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第21話 許された領域

 翌朝。  その後結局丸一日を寝て過ごした将吾は無事回復し、英京新聞社報道部フロアで、理事長の会見に出席した東堂と打ち合わせをしていた。  東堂は将吾の家に寄った後、そのまま出社して会見にも出席したのだという。そのおかげで会見に関する記事も東堂が担当し、他所の班に迷惑をかけずに済んだ。 「なるほどなぁ……」  将吾が書いた昨日の朝刊一面記事と相まって、会見はこの事件の決定打と言っていい一大インパクトを与えていた。理事長は会見で、総理と非公式な会合を持っていたことを事実として認めた。状況証拠は揃った形になり、あとは警察による捜査と逮捕、起訴が行われるだろう。報道機関としての責務は、その一部始終を最後まで追うことだ。  報道部四年目にして、初めて追った大きなヤマ。その転換点に自分がいることが感慨深い。しかし、感慨もそこそこに、将吾は目の前に座る東堂の様子が気になっていた。どことなく、緊張した面持ちで、じっと取材メモに目を落としている。昨日の余韻などとっくにどこかへ行ってしまったようで、将吾は場違いを承知ながら少し残念な気持ちになった。  ——っ、そうか……!  将吾はハッと気づいた。この事件は、三年前に東堂が追っていた事件とよく似ている。学校法人に関する政治家の汚職、記録の改ざん。かつての事件では、そこに関係者の命が失われるという痛ましい結末が加わった。  今回も、誰かが犠牲になるんじゃないか。東堂はそれを恐れているのだろうと将吾は感じた。  ——よし。そういうことなら。  自分が取るべき行動はすぐに分かった。 「一旦、コーヒーでも飲まねえ? 昨日のこともあるし、俺の奢りだ」  努めて明るい口調で、将吾は東堂にそう言った。「昨日のこと」と聞いて、会見への出席と記事を任せてしまったことか、それとも将吾の家で起きた出来事のどちらを東堂が想像するだろう、という密かな楽しみも、そこに忍ばせる。立ち上がりしなに盗み見た東堂の目元がさっと赤く染まるのを見届け、将吾は今にも駆け出したい気持ちを抑えて何食わぬ顔で歩き出した。  タイミングよく、休憩室は無人だった。ガコン、と自動販売機の取り出し口に落ちてきたコーヒーの缶を拾い上げ、東堂に渡す。目は合わせない割に素直に受け取る東堂が、今すぐこの腕の中に捕まえてしまいたいほどに可愛い。  ——しかしなあ……どっからどう見ても男、なんだけどなあ。  拗ねたように黙々と缶を開けて口をつける東堂を見ながら、今更な感想を抱く。  今朝起きた時、将吾は正直、自分の気持ちが自分でわからなくなっていた。  自分のしたことを後悔してはいないし、嫌悪感もない。だが、あまりに後先を考えずに一線を踏み越えてしまった。今日、どんな顔で東堂に会えばいいのか。出ていく時の東堂の態度には自分を拒絶する素振りはなかったけれど、あのあと仕事に戻り、一晩寝て、変わっているかもしれない。そう思うと、少しだけ怖くなった。  けれど、その少しの不安は、出社して東堂の顔を見るなり吹き飛んだ。東堂が自分を見る目にも、自分と同じ戸惑いと恐れがあるのが分かったからだ。  その手をとって、問題ない、怖がることはないと伝えたい。とはいえ、自分たちの関係は、ただの同僚からほんの少し、たった一歩、踏み込ませてもらっただけだ。だからまだ、そこまではきっと許されない。けれど、その一歩だって、東堂にとってはとても大きなものだったに違いなかった。  ——こんなに初々しいとか、聞いてないぞ。  打算でしか他人と関わることができなかった東堂が、おそらく初めて、心で繋がろうとしてくれている。そこにある迷いも怯えも、全部包み込みたい。男だとかそういうことは、その気持ちの前にはほんの些細なことでしかないというのが、将吾には妙に冷静に理解できていた。だって、今すぐその体を抱き寄せて、腕の中に収めてしまいたいと思う。物理的に触れることで、不安を少しでも和らげたい。何より将吾自身、一度知ってしまった体温を、もう恋しく思っていた。東堂という存在そのものが、将吾にとって意味を持っている。  今すぐに、全部委ねて欲しいとは思わない。少しずつ、時間を重ねて、つながりを強くして。この先また揺らいだとしても、こいつがいるから大丈夫だと思ってもらえたら、それでいい。 「……大丈夫だ」  何からどう話そうか、と悩んだ挙句、こんな切り出し方になってしまった。将吾は次に言うべき言葉を探しながら、手の中の缶コーヒーの縁を指の腹で撫でる。 「……何が」  東堂は目線をちらと上げてそう言っただけで、黙って続きを促した。  ——前だったら、間違いなく〝余計なお世話だ〟とかが飛んでくるとこだよなぁ……。  東堂は自分の能力に絶対の自信があり、だからこそ自分の限界もわきまえている。それゆえに、他人から心配されるのは、プライドを傷つけられることと同義だ。……というのは表向きの顔で、実際は、そう振る舞うことしかできなかったのだろう。今更他人に頼りたくなっても、やり方が分からないに違いない。そういう分野なら、自分にも多少教えられることがありそうだと思う。自分が東堂に教えられることがあるのが新鮮で、むずむずするほど嬉しかった。 「あの時と今は違うし、……それに何かあっても、今のお前はもう大丈夫だろ」  何を言っても、気休めにしかならないのかもしれない。それでも、将吾は伝えたかった。気休めだと思うかどうかは、東堂の決めることだ。  東堂は、視線を微妙に逸らしたままなんとも言えない微妙な表情をしている。けれどその様子は、どこか前向きなものに見えた。  知ったようなことを、と鼻で笑うことだって、お前に何がわかる、と心を閉ざすことだってできるのに、そうはしていない。将吾の言葉を受け止め、それに対して自分がどう向き合うのか、考えようとしてくれている。それが、無性に嬉しい。  東堂は、ちゃんと一歩踏み出している。将吾という他人に、自分の領域に踏み込むことを許した。自分を傷つけようと思えばそうできる範囲まで将吾を受け入れ、拒絶しなかった。今ここで、誰の目もない場所で二人でいても、東堂の態度がぎこちなさこそあれ、警戒や嫌悪のそれではないことから、それがよくわかる。  将吾にはそのことがとても愛おしかった。もちろんそれだけで「もう大丈夫」にはならなかったとしても、少なくとも、前とは同じにはならない。  ——それに……、今は、俺もいる。  将吾は心の中で小さく、付け加えた。付け加えてから、一拍おいて猛烈な恥ずかしさに襲われる。誤魔化すように勢いよく缶コーヒーを一気にあおって、案の定咽せる将吾に、東堂の冷たい視線が突き刺さった。 「話がそれだけなら、もう俺は戻る。お前もいつまでも油を売っているなよ」  将吾が百面相をしている間に、とうに自分の分は飲み終わったらしい東堂は缶をゴミ箱に放り込み、後ろも振り返らずに大股で休憩室を出ていく。ろくに会話もできなかったが、それでもこの時間に意味はあったと、東堂の背中を見て将吾は思っていた。

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