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第26話 スイッチ、オン
「よし。こんなもんでいいだろ」
目ぼしいつまみを適当にカゴに追加して、レジへ向かって歩き出す。
「しかし、またえらく混んでいるな……」
レジの行列を見て、東堂がうんざりしたような声を上げた。
「そうかー? 夕方のスーパーなんてこんなもんだろ」
東堂は日頃スーパーで買い物なんかしなさそうだもんな、と列に並びながら将吾は思う。ちょっと所在なさそうに将吾の後ろにくっついてくる東堂が、なんだか可愛らしくて笑えた。
あのあと将吾は、東堂に襲いかかりそうになったことをもう一度きちんと謝って、ついでにちゃんと意思の確認もした。そういう関係になってもいいか、と問う将吾に、真っ赤になりながら小さく頷いた東堂の姿は、将吾の心のアルバム永久保存版に収納だ。将吾の方も恥をしのんで、何が必要なのかを聞いた。思い返すと地面に埋まりたくなる。
——いや、だからもっと時間をかけるつもりだったんだって……。
将吾の中では、肌を触れ合わせてもいいと東堂が自然に思えるまで待つつもりで、それまでにいろいろ調べて、イメトレをしておく予定だったのだ。ただ、恥ずかしさを堪えて男同士のやり方、その準備に必要なものを挙げる東堂には、正直かなり萌えたので、これはこれでよしとした。羞恥プレイもいいな、と早くも思ったりしている自分がちょっと怖い。これまで付き合ってきた恋人たちとはしたいと思ったことさえないような欲求や衝動が東堂相手だとどんどん湧いてくる。
「ありがとうございましたー」
恥ずかしかった。猛烈に、恥ずかしかった。
昼夜外食も悪くはないが、せっかく来てもらったことだし、家でゆっくりしようと東堂を連れて食材の買い出しに出た。その帰り、ドラッグストアに立ち寄り、言われたものを買い揃えたのである。
こうしたものを店頭で買ったのは、初体験の時以来かもしれない。その後は知識を蓄え、その手のものはもっぱらネット通販という便利なものに頼ってきた。努めて何食わぬ顔で会計を済ませたし、レジの男性も眉一つ動かさずに商品を袋に詰めてくれたが、それでも買ったものを見ればこれから何をするか丸わかりだ。代金を払って袋を掴んで店を出るまでが苦行のようだった。
「……なんだ、やけにいろいろ買ったな」
先に何やら自分の買い物を済ませて外で待っていた東堂が、将吾の手にした袋を覗き込み、中にひしめく袋菓子やら歯ブラシやらに呆れ顔をする。
「そりゃ、あからさまにこれだけ買うわけにいかないだろ……」
目くらましの品々の間に埋もれるようにして、小さなチューブと四角い箱。「これ」こそ、東堂とつながるために必要なもの。
「お前、そういうところは意外に繊細なんだな」
意外に、は余計だろ、と軽口を叩きながら、マンションまでの道のりを歩く。うっすらとした興奮に包まれているのが自分で分かった。
スーパーで買ってきた食材で簡単に夕食を作り、東堂と食卓を囲む。それだけでも夢のようだ。けれどそこから酒が入り、ふとした瞬間にお互いのスイッチが入るのがわかった時には、本気で夢を見ているんじゃないかと思った。
「……、ん……」
今度は最初から、深く口付ける。体の奥にともった炎が、ちらちら揺れながら大きくなっていく。
「っ、風呂……に」
合間に東堂が訴える。準備させろ、ということだと理解した将吾は、名残惜しいが東堂の唇を解放する。一緒に入ろうと立ち上がったら、すごい形相で床に押し戻された。待ってろということなのだろう。
「一緒に入りたかったのに……」
思いのほか甘ったれた声が出て、将吾は自分でぎょっとした。が、東堂には意外に効果があったようで、耳が朱く染まっている。
「そんな顔をしてもダメだ。入ってきたら殺す」
自分は壮絶にエロい顔をしておいて殺すと言われても、と思わなくもないが、将吾は大人しく待つことにした。その間に、食卓を片付けて、寝室を整える。
——ローション、コンドーム、バスタオル……。
初めての時だってこんなに緊張しなかったような気もする。でも、東堂を傷つけたくないし、がっかりされたくもない。経験値では向こうのほうが上だろうが、リードしたいのが男心だ。試験前夜の一夜漬けよりもひどいが、この隙にとスマホで少しだけゲイ向けの基礎知識的なサイトを探した。読み物ではなく当事者向けの情報なので、生々しいがその分実感が湧く。読むうちに、じわじわと興奮が呼び覚まされた。
どっちが受け入れる方なのかという問題が男同士だと存在することにも、いざそういう流れに直面してようやく思い至った。東堂がさらっと自分の希望を口にしてくれたから恥をかくのは免れたが、東堂が自分に突っ込みたいと言ってきたら、どう答えただろう。お前はノンケなんだし、俺もそっちの方がいいから、と東堂は言ってくれたけれど、まだそうやってどこか線を引かれて気遣われてしまうのが、悔しいような寂しいような、複雑な気持ちだった。
——焦るな。ようやくここまで来られたんだ……ゆっくり、追いつけばいいだろう。
そんな殊勝な思いを抱く一方で、今まさに東堂が風呂場でしているであろうことを想像すると、不埒な下半身は否応なしに反応した。他の男なら絶対無理だと思うのに、想像の中の東堂の痴態はどんなAVよりも将吾を煽り立てる。カッコ悪いところは見せたくないけれど、抑えるのは困難に思えた。さし当たり、深呼吸を試みる。
そんなことをしているうちに、浴室の方からペタペタと足音がした。
「出たぞ。……ってお前、なんだそんな険しい顔をして」
無地のTシャツにハーフパンツというラフな格好をした東堂が、将吾のいるリビングに戻ってきた。先ほどドラッグストアで買っていたのはこれだったか、と納得しつつ、しっとりと濡れた髪の毛と上気してつややかに輝く肌に目を奪われる。普段はきっちりと上までボタンが留められたシャツの襟で見えない、なめらかな鎖骨の陰影が艶かしい。
「いや……ちょっと心頭滅却の練習を」
何を言っているんだこいつは、という冷ややかな目線を背中に受け止めつつ、将吾もいそいそと風呂場へ向かった。
——だめだ、全然だめだ!
三十を過ぎて彼女も久しくいない日々、もう早くも己のそっち方面の欲求は枯れ始めていたのかと思っていた。見ているだけで無性にムラムラするなんて何年ぶりに味わう感覚だろう。心頭滅却なんて到底無理な話だった。
カラスも顔負けの手早さでシャワーを浴び、一瞬迷ったが上はTシャツ、下は下着だけで浴室を後にする。リビングの電気が消えていることに気づき、将吾の体温が上がった。
——うわ、なんか、どうしよう。すげえドキドキしてきた……。
童貞じゃあるまいし、と自分に言いかけて、まあ今の自分はある意味では童貞みたいなものか、と居直る。そのまま将吾は、ほのかに明かりの灯る寝室へと足を踏み入れた。
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