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第一話
青を思い浮かべる。
日本代表のユニホーム、アクエリアス、ポカリスウェット。記憶の中の青を引っ張り出して目蓋の裏を染めると湖畔に広がる波風がピタリと止み、拍動がおさまる。大丈夫、と久城海人 は自分に言い聞かせた。
「ごめん、待った?」
低く芯のある声をいち早く拾い上げた優秀な鼓膜は、次に高鳴り始めた拍動を拾った。
せっかく落ち着いてきたのにまたやり直しだ。海人はできうる限りの青を描き、気付かれないように深呼吸をしてから顔を上げた。
「いま降りてきたから待ってないよ」
「さっき武田に会ったけど、海人が十分前からいるって言ってた。待たせたよね、ごめん」
両手を合わせ笑顔で謝罪する弟につい顔が綻ぶ。待ち合わせ時間より先に昇降口にいたのは、心を落ち着かせるためだ。けれどそんなことを言えるはずもない。
「そんなに待ってないよ。じゃあ帰ろうか」
「怒ってない?」
「俺が空に怒ったことなんて一度もないでしょ」
「そうだね、海人はやさしいもん」
空の目尻の下がった笑顔を向けられると、地面から三センチ浮いた気分になる。この顔に弱いんだよなと海人は思った。
横を歩く空を盗みる。目が大きくブラウンの瞳がこぼれ落ちそうなのに、自分と違って上向きの眉や筋の通った鼻筋が男らしさを出している。高校に入ってすぐに茶髪に染め、ピアスやネックレスなど装飾するようになり、ぐんと大人に近付いた。顔のパーツは同じなのに、海人は自分を着飾嗜好はなく青臭い幼さを残していた。
「そんなに俺のこと見てどうしたの?」
「み、見てないよ」
「嘘だぁ。目の端でずっと海人のこと観察してたから、隠しても無駄だよ」
空はふふんと洟を鳴らし、自分の右目を差した。唯一空にしかない泣きぼくろは、妙に色っぽくてどぎまぎさせられる。
耳が熱くなるのを感じ、空を置いて逃げるように早足になった。きっと顔も赤くなってるだろう。こんなところをみられたら、気持ちがバレてしまう。
「お、空じゃん。俺たちカラオケ行くんだけど、一緒に行かね?」
靴を履こうとしていた空のクラスメイトは海人に目もくれず、後ろにいる空に呼びかけた。
「今日はパス」
「そうそう、空は私とデートするんだよね」
後ろからやって来た女は空の腕に抱きつき、豊満な胸をわざと押し当てている。マスカラで増した睫毛を瞬かせ、子犬のように空を見上げた。
「今日は普通に帰るの」
「えーいいじゃん。ちょっとくらい付き合ってよ」
「海人もいるから駄目」
ふいに女の視線が海人に向けられたが、すぐに逸らされてしまった。てんで興味がない素振りに少しばかり傷つくが、俺も興味はありませんけどと内心で付け加える。それより早く空から離れてくれないか。
「そういうことだから帰るわ」
空は女の腕を解き、海人の背を押して昇降口を抜けて正門に向かった。その間も帰宅途中の友人たちに声をかけられても、空はおざなりに返して、捕まらないように走っている状態だった。
「大丈夫?」
「ちょっと疲れたかも」
体育以外の運動をしない海人にとって、正門までの距離を走り続けられるほど体力はない。額に汗が浮かび始めた海人に空は手を差し伸べた。
「ここを抜ければ静かになるから、もう少し頑張ろう」
「うん」
この手を取っていいものかと逡巡する。心臓がどきどきし始めたのは走ったからだけではない。いつものように青を描く。
ツユクサ、あじさい、矢車菊。
「おーい、空」
「走るよ」
背後からの声に急かされ、空は海人の手を取って全速力で走り出した。校門を抜け二つ目の路地を曲がると商店街にでる。その先に駅がみえた。
「ちょ…… もうギブ」
海人は立ち止まって汗を拭い、酸素を肺いっぱいに吸い込んだ。肩で呼吸している海人をよそに、空は平然としている。
「大丈夫?」
「これが……大丈夫に、みえるか」
「ごめんね」
「なにもあそこまで逃げなくても」
「だって捕まったら長いしさ」
「そうかもしれないけど」
空は友人が多い。校内を一緒に歩いているとすれ違う人、みんなに声をかけられているんじゃないかと思うほど顔が広い。たぶん友人じゃない人数の方が少ないと思う。
いつも輪の中心にいる空は人の目を惹きつける。空の周りだけ常に電球がついているように、遠くからでも目立つ。
また青年期特有の子供っぽさと大人になる途中の独特の色気も持ち合わせていて、女にモテる。それを鼻にかけたりしないので、男からの受けもいい。
世界が空を中心に回っている。海人はその歯車に過ぎず、兄弟だから一番近くにいても許される。
「もしかして具合悪い?どっかで休む?」
「大丈夫。早く帰って夕飯の準備しないと」
呼吸が整ってくると拍動も落ち着いてくる。
空がモテるのはいつものことだと自分に言い聞かせた。
空の腕に抱きついた女の姿が過ぎり、その慣れ慣れしさに腹が立つがすぐに急降下する。
女だから空とベタベタできて、他人だから付き合える。いまさらどうこう言っても変わらないけど、心は少しずつ痛んでくる。
「はい、海人」
「ひゃっ!」
頬に氷のように冷たいものが当てられ肩が大袈裟に跳ねた。空は悪戯が成功したと相好を崩し、子供のように笑った。
缶を受け取ると海人の好きな緑茶だった。
「びっくりするじゃん」
「海人がぼぅとしてたからだよ。やっぱり具合悪い?」
「ううん、大丈夫になった」
空が自分を気にかけ、こうして好きな飲み物まで買ってくれた。全部家族として海人の体調を心配しての行為だとわかっているけど、自分を想って行動してくれたことが嬉しい。
さっきまでの陰鬱さが流れ落ちていき、我ながら単純だと思う。
「じゃあ電車乗ろうか。あと少し遅れるとラッシュに巻き込まれるし」
「そうだね、急ごう」
二人並んで商店街を抜けていく。海人は緑茶の缶を落とさないように胸に抱えた。
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