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【7】元に戻っただけ②

 翌朝、温人の腕の中で目を醒ました勇士郎は、ズキンとあらぬ場所が痛む身体に眉を顰めながら、そっと温人の腕から抜け出した。  熱いシャワーに打たれながら、強く目を閉じる。白い肌には温人につけられた痕が、あちらこちらに散らばっている。  夢のような時間だった。温人は最初少し強引だったものの、この身に彼を受け容れてからは、本当に優しく、情熱的に抱いてくれた。それはまるで、愛し合う恋人同士の交わりのようですらあった。  けれど、やっぱりあれは間違いだったと勇士郎は思う。  温人はきっとどうかしていたのだ。悪夢を見たあとの不安と恐怖を忘れるために、すぐ近くにあった人肌を求めただけのことなのだ。  あるいは、優しい温人のことだ、勇士郎の気持ちを悟って、慈悲の心で抱いてくれたのかもしれない。  それなのに、こんなに好きになってしまって――。  勇士郎は腫れぼったい目蓋を、濡れた両手で押さえながら、またこみあげてくる悲しみに身体を震わせる。  もし、温人が本当に好意から勇士郎を抱いたのだとしても、この先うまく行くなんて思えなかった。  温人は異性愛者だ。しかも勇士郎より七歳も若い。考えるだけで怖かった。  辻野の時は温人のおかげで立ち直れたけれど、もし今後、温人に見放されたら、もう二度と立ち直れない。そんなのは耐えられない。  温人にとっても、こんな関係が良いはずはなかった。  彼は、女性と幸せになれる男なのだ。  シャワーを浴び終って、風呂場から出ると、温人がダイニングテーブルの椅子に座っていた。 「あ……お、はよ」 「おはようございます。……あの、ユウさん」 「よ、よう眠れた?」  目を合わせることも出来ずに、勇士郎が早口に言うと、温人は立ち上がって勇士郎の手首を掴んだ。 「あ…っ」  ビクンと怯えたように身体を震わせると、温人は苦しげな目をして、そっと手を離した。 「……すみません、俺」  ズキリと胸が痛んだ。そのあとに続く言葉が怖くて耳を塞ぎたくなる。  やはり、後悔しているのだろうか。  間違えたと、言うつもりなのだろうか。  さっき自分から間違いだったと考えたにも拘らず、温人の口からそれを聞くのはやっぱり怖くて、勇士郎は先に口を開いた。 「温人はもう、埼玉に帰ったほうがええよ」 「え」 「温人は、女の人とつきあった方がええ。オレとのことは…、事故みたいなもんや」 「ど…して、そんなこと、……怒ってるんですか、ゆうべのこと」 「怒って、ないよ。怒るわけない」 「じゃあどうして、急に、そんな」 「急にと違う。ずっと考えとったんや。……温人とおるんは楽しかった。ほんまや。せやけど、このままやったら、二人ともあかんようになる。この生活は仮の生活や。温人も色々良うなってきたけど、やっぱりちゃんと基盤のあるところで、しっかり前を見据えなあかんのとちがう? 睡眠障害のことも専門家にちゃんと相談したほうがええ。温人は充分に能力のある男や。いつまでもここにおったらあかん」  「俺は、迷惑ですか」 「……」 「――ユウさんは、大丈夫ですか?」  静かに問われて、勇士郎はハッと顔をあげた。勇士郎を見つめる澄んだ目に、最初に逢った日のことを思い出す。 『あなたは、大丈夫でしたか?』  そう訊いてくれた時のことを。  思えばあの時からもう、惹かれていたのかもしれない。ちょっと優柔不断だけど、本当に優しい心を持ったこの男に。  けれど、明日香に言われたことが頭から離れない。本当に温人のことを想うなら、ここで彼の手を離すべきなのだ。  そして温人のためを思うのと同時に、勇士郎は自分の保身を考えている。  かつて温人が明日香のような、魅力的な女性とつきあっていたということ。結婚式で見た、辻野と紀子の睦まじい様子。  男と女が寄り添う姿は、勇士郎にはあまりにも眩しすぎて――。 (だって怖いんや…、オレ。もうあんな風に傷つくんもイヤやし、いつかおまえがいなくなるかもしれんて思ったら、怖くて怖くてたまらんよ――)  勇士郎は熱くなる目頭をさりげなく押さえてから、まっすぐに温人を見た。 「オレがもし、大丈夫やなくても、温人は自分のことを考えなあかん。温人はいつも相手に合わせてばっかりや。でもそれはほんまの優しさとは違うで」  温人がハッと目を見開く。 「何にも流されたらあかん、誰かのために生きたらあかん。温人には、ほんまに自分が大切なもののために生きて欲しいんや」 「ユウさん、俺は、」 「は、温人はきっと…、ええ父親になる。おまえなら、奥さんも子供も、すごく大事にするやろ。だから、もう、…ここには居たらあかん」  勇士郎が潤む目を必死に堪え、温人をまっすぐ見つめたまま微笑むと、温人は勇士郎を辛そうに見つめ返し、それから俯いて、分かりました、とひとことだけ告げた。  そのときの顔があまりに寂しそうで、勇士郎は言葉を取り消したくなったが、きつく拳を握りその衝動を堪えた。  温人はその日のうちに、この部屋を去って行った。お世話になりました、という短い言葉だけを残して。  あまりにも呆気ない最後だった。  温人がいなくなった空間は死んだように虚ろで、寒々としていて、勇士郎の心もがらんどうのようになった。 (元に戻っただけ……。元に戻っただけや……) ソファにうずくまり、何度も何度も自分に言い聞かせる。  けれど勇士郎の頭に次々と浮かぶのは、このソファで遅くまで温人と語り合ったことや、一緒に映画を観たこと、腕相撲をしたこと、その腕で眠ってしまったこと、そんな他愛もない、けれど愛おしい思い出ばかりだ。  たった三ヶ月前までは存在も知らなかった男なのに、今では勇士郎の心の、一番大きな場所を占めてしまった。  けれどもう二度と、会うこともないだろう。  宵闇が降り始め、室内が薄暗くなってから、勇士郎は「栗原屯所」の戸をそっと開けた。  薄暗がりのなか、壁に何かが立てかけてあるのが見えた。そっと近づいてみると、それはあのレコードだった。  それを見た瞬間、ぼろぼろッと涙が零れ落ち、勇士郎は震える手でそれを掴むと、胸に抱いてちいさくうずくまった。 (温人……、はると――)  声にならない声で、何度も愛しい名前を呼びながら、勇士郎は暗い部屋でいつまでも泣き続けていた。

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