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第5話 白鬼は楽しく生きたい②
白神様に隠し事はできない。澄也の具合が悪い時も、悲しいことがあったときも、白神様はすぐに見抜いてしまう。
「なんで分かるんだ?」
「まあ、それだけ露骨にしょんぼりしていればねえ」
「白神様はすごいな」
落ち込んではいるが、顔に出したつもりはなかった。ぺたぺたと顔を触っても、自分では分からない。話して楽しい話でもないけれど、ばれてしまっているのならば意地を張る理由もない。そう思って澄也は今日の出来事を話そうとしたけれど、うまい言葉がどうにも見つからなかった。
「……俺、うまくできないんだ」
ようやく吐き出した言葉は、自分で思うよりずっと弱々しく聞こえた。
「何がうまくできないんだい」
「空気を読むとか、人間関係とか、そういうの」
どう話せばいいか悩んでいたというのに、一度言葉にしてしまうと、堰を切ったように言葉があふれ出てくる。
「嘘なんてついてないし、だめだと思うことをだめだと伝えたかった。でも、そうしたらまた変な目を向けられた。ずっとうまくできなかったから、中学に上がったら今度こそと思ってたけど……ここでもきっと、明日からひとりぼっちだ。なんでうまくできないんだろう。魔物の声が聞こえるのはそんなにおかしなことなのか? 決まりを守ってやるべきことをやるのがどうしていけないんだ? 俺にはみんなの言葉の方がよっぽど難しい。空気を読めって言われるけど、『空気』ってなんなんだ? 分からないんだ」
言っていて、己の情けなさに涙が滲んできた。けれど澄也がそれを隠すより先に、白神様の指が涙を拭い取っていってしまう。
さらりと髪を揺らして、白神様は澄也とじっと目を合わせる。澄也は、真正面から見るこのひとの目が大好きだった。金色の瞳がまっすぐに澄也だけを見つめてくれるその瞬間、すべてのことがどうでもよくなるような幸福感を覚える。語られる言葉すべてに自然と耳を傾けたくなるのだ。
「いいんだよ」
「……何が?」
「分からないことがあったっていいんだよ。坊、お前の正直で素直なところは美徳だ。誇りこそすれ、恥じることはない。周りの声に煩わされなくたっていいんだ」
「でも、何度も同じことを言われる。それは俺が間違ってるからじゃないのか。きっと俺が何かおかしいことをしているからだ」
「何もおかしなことなんてないよ。ヒトは群れで生きるから、異物を弾く性質があるというだけの話さ。幼ければなおさらその本能は強い。坊の清らかさは、有象無象の目には眩しくうつるのだろうよ」
あとほんの少し歳を取れば、排除するのではなく汚してやりたいと思う輩が増えるだろうけど。白神様は口元を袖で隠しながら、くすりと笑う。
「よく分からない」
「坊は何も悪くない。だから、そのままでいいということだよ」
白神様の言葉はどこまでも柔らかくて優しい。
「本当に?」
「もちろん。坊は私が信じられない?」
「まさか。白神様は俺の神さまだ。信じてる」
「相も変わらずいい子だねえ。誰彼構わず信じて、騙されても知らないよ」
「信じてほしいのか信じてほしくないのかどっちなんだよ」
からかうような言い方にじとりと視線を向ければ、くすくすと白神様は笑った。
「さあ、どちらだろうね。私は気まぐれなんだ」
「知ってるよ。……あーあ、白神様とずっと一緒にいられたらいいのにな。学校なんて行きたくない」
弱音に交えて甘えをこぼす。白神様は微笑んだまま、しかしはっきりと首を横に振った。
「学校で色んなことを学ぶのが楽しいのだと言っていただろう。私もそんな坊を見るのが楽しいんだよ。学んだ知識はお前を磨いて育ててくれる。学ぶことが好きなら、学びなさい」
「じゃあせめて、ずっとここにいたい。寝るだけの部屋になんて戻りたくない。泊まらせてくれたっていいのに」
「だめだよ。風邪を引く」
「子どものときに一度引いただけじゃないか。風邪なんてもう何年も引いてないよ」
「今も子どもだろうに。そんな顔をしたって、だめなものはだめだよ」
柔らかい口調だけれど、その声には有無を言わせない力があった。一度わがままを押し通して神社で夜を越し、体調を崩してからというもの、白神様は二度と澄也を泊まらせてくれなくなった。自業自得ではあるが、不満に思わずにはいられない。
「……いつもそればっかりだ。いつになったら泊まっていい?」
「坊が大人になったらね」
「けち。いつまでも子ども扱いしないでよ」
子どもそのものの口調で詰れば、白神様は目を細めてくすくすと笑った。
ずっと一緒にいたいと告げるたびに笑顔ではぐらかされるけれど、澄也はそんなつれない白神様のことが大好きだった。
「なんだってこんな古小屋に泊まりたがるんだか。物好きな子だ。寝床に帰って寝た方がずっといいだろうに」
「ここは落ち着くんだ。静かだし、白神様がいるし」
白神様に話したら少し気が楽になった。目を閉じた澄也は、小屋の中に薄らと漂う甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
「においも好き。木と桃の香りがする」
「庭に生っているからねえ。食べたければ持ってお帰り」
「いい。今日はもう食べた」
いつからか神社の裏庭に生えていた桃の木は、年中甘い実をつける。仙桃という特殊な種類の桃らしく、健康にいいのだと言って、白神様は毎日のように澄也に桃を食べさせてくれた。嘘か本当か知らないけれど、澄也はめったに風邪を引かないので、本当かもしれない。
落ち着く桃の香りを堪能していると、澄也の真似をするように、白神様もすんと鼻を鳴らす。
「坊だっていい香りがするよ」
「そう?」
自分の腕を匂ってみるが、せいぜい今しがた食べたばかりの料理の香りがするくらいで、匂いというほどの匂いもない。澄也は首を傾げたけれど、白神様は含みのある笑顔を深めるだけだった。
「おいしそうな香りだ。ヒトの子の成長は早いねえ。日に日に薫り高くなる。坊が大人になるときが楽しみだよ」
「うん……?」
うっそりと呟かれた言葉の意味は分からない。白神様はときどきわけの分からないことを言うのだ。難しい顔をした澄也に笑いかけたかと思えば、白神様はわしゃわしゃと犬にするように澄也の髪をかき回した。
「うわっ、やめてよ!」
「坊の髪は撫で心地がいいんだよ。ふわふわしているから」
「撫でるっていうか、かき回してるじゃないか!」
ぶつくさと文句を言いながら頭を庇っているうち、ふと澄也は聞きたかったことを思い出した。
「そうだ、白神様。空手とか柔道とか、なんか知らない?」
白神様は普通のことこそ知らないけれど、澄也が知らないことは大抵知っているのだ。知りたいことがあるときは、本を読むより、先生に聞くより、白神様に聞いた方が早い。
「空手? 柔道? なんでまた、そんなことを知りたがるんだい」
「突き飛ばされただけなのに尻もちつくほど吹っ飛ばされて、悔しかった。鍛えようと思って」
「ふうん。喧嘩の仕方でよければ知らないことはないけれど、坊は体が小さいからねえ」
「チビ扱いしないでくれよ! まだ成長期が来てないだけだ」
「……そうかい。来ると良いねえ、成長期」
生暖かい眼差しを向けられて、澄也はふてくされたように唇をへの字に曲げた。
「教えてくれないならいい。走るから」
「え?」
「走って鍛える。また同じことがあったとき、やられっぱなしになるのは嫌なんだ」
鼻息荒く言い放つ。ぽかんとした顔で澄也を見た白神様は、次の瞬間吹き出すように笑いながら、澄也の肩を叩いた。
「何で笑うんだ」
澄也の抗議の声にも取り合わず、白神様はただ楽しそうに笑っていた。ひとしきり喉を鳴らして笑った後で、白神様は意地悪く唇の端をつり上げながら澄也を見る。
「お前を馬鹿にした者たちを消してほしい、とは願わないのだね、坊は。痛くて悲しい思いをしただろうに。お前が望むならば、何だって叶えてあげるよ?」
耳に心地よい声で投げかけられた言葉を、疑問には思わなかった。澄也に起きたことを知っているかのような白神様の口ぶりも、残酷な言葉も、聞くのはこれが初めてではなかったからだ。
「俺は突き飛ばされただけだ。ならそれ以上の仕返しはしちゃいけないと思う。第一、白神様に頼んだら意味がないじゃないか。自分のことは自分で頑張るよ」
「眩しいことだ。お前のそういうところを気に入っているよ」
低く呟かれた白神様の声は、まるで別人のように冷たく聞こえた。けれど澄也が首を傾げる間もなく、活を入れるように背中を軽く叩かれる。背筋が伸びる小気味よい衝撃とともに、澄也が抱いた違和感はすっかりと吹き飛ばされてしまった。
「坊ならできるよ。応援している。だけど何かあったらいつでも言いなさい」
向けられたひだまりのような微笑みに、自然と澄也は歯を見せながら笑い返していた。白神様は澄也の唯一の友人であり、血のつながった家族よりも近しい存在であり、教師であり――そして、誰より大切な神様だった。
白神様の言葉は、澄也にとっては暗闇の中の光のようなものだ。まっすぐに育てと言ったのも、己が正しいと思うことをすればいいのだと背中を押してくれたのもこのひとだ。白神様が澄也ならできると言ってくれるその言葉は、何より心強く思えた。
「ありがとう、白神様」
「どういたしまして。さあ、日が暮れる前に寝床へお帰り。しっかり眠って、大きくなるんだよ」
「うん。それじゃあ、また明日!」
「はいはい。また明日」
手を振りながら歩き出す。優しい視線を背に感じながら、澄也はヒビの入った鳥居をくぐり抜けて行った。
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