10 / 32
第10話 時がとまって動き出す
翌日、出発は日の出前であった。
俺はぎりぎりまで神殿内の資料庫にこもってレニュに関する資料――主に地質や風土が書いてあるもの――を読み漁っていた。
ハンローレンは荷造りの指示を出すのに忙しいらしく、結局出発のときまで顔を会わせる暇がなかった。
そうしてようやく顔をつきあわせた馬車の中で、俺は驚くべきことを聞く。
「ええ!? レニュに行かないのか!?」
「行きません。それは宮城を欺く嘘です」
ハンローレンはしれっとして答える。
「レニュ穀倉地帯には別の馬車が行きます。――あなたと私の偽物を乗せて」
「ええ!?」
ますます俺は仰天する。
「偽物って!? なんで!?」
「皇子の目の届かないところへ行きたいのでしょう?」
言われて、確かにそうだと思う。しかし、そうしてしまっていいのだろうか。
「えっと、じゃあ、どこに行くんだ?」
「マスカード城へ行きます。そこで匿ってもらう手筈です」
マスカード城。レニュ穀倉地帯とは反対の西方にある城である。
俺はためらったあと、昨日聞いたばかりの話を持ち出した。
「……あのさ、聞いたんだけど、レニュが大変だって……」
「おや、そうでしたか。ご安心を。あちらへ向かう馬車にもそれなりの神官を乗せています。神官が呪われることなどありえませんからね」
「それって、本当に呪いなのか?」
俺が尋ねると、ハンローレンは黙ってしまった。
馬車は黎明の中を進んでいく。
俺たちが乗った馬車は質素なものである。
俺たちのひとつまえに豪奢な馬車が走っていて、きっと、中には俺とハンローレンの偽物が乗っているのだろう。
その周りにはぐるりと騎乗した兵士たちが並走している。
後ろに続く馬車には医師と、彼らを世話する者たちが乗り、最後に食料を乗せた荷台が続いている。
この一隊がレニュへ行き、俺達は街道に出たところで分かれる予定だという。
先を行く一隊はレニュへ呪いを祓いに行くと言うが、しかし、神官が少なすぎる。
「呪いじゃないのか?」
さらに重ねて問うと、ようやく彼は重い口を開いた。
「……おそらく、違います。呪いではありません。病です」
――病。俺はハンローレンを見つめた。
ハンローレンは続ける。
「呪いにかかったものは、必ず我々聖職者には見分けられます。神殿はすでにレニュに神官を遣わしています。そして、その神官から呪いではない、という報告を受けました。しかし、人が死に続けています」
「だから、病だって?」
「ええ。まず、手足が燃えるような痛みを訴えるそうです。それから、痛むところが黒く変色し、やがて腐り落ちます」
「宮城は……」
「宮城も動きましたが、ついに病の原因はわからぬまま、派遣した医師団の半分がこの病に倒れました。いまは陛下も精力的に指揮できる状況ではありませんし……」
「そんな……」
神殿も、宮城も打つ手がない。
「どんな、症状なんだ?」
俺が問うと、ハンローレンは声を落とした。
「この病は妙なんです。流行り病であるのなら、ふつう家族ごと、家ごとに発症していくものですが、この病は家の中でも症状が出るものと出ない者に分かれます。それで、みな噂しているのです。呪いでもない、流行り病でもない、何か別の病なのではないか、と」
「えっと、じゃあ……俺をそこに連れていくって言ったのは……」
「ええ。賢者として名をはせる者がその地へ行くのを、宮城は止めないはずと踏んだのです。実際に数多くの賢者を名乗る者がレニュへ向かっています。あなたが行くと申し出ても、やはり、宮城は止めませんでした」
「でも、実際は行かない?」
ハンローレンは目をつむった。
「ええ」
彼がまるで知らない人のように見えた。
やさしく、親切な幼馴染から、鋭利で、威厳のある神官に変わる。
俺は声を振り絞る。
「なんで?」
「得体が知れないものが広がるところへあなたを連れていく理由がありません。解明は他の賢者に任せましょう」
「でも、俺が、この病をとめられるかもしれないって言ったら?」
俺の頭の中にはもうすでにレニュ穀倉地帯についての知識があった。
大麦、小麦、ライ麦などを育てていること、穀倉地帯の中心にある湖の影響で、比較的湿潤した空気であること。
そして、いまハンローレンが語った病状。
俺にはひとつの病名が頭に浮かんでいた。
そして俺の推測通りであるなら、それは間違いなく治る病だ。
しかし、はやく食い止めなければ際限なく広がる病であるということも知っていた。
俺の焦燥をよそに、ハンローレンはまるで天気の話をするみたいに、自然に言った。
「……では反対に、私が、皇位を狙っていると言ったら?」
「え?」
俺は聞き返す。
彼はスミレ色の瞳でこちらを見る。そしてまた言う。
「私、皇位を狙っています。ですから、いまレニュの民を救っている暇はありません」
馬車の中に沈黙が落ちる。俺はハンローレンを見つめていて、ハンローレンは俺を見つめている。
ぽっくりぽっくりと馬の蹄の音だけが二人の間に落ちる。
「あの」
「以前」
沈黙に耐えかねて俺が口を開いたのと、彼が口を開いたのは同時だった。
おずおずとした口調の俺とは対照的に、彼は決意した人間の口調だ。
会話の主導権をとったのはハンローレンだった。
「神殿で第二皇子を育てているという話をしましたよね?」
「あ、ああ……覚えてるよ」
「私が、第二皇子です。これから行くマスカード城には、私を支持する貴族たちと、神殿の者たちが集まっています」
俺は息を飲む。
大神官はスミレ色の瞳を伏せて、自虐的に笑う。
「こんなことまでするつもりはなかったのですが、仕方ないのです」
「ちょ、ちょちょっと待ってくれよ、それって」
「あなたが必要です」
最悪だ、最悪だ。
俺はハンローレンが次に何を言うつもりなのか、わかってしまった。
聞きたくない、と思った。しかし、彼は俺が制するのも聞かずに言い切った。
「マスカード城で儀式の続きを。そして、私と結婚してください」
馬車の中で、俺の時がとまった。
ともだちにシェアしよう!