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第29話 今日を忘れない
——あー、なんか、すごいことになったな……。
ぼんやりと天井を見上げながら、将吾は思う。
なんと結局三回戦という、将吾史上過去最高記録を樹立してしまった。自分のどこにそんな性欲があったのか、不思議で仕方ないレベルだ。いくら明日も休みだとはいえ、さすがにまあ盛り上がったな、という自覚はある。
こんなことは、もちろん初めてだった。男を抱くという経験が将吾にそもそもなかったし、これからもある予定はないから比較のしようもないが、どうやら東堂とはとんでもなく相性がいい、ということだけは言えそうだ。
更に恐ろしいのは、汚れたタオルやらシーツやらを剥がして新しいシーツを載せただけのベッドに今将吾が寝転がっている、その胸元に東堂が頭を乗せ、すやすや寝息を立てていることだ。これは幸せが許容範囲を超えたことによる幻覚か、とも思ったが、胸に感じる重みと将吾よりやや低い体温は確かに現実だ。
東堂はおそらく、満足した、のだと思う。途中からタガが外れたように素直に快楽を追っていたその姿を思い返すと転げ回りそうになるが、貴重な寝顔を見ていたいので我慢した。
——会社の連中がこれ知ったら、どんな顔すんだろ……わー、色んな意味で怖え。
もちろん、将吾にカミングアウトをするつもりはない。同性であることを差し引いても、同じ部署の同期だ。法律婚が可能な異性のカップルであれば、社内結婚はそこまで珍しいものでもなし、婚約のタイミングで周りに言うだろう。けれど、法律が変わらない限り、将吾と東堂にその機会が訪れることはない。
だからと言って、東堂との関係を負い目に感じるつもりも、将吾にはさらさらなかった。もしかしたら、佐倉あたりにはいつか言ってもいいかもしれない。目を丸くして、それからきっと吹き出して、ひとしきりからかった後、真面目な顔で祝福してくれるだろう。
改めて大事にしたい、と思った。東堂も、この関係も。
この先どうなるかなんてまだ想像もつかないが、その時その時で真剣に向き合って、最善の方法を考えていく覚悟はある。
もっと酷くしていい、慣れている、と東堂が最中に漏らした言葉を、将吾は思い出していた。その方が好きであるように振る舞っていたけれど、将吾にはなんとなく見当がつく。こんなふうに扱われたことがなかったか、あるいは酷くさせることで安心してきたか。体はつなげていても、最後のところ、全てをさらけ出したことはなかったのかもしれない。
——そうなると、責任重大だなぁ。
思うこととは裏腹に、嬉しさで顔がにやけるのを止められなかった。自惚れるのは危険だが、多分、これまで東堂の体に触れたことはある連中も、心にまでは触れられなかったに違いない。三ツ藤も、東堂のことをよく理解していて、だからこその飴と鞭で東堂の心を手に入れようとしていた。それでも多分、ここまで無垢な寝顔を見たのは、自分だけだ。
将吾は胸がいっぱいになって、そっと東堂の頭を撫でた。
「……流星」
東堂に向かって、でも起こさないようにごく小さな声で、その名を呼ぶ。まだ、気恥ずかしくて面と向かっては呼べないが、いつかそう呼ばせてもらえる日が来ることを願って。
「……ん……」
東堂のまつ毛がわずかに上下して、ゆっくりと持ち上がった。
聞かれていたか、と内心冷や汗をかく。だがどうやら心配には及ばなかったようで、東堂はぼんやりとした表情で瞬きを二、三度すると、ようやく意識が戻ったようだった。
「今、何時だ」
ちょっと聞く方が罪悪感を覚えるほどの、見事な掠れ声。原因は自分にあるので、この後すぐ何か飲むものを持ってこよう、と思いながら将吾は自分のスマホを確認した。
「午前零時すぎ」
そうか、というようなことを口の中で呟いたまま、東堂はまた将吾の胸の上で目を伏せてしまった。その様子はまるで子供のようで、こんなに気の緩んだ東堂を知っているのは今世界中でも自分だけなのではないかとさえ思う。
——まあ、明日も休みだし、な。
明日起きたら仕事のメールくらいは確認しなければならないだろうが、今くらいこうしてちょっと爛れた生活をしたって、バチは当たらない。
「ほら、水」
目を閉じはしたもののもう一度眠る気はなかったらしい東堂が、やがて大きくあくびをして自分のスマホの方へ手を伸ばしたので、そのタイミングで将吾は水を取りに立ち上がった。横になっていた時はわからなかったが、立った途端にどう考えても原因は一つしかない筋肉痛に襲われ、笑うに笑えない。
うつ伏せになって東堂がチェックしているのは、今日のニュースだった。どこまでも仕事を忘れないやつだな、と思うが、自分だって似たようなものだ。
そういえば、ずっと聞きたかったことを将吾は思い出した。
「なあ、そういえばさ、前から聞きたかったんだけど」
東堂が飲み残した水を貰って、将吾も喉を潤す。当たり前のようにそれを許されることに、またにやけそうになる。東堂が画面から顔を上げた。
「お前、なんで記者になったの」
将吾の質問に、東堂は本当に今更だな、と言ってから、話し始めた。
「そんな、語るほど立派な理由やきっかけがあったわけじゃない。……大学時代、友人で、記者に憧れていた奴がいたんだが、周りがみんなやめろと言っていた」
「なんで?」
「要求される能力がそいつには高すぎる、というのと、まああとは激務だろうとか、憧れでなると痛い目見るぞとか」
「あー」
東堂が語る内容はどれも、かつて将吾自身が経験したものばかりだった。自分も散々周りから止められたっけな、と懐かしく思い返す。そんな声には耳を貸さずなんとか記者職に漕ぎ着けた結果、見事に壁にぶつかったわけだが。
「で、それを聞いて、そんなにハードルが高いなら、やってみようと思った」
「え⁉︎ そこでそうなる⁉︎」
東堂曰く、特にこれといって他にやりたいことがあったわけでもなかったし、自分の能力を試してみるには丁度いいと思った、らしい。
「まあ、お前らしいっちゃ、らしいな……」
それで同期のエースになってしまうのだから、もう存在が嫌味だ。昔の自分が聞いたら、やり場のない怒りを焼肉食べ放題にでもぶつけに行っただろう。
「でも、俺はお前が羨ましかった」
突然告げられた言葉に、将吾はその場で固まった。
なぜそうなるのだ。かたや将来有望な若手のホープ、かたや憧れで飯は食えないの見本になれそうな自分。このどこに羨ましいと思う要素があるというのか。
「俺にはお前みたいに、熱意や夢や、自分が拠って立つ何かがない。お前は仕事の出来という意味では確かに、平均以下ではあるかもしれないが」
相変わらずの歯に衣着せぬ物言いに将吾は苦笑いした。でもそこに悪意がないことを今は分かっているから、不思議と落ち込まない。
「もっとこうした方がいい、というのが俺には見え、お前には見えていないことがよくあった。だからその度に指摘したし、お前は怒った。まあ、屈辱的だっただろうからな。でも、お前はいつも自分が信じるものに全力で、だからこそ怒るんだな、と思うと、俺はそれが羨ましかった」
ああ、と将吾は思う。東堂なりに、きっと、もがいていた。東堂が揺らいだ時、ちょうど自分が東堂の前に現れて、その自分は東堂にないものを持っていて。そのことが、もしかしたら、ほんの少し、東堂の進む道に影響していた、かもしれない。他の班のやり方に疑問を抱き、徹底した合理主義を貫けなくなった自分を抱えあぐねていた東堂が、そのままでいいんだと少しは思えるきっかけになったかもしれない。将吾はそんな可能性に、くすぐったくなった。
「そっか」
なんだか無性に嬉しくて、将吾は身をかがめて東堂にキスを落とす。調子に乗るな、と押しのけられるのさえ、じゃれあいの延長のようだ。今日のことは忘れないと、予感のように、そう思った。
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