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第20話 ただの同僚、の境界線を

 いきなりベッドから降りて自分の方へ向かってくる将吾に、東堂は訝しげな顔になり、手を止める。将吾は東堂の手から栄養ドリンクの瓶をひょいと取り上げると、適当なスペースに放り込んで冷蔵庫の扉を閉め、しゃがみ込んで東堂の顔を正面から見つめた。 「なん……」  東堂の言葉が終わる前に、将吾は身を乗り出して片手を持ち上げ、そっと東堂の頬に触れる。 「っ……」  小さく息を飲んで目を見開いた東堂だが、将吾の手を振り払うことも、顔を背けることもしなかった。ただ、伏せた目の横、将吾の指が触れている頬が、耳が、じわじわと熱くなっていく。指先から伝わる東堂の肌の熱に、将吾は胸がいっぱいになった。 「やっぱり」  ため息をつくような声で、将吾は言った。こんな触れ方、ただの同僚ならしない。体格的にも今の体勢的にも、将吾がその気になれば東堂をこの場で押さえ込むことができる。そう分かっていて、東堂は拒絶していない。こんな東堂は、自分しか知らないのだ。心臓がめちゃめちゃに脈打っている。 「……な、にが」  将吾につられたのか、東堂も小さな声で聞き返した。そのささやくようなトーンがまた、将吾の胸をかき乱す。 「俺のこと、こうして触っても、振り払ったりしてない。昨日の夜も、立ちくらみ起こしたお前を咄嗟に抱きかかえたけど、俺のことを突き飛ばさなかった。気づいてなかったか?」  ——東堂くんは男性に腕を掴まれるとか、要は暴行を連想させるようなことをされるのがダメになっちゃったみたいなのよ。  将吾に休憩室で事情を教えてくれた女性社員の声が蘇る。あの時の若手社員は東堂の腕を掴んで突き飛ばされたのだと言っていた。  それがだめなら、昨日の将吾の行動も、今こうして東堂を囲い込むようにして触れているのも、当然アウトなはずだ。そうはなっていない、ということが意味するもの。込み上げるものを逃すように、将吾は熱いため息を吐いた。  東堂は指摘されて初めて気づいたように、目が泳いでいる。将吾の言ったことが示すものを受け止めきれていないのが、表情から丸わかりだ。口を開けたり閉じたりしているが、言葉はいっこうに出てくる気配がない。それでも、湯気が出そうなほど真っ赤な顔が、東堂の心の中を十分物語っていた。  ——っ、こんなの、反則だろ……。  囲い込んだ腕の中で茹で蛸のようになって狼狽えている東堂を、可愛いと思ってしまう自分がいる。あんなに冷徹で、完璧で、孤高の存在だった東堂が。  もう、将吾の中にまともに物事を考える余裕なんてとっくに無くなっていた。  気持ちの昂るまま、もう片方の手も東堂の頬に添える。祈るような気持ちで、将吾は言った。 「それは、こういうことって思って、いいか」  今からしようとしていることへの緊張で、声が少し震えているのが自分でわかる。 「嫌だったら、殴ってでも止めろよ」  将吾はそっと顔を寄せて、東堂の唇に自分のそれを重ねた。東堂のそこは少し乾いていて、けれど、驚くほど柔らかかった。  東堂は抵抗しなかった。将吾はそのまま二度、三度と少しずつ角度を変えて、啄むように味わう。サラサラとした髪の毛の間に指を通し、頭を後ろから手で包み込むようにして支えると、東堂の体から力が抜けるのが分かった。全ての音が遠ざかり、自分の鼓動だけがうるさく響く。  気が済むまで貪りたかったが、さすがに状況を考えて理性が邪魔をする。将吾は少し名残惜しく感じながら、チュッと音を立てて、一旦唇を離した。ぽーっとした顔の東堂と目が合うと、その目がようやく意識を取り戻す。みるみる再び顔を真っ赤にした東堂が、将吾の肩を掴んで引き剥がした。 「なっ……お、……!」  口から言葉にならない呻き声を上げ、東堂は将吾の腕を鷲掴んで立ち上がると、ずんずんベッドへ向かって歩き出す。引きずられるようにして後をついていった将吾は、東堂によってベッドの上へ放り投げられた。 「いっ……てぇ……」  馬鹿力で投げ飛ばされた衝撃で、一瞬息が詰まる。けれど、見上げた東堂の顔には嫌悪感や拒絶の色はなく、代わりに少しやりすぎたか、という気遣わしげな表情がちらついていた。それに将吾はほっとするとともに、自分を受け入れてくれた東堂への感情が溢れて止まらなくなる。おそらく自分は今、最高にだらしない顔をしているだろう。 「っ、病人は大人しく寝てろ! まだお前にやってもらうことは山ほどあるんだ。これ以上俺の仕事を増やしたら殺すからな!」  だいぶ物騒な台詞を投げつけ、東堂は将吾をぎゅうぎゅうと布団の中に押し込むと顔の上まで掛け布団を被せた。そのまま足音も荒く部屋を出ていく音がする。  掛け布団をまくって、ぷは、と顔を出した将吾は、東堂の言葉を反芻して笑った。  ——キスしたことは、怒らねえんだ……。  それどころか、東堂の発言はこれからも変わらず将吾と組んで仕事をすることが前提になっていたのだが、本人は気づいていただろうか。受け入れてもらえる確率は五分五分、顔を合わせるのが気まずくてペアを解消されるくらいは覚悟していた将吾は、舞い上がりそうな心地だった。

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