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結婚

某年某日、新たに結婚した夫婦がいた。 夫の成上総治郎(なるかみそうじろう)がアルファで50歳、妻の花比良直生(はなひらなおき)がオメガで25歳。 夫の総治郎は30代で起業し、それから約20年。 この間、さまざまなトラブルに見舞われ、あわや倒産というところまで向かったこともあるが、その都度なんとか会社は持ち直し、総治郎は今や誰もが知る大企業の会長となっていた。 一方で妻の直生はというと、遡れば江戸時代から続く地方名家の生まれで、彼の父親は何軒かの料亭の経営やら土地転がしやらで財を成していたが、相次ぐ不渡りのせいで破産寸前まで陥った。 要するにこの結婚は、家名と財産の等価交換のようなもので、典型的なまでの政略結婚なのだ。 そんな事情もあってか、高級ホテルの大広間を貸し切って行われた結婚式は盛大ではあった一方、祝福ムード全開とはならなかった。 会場一帯は学校の朝礼のように気怠げな雰囲気が漂い、若い連中の中には、大胆にも大きなあくびをする者までいた。 退屈しているのを隠す素振りさえ皆無なのだ。 「成上総治郎さんはこのたび、若く美しく聡明な伴侶を迎えられ……」 総治郎の会社の幹部が、祝福する気持ちなど微塵もないスピーチを始める。 それを聞き流しながら、総治郎は隣に座っている直生の方へ視線を移した。 桜や梅の花の刺繍が美しい着物に身を包んだ直生は、スピーチをしっかり聞き入れようとしているのか頭をまっすぐ上げて、幹部の男の方へ視線を向けていた。 通常、結婚式での花嫁というのは、表情がどこか華やいでいて、誰の目から見ても嬉しそうな顔をしているものだが、直生はそんな風には見えなかった。 「成金とはいえ、アルファで金持ってたら、あんな若くてキレイな嫁さん貰えるんだなあ。マジでうらやましー」 「家族とかお家のためとはいえ、気の毒よね。好きでもないオジサンと結婚するなんて…」 「つーか、50のオッサンが25のオメガと結婚とかマジでキモいっすわ」 四方八方から、羨望や嫉妬、軽蔑や同情、ありとあらゆる感情のこもった呟きが聞こえてくる。 ──こんな地獄みたいな結婚式、ほかにあるだろうか… 式が始まってからさほど経っていないのに、総治郎は早くもうんざりしてきた。 この日のために用意された羽織と袴が、総治郎の大柄な体にまとわりつき、岩でもくくりつけられたみたいに重く感じる。 ──出だしからこんな調子じゃあ、先は明るいものとは言えないだろうなあ… それでも、もうすっかり歳を食った自分はまだいい。 問題は妻の直生のほうだ。 まだ充分に若いのに、その若さを家の再建のために犠牲にして、こんな中年に嫁ぐのだから悲惨としか言いようがない。 ──結婚したあかつきには、自由にさせてやった方がいいだろう。金だって好きに使わせて、ほかに相手を作っても黙認しておいて、番にもしないでおくか… それが自分にできる精一杯の優しさであろう、と総治郎は自分に言い聞かせて、式が終わるのをひたすら待ち続けた。 総治郎の自宅は高級住宅街の真ん中に位置する3階建ての一軒家だ。 20畳のリビングに、9畳の部屋が1つ、6畳の部屋が2つ、4畳の部屋が1つ、トイレが2ヶ所、ウォークインクローゼットが2ヶ所、ホームエレベーターが1基。 コンロが3口あるシステムキッチン、テレビ番組が視聴可能なモニターとジェットバスがついたバスルーム、3台分が駐車可能な車庫。 駅からは徒歩5分の場所に位置しており、駅前周辺は小洒落た飲食店やショッピングモール、デパートが立ち並んでいて、活気にあふれている。 ここは総治郎が起業して、商売が起動に乗り始めた40歳の頃に購入した家で、住んでからもう10年が経つ。 直生からしてみれば、ここが新しい住処となるわけだ。 「必要なものや欲しいものは、全部これで買いなさい。現金が必要になったときは、私に直接言ってくれ」 総治郎は、新しく発行しておいたクレジットカードを直生に渡した。 挙式の翌日の朝、妻に初めて話した内容がこれだった。 「はい…」 総治郎に差し出されたクレジットカードを、直生はおずおずと受け取った。 その声は、変声期をとうの昔に過ぎた成人とは思えないほどに、高くてあどけない。 「今日は都合が悪くて来ていないけど、家のことは、いつも世話になってる家事代行の中野(なかの)さんに頼むといい。 電話の横に彼女が所属してる家事代行サービス会社の電話番号が貼ってあるから、家のことで困ったことがあったら、来て欲しい日時を言って呼びなさい。 優秀な人だから、きっと頼りになるぞ」 「はい」 総治郎が部屋の隅にある電話台を指さすと、直生がそれに応えるように、指さした方向を向き、家政婦の電話番号を確認した。 「ほかに何か、聞いておきたいことはないか?」 「……ありません」 「そうか、じゃあ行ってくる」 言うと総治郎は廊下を伝って、玄関まで歩いていく。 「…はい」 直生がペコリとしおらしい態度で頭を下げると、短くて癖のある蒸栗色(むしくりいろ)の髪がふわりと揺れた。 その仕草はどことなく上品で、直生の育ちの良さが垣間見える。 「お仕事がんばってくださいね。でも、無理はなさらないで」 玄関の上がり(かまち)に腰掛けて靴を履く総治郎の背中に向かって、直生が声をかける。 「ああ…わかってる」 答えながら総治郎は、シューズクローゼットのドアノブにかけられた靴べらを手に取った。 「今日は何時ごろに帰られるんですか?」 「あー…今日は泊まりがけの仕事だから、帰ることはできない」 靴べらを踵に差し込みながら、総治郎は答えた。 「…そうなんですね」 「うん、だから、今日一日は私に構わず好きに過ごしなさい。この辺りはオシャレで美味い店がたくさんあるし、映画館やフィットネスジムやブティックなんかもたくさんあるから、行ってみるといい」 総治郎は靴べらを引き抜くと、シューズクローゼットのドアノブにかけ戻した。 「わかりました。いってらっしゃい、総治郎さん」 「ああ、いってくる」 玄関ドアを開けて、総治郎は家を出た。

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