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第19話 都合のよすぎる現実

 ガサガサ、と将吾の耳に何かの物音が聞こえた。意識がゆっくり浮上する。部屋の中に、人の気配があるような気がする。よほど深く眠っていたのか、体がなかなかいうことを聞いてくれない。 「ん……」  ようやく、目蓋を開けることができた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すうちに、次第に焦点が定まってくる。 「目が覚めたか」  聞き慣れた声。 「え……? 東……堂?」  事態がすぐに飲み込めない。なぜ自分の部屋に東堂がいるのだろう。  ——そもそも、今、何時だ……。  枕元の携帯を確認しようとして、画面に表示された着信履歴に気づく。 「あ……わり、電話、くれてたのか」  時刻は正午すぎを示していた。たっぷり四時間は寝た計算だ。着信に気づかないほどの熟睡など、何ヶ月ぶりだろうか。体の感覚はまだすっかり正常とは言えないが、熱っぽさはだいぶマシになっている。 「ああ。キャップから、お前がダウンしたと連絡があったから」  それを聞いて、ようやく将吾の頭にも現実が少しずつ戻ってきた。途端に、心臓がどくどくと猛烈に暴れ始める。寝る前に、自分は一体何を想像していた? 手を伸ばせば届く位置に、あれほど頭の中で思い描いていた、まさにその人が立っている。  ——俺は、何を。  自分の中の何かが、昨日までとはっきり変わってしまったことを、将吾はややクリアになってきた頭で理解しつつあった。そこに東堂がいる、それだけで、否応なしに体温が二度くらい上がるような気がする。東堂の声が、気配が、将吾の細胞を一つ残らず侵食していくようだ。それは熱のせい、だけではなさそうだった。  東堂が自分にいろんな感情を見せてくれるようになったこと。仕事を認めてくれたこと。触れても、拒まなかったこと。それに、キャップから自分が体調を崩したと聞いた、それだけで、ここまできてくれたこと。……それぞれは些細な出来事でも、それを重ねていったとき、浮かぶのは、希望にも似た、一つの可能性。  都合のいい妄想で、終わってほしくなかった。  自分がどうしたいのか分からない、でも東堂に対するなにか、飢えのような感覚。何かが壊れてしまうんじゃないかという恐怖は次第にかすんで、その欲求に正直になりたい気持ちが勝ってくる。頭がまとまらなくて、心臓がうるさくて、吐く息が熱い。  そんな将吾に、東堂が何を勘違いしたのか、手に持った袋を突き出した。 「何か食えそうか。キャップにはただの疲労だと言ったみたいだが」  差し出された袋の中を見ると、ゼリー飲料、スポーツドリンク、栄養ドリンクと寝込んだ時の定番がぎっしり詰まっている。袋には、近所のドラッグストアのロゴが入っていた。これらを東堂が自分のことを考えながら選んで買ってきてくれたのかと思うと、心がじわっと熱くなる。 「いいのか? こんなに。てか、お前も参ってるって、キャップが言ってたけど、大丈夫なのか? お前んちからここ、結構遠いだろ」  言いながら将吾は、東堂がどうやってここに来られたのか、ようやく疑問に思った。お互いの住んでいる場所なんて話題になったこともない。東堂と共に取材から直帰する時、かなり早い段階で違う路線に乗り換えていたから、近所ではないだろうなと思っていた程度だ。 「俺はそんな大したことなかったからな。食べて寝ればなんとでもなる。あと、ここの住所はキャップに聞いた」  将吾の疑問を読み取ったように、東堂が付け加えた。普通は個人情報だからそう簡単に教えるものではないが、小野に連絡がつかない、と話したら教えてくれたのだという。 「お前に何かあったら面倒だからだ。勘違いするな」  口調はぶっきらぼうでも、その目は感情に揺れているのが隠せていない。かなり心配してくれたに違いなかった。少なくとも、キャップにわざわざ聞いてまで、家に様子を見にくるほどには。将吾はたまらない気持ちになった。 「食えそうにないなら、水分だけでもとっておけ」  袋を抱えたまま動かない将吾にしびれをきらしたらしい東堂が、そう言うとスポーツドリンクのペットボトルを袋から引き抜いた。それを将吾の胸に乱暴に押し付けて、残りをまとめて持ち上げる。どうするのかと将吾が見ていると、東堂はスタスタとキッチンの方へ歩いて行き、冷蔵庫を開けてしゃがみ込んだ。  ——……う、わあ……。  東堂が、買ってきたものを丁寧に冷蔵庫にしまっている。甲斐甲斐しいにもほどがないだろうか。これがあの嫌味男と同一人物で合っているのか。あまりに信じられない出来事が連続しすぎて、将吾は自分の頬をつねった。  ——普通に痛え。あと髭生えてんな……。  夢でも痛いと思うことはあるかもしれないが、さすがに不精髭はリアリティがありすぎる。どうやら、これは現実であるようだった。  こんな自分に都合のいい現実があるもんなんだな……と思いながら、将吾はまだ半ば夢心地のまま東堂の背中を見つめる。じっと背中に注がれる視線を感じたのか、東堂がこちらを振り向き、ぎょっとした顔をした。 「何だ、そんなにやにやして。何がおかしい。気色悪い顔で見るな!」  にやにやしていたつもりはないし、人の顔をつかまえて気色悪いとは酷い言いようだが、そんな罵倒すら今の将吾には春のそよ風のようにしか感じられなかった。本気で嫌悪しているわけでも怒っているのでもないのが、その表情から分かるからだ。そんな顔を見せられたら、もう、居ても立っても居られない。  考える前に、体が動いていた。

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