1 / 11

1-1 無防備な師匠

 エスターの一日は、黒蛙(くろがえる)の世話から始まる。  微量な魔力を持ったこの蛙は人の体温が好きで、素手なら簡単に捕まえられるが、ほかの方法で捕まえようとすると移動魔術を使って逃げてしまう。だから世話をする時は、嫌でも素手で触らないといけない。  黒蛙の体表はぬるぬるしていて気持ちが悪いし、背中にはこぶがあって見た目はグロテスクだけれど、ここに来て四年も経つエスターは淡々と黒蛙を持ち上げ、ごつごつした背中に手のひらを当てながら呪文を唱えた。すると蛙は口からきれいな白い珠(たま)をひとつ、吐き出した。 「お?」   素早くちいさなガラス瓶に珠を入れて、呪文で封印する。 「よしよし、久しぶりに出したな、えらいぞ」  褒められたのがわかるのか、黒蛙はぎょろりと黒目を動かした。  エスターはご褒美にチーズをやり、元の両手の形の巣に戻した。手首から先の石膏像のような両手は、黒蛙が入ると自然に閉じる。 「ほんときれいだな。猛毒だなんて思えない」  ガラス瓶に入れたつややかに光る真珠のような珠は、実は毒の塊りだ。  通常なら敵を撃退するために吐きかけるものだが、魔術でこうして取り出している。黒蛙の機嫌によるので、出てくるのはふた月に一度くらいだ。  エスターは石鹸でしっかり手を洗ってから、今度は朝ごはんの準備をする。  昨夜のうちにこねて寝かせておいたパン生地を整えて焼き、その間にシチューを作る。  生活魔術が得意なエスターは、材料を切ったり炒めたりするのは魔術を使うので、大した手間はかからない。 「おはよう、エスター。何かくれない?」  奥のソファから声が聞こえた。 「おはよう、カーラ。シチューはまだだけど、イモリの黒焼きでよかったら」 「あら、うれしいわ。エスターはいい子ね」  薄茶色の猫がクッションの間から顔を出した。ふわふわした毛並みがかわいい猫だ。 「もういい子って年じゃないんだけど」 「いくつになったの?」  大きなあくびをするカーラの前に黒焼きを置いてやる。 「十八歳、成人だよ」  四年前にはまだ少年らしかった頬のラインもシャープになった。  光を弾く金の髪に明るい緑の瞳は、ひと目を集めるにはじゅうぶん魅力的で、今では町に出れば少女たちが頬を染めて目線を送る程度には凛々しい青年に成長した。 「そう。あたしから見たら、まだかわいい子供よ」  カーラが何歳なのかエスターは知らない。前に百年ほど前の出来事を普通に見てきたように話していたから、そのくらいは生きているんだろう。  カーラは二本のしっぽをふりんと振って、イモリの黒焼きをかじる。 「シャールもそう思ってるかな?」 「エスターはかわいい子って? 思ってるに決まってるじゃない」 「……」 「それじゃ不満って顔ね。何がダメなの?」  ぐつぐつといい感じにシチューが煮えて、おいしそうな匂いが部屋に満ちてくる。木べらでゆっくり混ぜながら、エスターは答えた。 「子ども扱いはもういらないってこと。俺はシャールが好きなんだよ」 「そんなことは知ってるわ」 「ちがうよ、師匠として好きなわけじゃないよ」 「つまり、つがいたいのね?」 「つがうっていうか、まあ……そうかな」  エスターは赤面したものの、否定できずにうなずいた。猫と同列に言われるのもどうかと思うが、要するに触れ合いたい。  もっと正直に言うなら、抱きたい。そういう意味の好きだった。 「じゃあ、告白しなさいよ」 「したいけどさ。全然意識されてないんだよな」  師匠であるシャールはそういう目で自分を見ていない。 「どうして?」 「無防備すぎるもん。下着姿で歩き回るし、シャワー上がりは腰に布一枚巻いただけだし」  エスターのことなんて気にかけてもいない証拠だ。 「二百年も男の一人暮らしなんだからしょうがないわよ」 「まあ、そうだけどさ」  二百歳も年下の弟子なんてその程度の扱いだ。  以前はもう少し遠慮があった気がするが、自分がシャールを意識するようになったせいか、最近やたら肌が目に触れるのだ。さりげなく見える鎖骨やわき腹に、エスターの鼓動はいちいち速くなる。  まったく、どうしたもんだろう。

ともだちにシェアしよう!