俺のことを忘れている。  知ってる。  そんなこと。  知ってるんだそんなことは。  母さんは俺を産みたくなかった。  俺は好きでもない、むしろ憎むべき男との子だから。  じゃあなんで。  なんで。  産む前に殺してくれればよかったのに。  生まれたくなかった。  愛してくれないのなら。  そっち都合で産んでおいて「誰よそれ」はない。  あんまりだ。  俺を認識しないことで心を守っているものわかっている。  だからこそやっぱり俺を消してくれればいいのでないか。  簡単だ。  それだけのことだ。  以前まではそうだった。  俺は死のうと思っていた。  でも、  死ねなくなってしまった。  心残りができてしまった。  深海の底であんなに(まばゆ)く輝く宝石を見つけてしまったら。  もう少しそこで息をしたいと思ってしまった。  息なんかとっくにしていなかったのに。  肺に入るのは冷たい水だったとしても。  その宝石が輝くところを見たい。  もっともっと近くで。 「ああ、こんなところに」手束さんが眼の前にいた。  母さんから逃げて山の中に入っていたらしい。  手束さんは懐中電灯を下に向けた。「どこか、お怪我はしていませんか?」 「捜してくれたんですか」 「ええ、みんなで。本当に良かった。この山、けっこう深いので。迷いこんだら案外警察沙汰ですよ?」  それは、さすがにまずい。 「ごめんなさい」 「戻れそうですか?」手束さんが手を伸ばす。「つかまってください」 「あ、あの人」 「すでにお帰りですよ」  顔を出しただけか。  でもなんで?  おばさんの命日だから?  それ以外にない。  手束さんに温かい手に引かれて、草むらを掻き分けて山を下ると、表に全員集合していた。  祖父さんは怒らなかった。  伯父さんは俺に怪我がないかざっと身体をチェックした。  伊舞は何も言わなかった。  翔幸は眠そうにあくびをしていた。  住職はすでにお暇していた。  帰ろう。  疲れた。      3  巽恒に会えなくなって二日目。  日曜日。  またも寝坊した。  夜もほとんど眠れていない。  時期的にお盆休みとして支部を閉めても誰も文句は言わないだろう。  しかし、閉めたところでどうする?  よけいに追い詰めないか?  仕事をしていたほうが気が紛れないか?  その通りだ。  惰性でその日はなんとか仕事をこなした。  三日目。  月曜日。  またも寝坊で寝不足。  仕事だ。  仕事をしないと。  顔を洗って事務所に下りる。  10時5分前。 「若、おはようございます」伊舞が駆け寄ってきた。「ちょっと」  下りてきたばかりの階段を戻らされる。 「なんだ」  伊舞が後ろ手で事務所に通じるドアを閉める。「来客です」 「誰だ」 「誰だとしても動じずに対応できますか」 「どういう意味だ」 「とても仕事ができるようなコンディションには見えません」 「昨日とどっちがひどい?」 「一昨日よりも昨日よりもさらに10割増しでひどいです。いまなら私の独断でお引き取り願えます」 「だから誰なんだ」  白竜胆(しろりんどう)会総裁。 「用向きがまったくわからないんです。小張有珠穂(オワリうすほ)の代理と言うならともかく」 「じゃあ代理なんじゃないか? 行くしかないだろ」  得意先だ。 「何をそんなに構える必要があるんだ?」  こんなにうろたえている伊舞のほうがむしろ異常事態だが。 「わかりました。サポートはします」伊舞がドアノブを捻った。そして、顔と声を一瞬で営業用に取り替えた。「お待たせして申し訳ないです」  パーテションで区切られた空間に、その人は座っていた。  朝頼(トモヨリ)ガルツ。  上等そうなスーツで揃えてあり、感じの良い笑みをこちらに向けた。「いや、突然訪問したこちらに非があるのだから。ご無沙汰しているね、支部長。実はどうしても伝えなければいけないことがあってね」 「どうされましたか」向かいに座った。  伊舞が茶を持ってきてくれた。そのあとは視界から外れてくれた。 「社長のことだ」総裁が言う。「一昨日の夜に本部に立ち寄ってくれてね。来てくれるのは有難いのだが」  一昨日?  伯母さんの命日の夜だ。  とすると、祖父さんのところを去った後、白竜胆会に行ったのか。  ちょっと待て。  この話は、俺にすべきなのか。 「あの、総裁。申し訳ないのですが」  まったくあさっての方向の話を、最も無関係の俺に投下する理由。  考えろ。  急激に頭が冷えてきた。 「何か、ご無礼でも?」 「無礼というよりは、そうだね。私の記憶についてだいぶ気に病んでいてくれているようだから。応えられないのが心苦しくてね。私は社長の知っている人物ではないのだと、そろそろ、その、諦めてくれると有難いのだが」  なんの、  話をしている? 「おや、ご存じでなかったかな」総裁が不思議そうに言う。「とっくに知られているものと」  そうじゃない。  それは聞いた。他ならぬ小張有珠穂から。  でもその先は知らない。  知りたくない。 「社長にね、記憶を取り戻してほしいと言われているんだよ。それこそ会うたびに。気にかけてくれるのは有難いのだが、私の記憶は戻らない。医者にもそう言われたし、私自身がそう思っている。私は朝頼ガルツだ。社長と婚約していた彼とは別人だ。それをわかってほしい」 「直接本人にお伝えになったほうがよいかと思います」  無関係極まりない俺じゃなくて。  それとも総裁は、俺が社長から無視されていることを知らない?  それはそうか。  他人から見れば、俺はだ。 「伝わらないんだ」総裁は眉を寄せて首を振る。「私の口から漏れたことは、社長の耳には届かない。勿論ごく普通の日常会話であれば問題ない。でもね、少しでも感情に触れるような話題になれば」  ――そんなわけない。しっかりして。あなたは、そんなことなんか言わない。  自分の記憶の中にある恋人から逸脱しようものなら、叱責が飛ぶのだろう。  確かにいい気はしない。 「事情をお話しいただけたことは感謝していますが」迷惑だというのが本音。「やはりこれは私が関わるべき問題ではないと存じます。どうか当人同士で話し合っていただけますと」 「君の言葉は届かないのかな」  胸に言葉が突き刺さった。  痛い。  痛くて血が流れ出す。 「届かないのです。私は、社長――母から存在を無視されています」 「なんという」総裁が立ち上がった。「申し訳ない。とても入り組んだことだったようだね。軽率なもの言いをしてしまった。ここに謝罪する」  頭まで下げてしまった。  なんでこの人はこんなに()が低い。 「どうか頭を上げてください。こちらこそ、内輪のお恥ずかしい話です。忘れてください」 「無論他言はしないよ」総裁がゆっくり顔を上げて座り直す。「支部長がそのような複雑な立場に置かれているのは、少なからず私が関係しているのは想像に易い。私で何か力になれればいいのだが」  じゃあとっとと思い出してやってくれ。  思い出してそして、  母を幸せにしてやってくれ。 「記憶は戻らないのですね?」 「残念ながら」総裁が肯く。「記憶というより、それは私ではないんだ。私とは別人のことを勘違いされて押し付けられているに等しい。どこか遠く懐かしいものというよりは、まったく別の隔絶された他人なんだ。何よりも私自身が取り戻そうとは思っていない。それは私ではないのだから」  こうもはっきりと言われると。  しかし母にとっては、  こうもはっきり言われても諦めがつかないのだろう。 「いいえ、取り戻していただかないと困るんです」伊舞がすぐ脇に立っていた。「総裁、あなたは朝頼ガルツであると同時に浅樋律鶴雅(アサヒりつるが)なのです。本当に何も憶えていらっしゃらないんですか? 私です。あなたの兄の友人、伊舞兼以来(イマイかねいら)です」 「申し訳ない。以前も言った通り、何も」総裁が首を振る。「兄がいることも、まったく実感がない」 「どうして。どうして、こんな」伊舞がテーブルに両手を付いて項垂れる。「あなたは昔からそうだ。突然やってきて私の計画をぐちゃぐちゃにひっくり返す。ずっとずっと嫌だった。返してください。あなたの恋人を、あなたの兄を、あなたの存在すべてを」  そうか。総裁(の過去の姿)の兄があの男か。  じゃあ伊舞と総裁(の過去の姿)が昔馴染みなのも頷ける。 「君にも苦労を掛けているようだね」総裁が言う。「心苦しいよ。私の過去のせいでこんなにも沢山の人に迷惑をかけている。何と罪深い。恥ずべき存在だ」 「そうだ。あのまま死ねばよかったんだ、お前は」  この場所で聞こえていい声ではない声がして立ち上がった。  入口に、浅樋雅鵡良(アサヒまさむら)が立っていた。  やっぱり俺か伊舞か事務所に盗聴器の類が仕掛けられている。そうでなければこのタイミングで介入できない。 「それ以上入って来るな!!!」あらん限り怒鳴った。自分からここまでどす黒い声が出てビックリした。 「ごめん、サネ。ここから動かないからちょっといさせて。テメエ、おい、ツル。こっちに来いよ」雅鵡良の眼はかつての弟を射抜いている。「テメエには何発殴っても足りない。どれだけ俺たちを苦しめたか」 「私が殴られることでこの場が納まるのであれば」総裁はすっと立ち上がって入り口に近づく。「お久しぶりです。」 「テメェだって浅樋さんだろうが」雅鵡良は見たことがないくらいに憤っていた。「いつからそんな他人行儀なもの言いになったんだ? 俺は兄貴だろ? 出来の悪いテメェの、何でも持ってる完璧な兄貴」  総裁は何も言い返さずに雅鵡良の前に立つ。  顔面に一発。  後頭部に二発。  止めないと。 「伊舞」 「若」伊舞は視線を二人から外さずに言う。「私が止めない理由をわかって下さいとは言いません。警察を呼ぶのであればどうぞ」  なんでこんなことに。  警察に連絡しようとした手を、  白い指が制止する。 「あとはお任せくださいな」小張有珠穂だった。  いつの間に。  表に黄色い車が止まっていた。  なるほど。  総裁を送ってきたのは彼女だ。全然気づかなかった。 「雅鵡良さん、おやめ下さい」小張有珠穂は毅然とした態度で言う。「いまあなたが敵に回しているのはわたくしと白竜胆会であることをお忘れなきよう」 「うるせえな」雅鵡良の手が止まった。「やめりゃいんだろ? いつもいつもお前は邪魔しかしねえな」  総裁が床に投げ捨てられた。  救急車か。 「不要です。すでに呼んでいますわ」  来たのは救急車ではなく、白竜胆会のワゴン車。白尽くめの信者が担架にてきぱきと総裁を乗せ、そのまま走り去った。  小張有珠穂は同乗しなかった。  事務所に残されたのは、俺と、伊舞と、雅鵡良と。 「ごめんなさいね、実敦さん」小張有珠穂が言う。「ちょっとだけ、支部をお休みに出来るかしら?」 「もうしてますのでお気づかいなく」伊舞が言う。  表のドアに臨時休業の札を下げたのだろう。  伊舞はキッチンペーパーで床の血を拭うと、客用の椅子を持ってきて並べた。 「落ち着いてお話ができそう?」小張有珠穂が雅鵡良に言う。 「話すことなんかあるか?」雅鵡良が莫迦にしたように言う。  母と小張有珠穂が友人ということは、この二人も顔馴染みなのだろう。  但し、仲は良くはなさそうだった。 「なぜ出禁を破ったの?」小張有珠穂が言う。  俺の代わりに質問してくれているようだった。  確かに俺はこの男と口を利きたくない。視界にも入れたくないし一秒でも早く消えてほしい。  しかし、今回この男をここに呼んだのは伊舞だ。  伊舞は雅鵡良を追い出す気はさらさらなさそうだった。コーヒーまで用意している。 「お前が訊くのか?」雅鵡良が俺を見る。「サネが訊いてくれたら答えるよ」 「わたくしが訊いているのです」小張有珠穂が言う。 「なら言わね」雅鵡良が言う。 「俺が訊きたいのは一つだ」自分の腕を自分で抑えながら言う。「何しに来た?」 「用件聞いてくれてるの?」雅鵡良が露骨に嬉しそうにする。こちらに身を乗り出した。「サネのところにあの馬鹿弟が行ったって聞いて、居ても立ってもいられなくなってね。だってあいつ絶対不快なことを言いに来るはずだから」  どうしてここまで自分を除外してものを考えられるのだろう。  そっくりそのまま返したい。 「伊舞。お前か?」カウンタにもたれて立っている伊舞に尋ねた。 「会長に報告してもらって構いません。私がマサをここに呼びました」伊舞が真面目な顔で言う。 「なんで呼んだか訊いてるんだ」 「マサも言った通り、彼――律鶴雅はあの通り若に害しか及ぼさない。私一人で止めることができそうになかったんです」 「何か勘違いしているから訂正する。俺からすると、お前と雅鵡良がやったことのほうが、俺に害を及ぼしているんだ。そこをわからないのか?」 「え?なんで俺らがサネに害なの? あの記憶なしとか言い張ってる馬鹿じゃなくて?」雅鵡良が言う。  駄目だ。  話が通じない。  通じるほど話をしたことがなかったが、ここまでとは。 「実敦さんが困っておいでです」小張有珠穂が間に入ってくれた。「あなたは今日、二つほど悪いことをなさいました。おわかりですか?」 「あ? だからなんでお前が口挟んでんだって」雅鵡良が言う。 「一つ、岐蘇家と結んだ、関連施設に侵入しないという約束を反故にしてあろうことか接近禁止の実敦さんに近づいたこと。二つ、抵抗しない総裁に理不尽な暴力行為を働いたこと。わたくしはこの二点を、特に二つ目を以って警察に届け出ることもできます」 「したいならしろっての」雅鵡良が言う。「困んのは源永(もとえ)なんだから」  母の名を呼び捨てにしたことが、  ちりちりともやもやと胸と脳の中で爆ぜる。 「ねえ、サネ。こんな箱入りお嬢様放っといてどっか出掛けない?」雅鵡良が言う。「夏休みらしいことなんもしてないだろ? 海、はすぐそこにあるから、山? どこでもいいよ。どこでも連れてってあげるから」 「帰ってくれ」 「帰らないよ。実はサネを迎えに来たんだ」雅鵡良が俺の手を取る。「もうこれ以上サネが泣いてるのを見過ごせない。一昨日のこと、聞いたよ。俺ならあんなことさせない。サネに悲しい思いをさせない。だから俺を選んで? 俺とカネイラさんと一緒に暮らそう?」  伊舞もか。  伊舞を睨んだら、諦めたように両手を上げた。「白状しますと、実はマサを呼ぼうとしていたところに律鶴雅がやってきたので計画が狂いそうになって吃驚したというわけです。少なくとも私たちは本気です。若は若であることをやめて、マサの子として幸せになる資格がある」 「悪いが、絶対にあり得ない。一秒でも早く消えてくれ。お前も、盆明けまで出勤しなくていい」 「サネ」と呼ぶ雅鵡良の声も。 「若」と呼ぶ伊舞の声も両方とも不快だった。 「わかった」雅鵡良が椅子から腰を浮かせてコーヒーを一気飲みする。「わかったよ。サネが言うならそうする。でも俺たちは諦めないから。ずっとずっとこれだけ深くサネを思ってるのは俺だけだから。そこだけ覚えといてね。カネイラさん、帰ろう」 「若、お先に失礼します」伊舞が膝に額が付きそうなくらい深いお辞儀をした。  二人は裏口から出て行った。  雅鵡良が座っていた椅子を力いっぱい蹴った。 「まあ、足が」小張有珠穂が口に手を当てる。 「悪いでしょう? すみません。だいぶむしゃくしゃしてて」転がった椅子を起こして定位置に戻す。  12時。  すごく長い時間が経った気がする。 「お腹が空きませんこと?」小張有珠穂が言う。 「いえ、お構いなく」 「わたくしが空きましたのよ。このあたりに美味しいお店はございませんかしら?」  案内しろってことか。  あの男を追い払ってくれた感謝代くらいは払ってもいいかもしれない。  近くのイタリアンに連れて行った。

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