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第25話 君の腕
「ああああ!」
悲鳴が聞こえる。
痛い。
まっさきに思ったのはそれだった。
目が、鼻が、口が、燃えるように痛い。
しかし、それは俺の胸を踏みつけていた男も同じだったようだ。
彼は顔を押さえてもんどりうち、床に転がった。
俺はすばやく身を起こすと、彼の凶刃から逃れた。
薄暗い地下室はそれほど広くはない。
ろうそくはどこかへ行ってしまった。
しかし、もう視界は頼りにならない。
俺は目をしっかりと閉じる。
勘を信じて、階段があったはずの方向へ足を向けた。
――大丈夫。
俺は自分に言い聞かせる。
塩素ガスは空気より重い。階段まで行けば逃げられるはずだ。
しかし、思った以上にガスを吸い込んでしまったらしい。
喉は腫れ、ひゅーひゅーという嫌な音が自分の吐息と共に聞こえた。
目からは生理的な涙がぼろぼろと零れ落ちる。
手を伸ばして階段の場所を探る。
――まだか。どこだ。
焦りがつのる。
自分の足に蹴躓く。
床に倒れ、ガスを吸い込む。
痛みは思考を鈍らせ、鼻がもげそうなほどの刺激臭は脳を揺らした。
怖い。
このまま死ぬんだろうか。
追い詰められたとき、脳内にはふと不吉な考えがよぎるものだ。
俺は死を思った。
――いま、俺が死んだら、ハンローレンは悲しむだろうな。
――でも、第一皇子も道連れにできたとしたら、ハンローレンは皇位につけるよな。
――俺以外の人と結婚して、民にも支持されて、いい皇帝に――
そこまで思って俺は足に力を入れた。
死にたくない。その生物的な本能の奥に、別の感情がよぎった。
地下倉庫にハイントル皇子の唸り声がこだました。
そして声を出したことにより、彼の悲鳴はさらに人間のものとは思えないものに変わった。
俺はその声から逃れるように、また足を一歩進める。
その時、何者かが俺の腕をつかんだ。
俺は思わず目をあけた。
そこには、充血して、それでも強い意志を湛えたスミレ色の瞳があった。
「バ、ァ、ンロ、レン」
喉を焼かれ、ひどい声だった。
彼の唇が動く。
俺が声を拾うより早く、彼は俺を抱き上げると、そのまま一足飛びに階段を駆け上がった。
階段を登り切ったところで、ハンローレンは倒れた。
彼に抱えられていた俺も、彼の上に倒れ込む形で折り重なる。
「は、はん、れ……」
声を出そうとするが、やはりうまくいかない。
身を起そうとしたがしかし、彼に強く抱きしめられた。
俺は彼の胸に顔をうずめる形になる。
ど、ど、ど、ど。
彼の速い鼓動が頬に伝わる。
「馬鹿なことをしましたね……」
彼の声が聞こえた。
俺も何か言いたかった。
それ以外なかったんだ。
なんで助けに来たんだ。
お前もガスを吸い込んだか。
しかし、そのどれも言葉にはならない。
彼が助けに来てくれたことに安堵して、全身力が抜けてもう何も考えられないのだ。
俺はただ彼の胸に力なく体を預けた。
「どうしたらいいですか」
彼が問う。
「み、水に……」
俺がそこまで言うと、彼はまた俺を抱き上げると、矢のような速さで神殿内を駆け抜け、そのまま神殿外の小川に俺を抱えたまま飛び込んだ。
突如神殿から飛び出してきた俺たちを見て、兵士たちが何事かと駆け寄ってくる。
「ごほっ、ご、げほっ」
俺は水でうがいをしようとして、咳込んでしまう。
ハンローレンは俺の隣に膝をついて背をさすりながら、兵士に命じる。
「医者を呼べ。あと、地下倉庫に第一皇子がいる。扉上を見張って、出てきたところを捕えろ。地下倉庫には入らないように」
「はっ」
兵士たちは駆けていく。
兵士たちの簡素な鎧には血の斑点がついていて、俺が知らない間に地上で戦闘が発生していたことを暗示していた。
「あ、はんろ、れん、な、なにが……」
何があった。どうなった。
聞きたいことが山ほどある。
しかし、水を頭からかけられて、それどころではなくなる。
切られた頬と喉に激痛がはしる。
そして、喉、目、粘膜という粘膜が悲鳴をあげる。
「ぐ……」
俺はうずくまる。
悲鳴をあげる俺に、ハンローレンはまた水をかける。
洗い流さないといけないのは彼も同じであるはずだが、彼は俺にばかり水をかける。
しっかりと全身洗い流されたあと、ようやく俺は息を吐いた。
見上げると、ハンローレンが痛ましいものを見るようにこちらを見ていた。
「なにがなんだが……」
彼は吐息のようにそう言って、それから俺をゆっくりと抱きしめた。
彼も俺も、冷たい水に浸かって全身がたがたと震えている。
彼は震える声で言った。
「でも、無事でよかった……」
大袈裟だよ。
塩素ガスを致死量吸うのは意外と大変なんだぞ。
俺は思ったが、全身萎えて、もう口を動かす元気もない。
彼の腕は俺に安堵を与えた。
俺は彼の腕に身を任せる。
遠くで、第一皇子を捕えたという声が聞こえる。
脱走兵を捕えよ、という声も聞こえる。
それから、西に火の手が上がったという声も。
俺は空を見上げる。
地上の混乱など意に介さず、鳥はのんきに飛んでいく。
空はくすんだ水色をしていた。
その中に、鉛色の凍雲が細くのびている。
秋の終わりを告げる雲だ。
皇帝のいないこの大地に、冬が来たのだ。
俺はゆっくりと意識を手放した。
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