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第7話 心に傷が残っている

 ギルが微調整をしている間に、ぶらぶらとぶどう畑を見て回っていると、急に呼び止められた。 「キフェンダル」  呼び止められて、体が硬直した。知っている声だった。  振り返ると、見覚えのある美しい人物がこちらを見ていた。 「……皇子」  彼はお忍びらしく、灰色のマントをすっぽりと被っていた。地味な服装でも、動作の優雅さはごまかしきれない。  ーーその瞳は変わらず冷たい。  遠目に、ギルが慌てて走っていくのが見えた。神殿に報告に行くのだろうか。彼はハンローレンがつけてくれた人材だから、俺の事情もある程度は理解しているのかもしれない。 「……」  俺は時間を稼ごうと、口を堅くつぐんだ。 「なかなか来ないから、私から会いに来てやった」  感謝しろといわんばかりの態度に、俺の感情が逆なでされる。俺は15日もかけてここまで来たのだ。それも拒否権がなかった。  俺はぶすっとした態度で皇子の言葉を無視した。 「お前は話もできないのか?」  そうしてあしらっていると、皇子が不機嫌になっていく。 「……」  お互いににらみ合う形になって、俺は耐えかねて口を開いた。 「話すことがありません」  俺はちょっと強気に答えた。今の俺は神殿預かりの身で、いくら皇子といえど無茶はできないはずだ。 「親には会ったのか?」 「会っていませんよ。俺は廃嫡されました」  皇子は言葉に窮した。彼に濡れ衣を着せられて、俺は廃嫡されている。皇都追放は正式な書面での命令ではなかったらしいが、廃嫡されたのは確かだ。  俺は父親に面と向かってそう告げられたのだから。 「私が取り持ってやろう」  そう言われて、俺は一瞬理解できなかった。取り持つ? 皇子のせいでこじれたのに? 「結構です!」 「素直になれ。私がやさしくしてやっているうちに」  そのもののいいぶりに、俺は腹の奥がぐつぐつと煮えたぎるのを感じた。 「殿下、俺はもうあなたと結婚しません」 「神殿から、お前はもう儀式の続きができないと聞いた」 「なら!」 「ならば、また最初からやり直せばいいだろう」  とんでもないことをいう彼に、俺は力が抜けた。  禊と簡単に言うが、神殿の聖水を体にかけると、激しい痛みが全身を包むのだ。  それこそ、見えない炎にあぶられているかのような痛みで、俺はたびたび禊の途中で失神した。  それで体力をとられても、食事は神殿が指定したものしか食べられず、肉、魚など、おおよそ成長期に必要なものはほとんど食べられなかった。  その状態で、マナーレッスンや勉強のスケジュールがぎっしりと詰め込まれていて、家族とゆっくり話をする時間もなかった。 「5年ですよ。俺は5年も頑張りました。それを無駄にしたのはあなたでしょう。それを、またはじめからやり直せと? 俺に何の落ち度もないのに!」  平静ではいられなかった。皇子に言われたこと、冷たくされたこと、すべてが脳裏によみがえってくる。つらい禊の期間、彼は一度だって俺を心配してくれたことはなかった。  よみがえる記憶。マカドと何度も比べられた。 「マカドの頬はふっくらしているのに、お前は骸骨みたいだ」 「マカドは親の七光りではなく、自分の能力でここまできた。お前とは違う」 「マカドは溌溂としていて、明るい」  俺が肩をいからせて怒鳴り出したのは、皇子にとって想定外だったらしく、彼は怖気付いて数歩下がった。 「落ち着け、キフェンダル」 「落ち着いています。だから言っているんです。もう俺はあなたのために頑張れません。その気持ちがない」  はっきりと伝えたつもりだったが、残念なことに相手に伝わらなかったらしい。皇子は急に距離を詰めると、耳元でささやいた。  「……髪色はそう言っていないが?」  皇子が手を伸ばして、俺の髪をひと房すくった。そして、流れるように唇を寄せる。目だけで俺の様子を見て、これで惚れただろうと言わんばかりに口角をにやっとあげている。  俺はぞわぞわしてきて、その手を振り払った。 「おやめください殿下」  凛とした声が響いた。  スミレ色の瞳をした男が、俺と皇子の間に割り込んだ。俺は思わず彼の名前を呼んだ。 「ハンローレン……」  いつの間にか息を止めていたらしい。俺は大きく息を吐いた。  皇子は忌々しそうに言う。 「何の用だ大神官」 「彼は神殿でお預かりしています。いくら殿下といえど、神殿の権威を穢すことは許されません」 「婚約者と話をしているだけだ」 「神殿はその婚約を承認しておりませんよ」 「うるさい!お前らの承認なんかいらない!」  子供のように叫ぶ皇子に、俺は眉を跳ね上げた。いつの間にか、記憶の中の彼を美化していたらしい。俺の中で幼いころの彼はもう少し威厳あるように見えていた記憶があった。 「とにかく!俺は早く皇位に就く!そのために結婚しないといけない!すぐに儀式をはじめろ!これは命令だ!」  お菓子がほしい子どものようにわめきちらし、思わず黙り込んだ俺たち2人を見て、満足したように彼は去っていった。 「大丈夫ですか?」  ハンローレンに尋ねられ、俺はうなずく。 「けがはないよ」 「心は?」  まっすぐな目で見つめられて、俺は驚いた。 「心は……」  大丈夫、と言いかけて、その場にずるずると座り込んだ。自分が思っていた以上に、心に黒いものを塗りこめられていたらしい。 「う……」  いままでハンローレンの前で泣いたことなんかなかったのだが、もうあふれでるものをとめられなかった。 「……見るな!」  彼に泣き顔を見られるのが嫌で、弾かれたように立ち上がって、その場から走り去ろうとした。その俺の腕をひいて、彼は俺を抱きしめた。 「大丈夫。見えません」  ーー俺はそのまま彼の胸で泣きじゃくった。

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