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第24話 化学

 狡猾な目が俺を捉える。  その目は獲物を見つけた狼のようであるが、そこに感情は映されていない。 「ハンローレンの奴がうまいことやっていると思っていたが…」  ハイントル皇子が一歩近づく。俺は一歩後退する。  彼は地味な衣服に身を包み、その頬は薄汚れていた。 「なるほど、私もまだ神に見放されたわけではないということか」  壁際まで後退したとき、ハイントル皇子の腰に佩いた剣が鳴った。 「選べ」  彼は威圧的に命じる。 「私と共に皇都へ戻るか、ここで死ぬか」   心臓が跳ねた。  地上からは怒号と金属のぶつかる音が響いていた。  地上で戦闘が起きているのだ。  さきほどは聞き流したその音が、自分の首元で鳴っているような気がした。 「……なぜここに」  俺の口から出たのはくだらない質問だった。  それを知ったところでどうすることもできないのだが、聞かずにはいられなかった。  ハイントル皇子が嗤う。  その顔は蒼白で、ひどくやつれているように見えた。 「私は認めない。――ハンローレンが皇位に就くことも、ハンローレンがお前と結婚することも」  俺は言う。 「……もう、選定侯たちの心は決まりました。何人で乗り込んで来られたのか知りませんが、投降してください。ハンローレンも兄であるあなたをぞんざいに扱ったりしないでしょう」 「いいや、まだ何も決まっていない」  彼の声はしわがれて、抑揚がなかった。  ガラスのような瞳は変わらず美しいが、そこに感情がない。  彼は剣を引き抜く。  俺の持っているろうそくの火がその剣を妖しく光らせた。  背中を嫌な汗が伝う。 「お前を殺せば、ハンローレンも皇位には就けない」  俺は弾かれたようにその場から飛び退いた。  剣が俺の頬をかすめる。  地べたを這い、ときには転がるようになりながら逃げ回る。  俺を狙って、何度も剣が振り下ろされた。  狭い室内と彼の大振りな剣の扱いによって、最初の数回は剣が椅子やビネガーの樽に当たり、それらを破壊した。  椅子の足は折れて倒れ込み、またビネガーは樽からこぼれ出た。  小さな部屋につんとしたビネガーの匂いが立ち込める。  すぐに彼は剣を突くように構えを変えた。  俺はそれも無我夢中で避けたが、ついにビネガーに足を取られ、倒れたところに剣を突きつけられた。 「……っ!」 「……ああ、無様だな」 「……こんなこと、もうやめてください」 「黙れ、裏切り者め」  俺は蹴り飛ばされ、仰向きに転がされて、胸を踏みつけられる。 「私だって、こんなことは望んでいない。お前の望んだことだろう」 「俺は……こんなこと……」  胸に形容しがたい感情がこみ上げる。  怒り、困惑、恐怖、憐憫。  しかしそのどれも言葉にはならなかった。  彼は俺の腹を蹴り上げる。 「うぐぅっ……!」 「お前が、私を裏切ったからだ! すべてはそこからおかしくなったんだ!」  彼は狂ったように叫ぶ。 「あんなに愛してやっていたのに!」 「裏切った!」 「どいつもこいつも無能ばかり!」  俺はその叫びに耳をふさいだ。  彼は受け入れがたい現実を目の当たりにして、もう狂ってしまったのだ。  俺は震えた。  しばらく叫んだあと、彼はまた感情を失って抑揚のない声に戻ってこう命じた。 「大人しく、私といっしょに皇都に戻れ」 「……いやだ」 「なんだと?」 「いやだ! お前は皇位につくべき人間じゃない! 大っきらいだ!!」  言った。言ってやった。 「なら、ここで死ね」  彼の能面のような表情を見て、俺は死を覚悟した。  ――ごめん、ハンローレン。  しかしそのとき、地下倉庫に続く階段から、声が響いた。 「キフェンダル様! ここにいますか!?」  ハンローレンの声である。俺は叫ぶ。 「ハンローレン!」 「来るな! 入ってきたらこいつを殺す!」  目をひん剥いて、ハイントル皇子も叫ぶ。  喉元に剣を当てられる。俺はなす術なく天井を仰ぎ見る。  足音がゆっくりと降りてくる。  ハイントル皇子の剣を持つ手に力が込められたとき、その足音は止まった。 「……ハイントル殿下……いや、ハイントル。剣をおろせ。いま自分が何をしているかわかっているのか」  ハンローレンの声が聞こえた。  彼の声は静かで、威厳があった。  しかしハイントル皇子はハンローレンを鼻で笑った。 「お前こそ、いま自分がどういう立場かわかっているのか」    喉元に剣が食い込み、ぷつ、と皮膚を裂いた。  俺は身を硬くした。  ハイントル皇子は嗤う。 「こいつを殺せば、お前も私と同じだ」 「もう無駄だ。あなたの兵士はすべて捕らえた。……諦めろ」 「なら、なおのこと。堕ちるなら、お前も道連れだ」  部屋に沈黙が落ちる。  ハンローレンも、ハイントル皇子の尋常ではない様子に気がついたようだ。   「何が望みだ」 「……お前の死を」 「わかった」  あまりにもあっさりとハンローレンが要求をのんだので、俺は慌てる。 「馬鹿! ハンローレン!」 「黙っていろ!」  怒鳴られ、胸を踏みつけられる。  俺の喉からくぐもった声が漏れると、ハンローレンが息を呑んだのがわかった。  どうしたらいい。  どうしようもない状況で、俺は救いを求めて倉庫の中を見渡した。  そして、自分の右手が持っているものに思い当たった。  それはつやつやとした瓶である。 「ハンローレン! 逃げろ!」  ハイントル皇子が俺を黙らせるために殴る。  しかし俺は引かない。 「お前もだ! ハイントル! 目と口を塞いで逃げろ! 階段を登れ!」 「!?」 「――混ぜるな危険って、聞いたことないか?」  俺は聖水――次亜塩素酸ナトリウムの入った瓶の栓を抜いた。  そしてこぼれ落ちたビネガーに向かって投げ捨てる。  次亜塩素酸ナトリウムとビネガー、つまり酸が混ざる。  2NaClO + 2CH3COOH → Cl2 + 2OH- + 2CH3COONa  化学反応により、Cl2が発生する。  それは刺激臭のある緑色の、猛毒ガス。  塩素ガスである。    塩素ガスが小さな窓のない地下倉庫を満たすのに、それほど時間は必要ない。  あっという間に俺達は猛毒に包まれた。

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