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第五話

 空はよく泣く子供だった。  傍を離れただけで「海人がいない」と喚き、思い通りにならないと癇癪を起こし、よく両親を困らせていた。そんな手のかかる弟が可愛くて仕方がなかった。  傍にいられれば幸せだった。きれいな円を描く空の世界の歯車として生きていたかった。  でもそれだけじゃ満足できなくて、醜い嫉妬が心に棲み、女といる空をみると胸を掻き毟りたくなった。  想いの丈なら誰にも負けない自信があるのに、兄という枷は空の世界に飛び込ませてくれない。  だから弟を護る兄でいたかった。そうしていればずっと空の傍にいられる。誰にも二人の関係を踏みにじることはできない安全地帯。  目を覆いたくなるような青空の下、榊と腕を組んでいる空の姿があった。引き留めようにも喉が締め付けられて一歩も動けなかった。  ただ小さくなる背中を眺めるしかできない。  深い青が海人を覆い尽くす。落ち着かせるための青が海人を取り込む闇と変わる。  「空……行かないで」  前髪をやさしく掻き分けられ額に温かい感触が触れる。ゆっくりと目蓋を開けると、眼前に空の顔が滲んでいた。  「そら?」  「大丈夫?」  「うん」  泣いていたらしく目に涙が溜まっていた。  ごしごしと指で拭うと空が代わりに指の腹で涙を拭ってくれた。  「怖い夢でもみたの?」  「覚えてない」  「そっか、随分長く寝てたもんね」  空はパイプ椅子から立ち上がり、海人が寝ているベッドに腰をおろした。保健室の窓から橙色の斜光がベッドの上に差し込んでいる。空の言う通り、随分寝ていたらしい。  「具合悪かったの?」  「ちょっと寝不足だったのかも」  武田の話がショックで寝込んでいたと言えるわけがない。武田の口振りから、きっと海人には知られたくなかったのだ。これ以上引きずっていたら無理矢理訊いた武田に悪い。  「心配かけたね。帰ろうか」  「……」  「空?」  「俺になにか隠してる?」  空に両頬を包み込まれ顔を覗き込まれる。  鼻先が触れるほど近く、空の生温かい呼吸が肌にかかった。射竦めるほど強い眼力に海人の視線は彷徨う。  「ただの寝不足だよ」  「だったらなんで泣いてたの?」  「……怖い夢をみたんだよ」  「さっきは覚えてないって言ってたじゃん」  目鼻立ちのはっきりとした空の面構えに夕日の陰影が落ちる。光の角度で感情を表す能面でいうと、怒りそのものだった。  背筋が強ばり指先一つ動かせない。目を逸らしたらもう二度と空といられない恐喝にも似た怒りをぶつけられていた。  海人は絞り出すように声を発した。  「空だって俺に隠し事してる」  「なにもないよ」  「……武田に訊いた」  その一言ですべて悟ったらしい。空は長い前髪を揺らして肩を竦めた。  「軽蔑した?」  「ショックだった」  「そっか」  「空に裏切られたって思った」  「ごめんね」  空の手が海人の頬を撫でた。温かくて大好きな手。でもこの手はたくさんの人を抱いてきた。  「やだ!」  脊髄反射で払い退けた手は宙で固まっている。  「俺のこと汚い?」  嫉妬という黒い闇が海人の足元から色を塗り替えていく。空に抱いてもらった女たちが羨ましくて憎い。  兄弟というだけで海人にはどんなに願っても縋っても手に入らない。  「空と兄弟じゃなきゃよかった」  「それがさっき泣いてた理由?」  小さく頷くと涙がシーツを濡らした。何度考えても空との関係は変わらないのに、流れ星に願いをかけるように心の中で思ってしまう。  「兄弟をやめたい」  「……俺は兄弟でよかったと思ってるよ」  空の答えにまた涙が溢れた。 ***  「いまので十二回目」  「なにが?」  「今日だけで海人が溜息した回数」  「そんなもの数えてたの」  はぁと息を吐くとすかさず「十三回目」と武田はノートに印をつけた。  「そんなに溜息ばっか吐いてると、幸せが逃げるぞ」  「もうどうだっていいんだ」  机に突っ伏して窓の外を見下ろすと、クラスメイトと談笑しながらサッカーボールを蹴っている空の姿があった。  雲一つない青空の下、空は楽しそうにボールを追いかけていた。その様子に気にしているのは自分だけなのだと、海人に暗い影を落とす。  「E組は次体育なのか」  武田も海人と同じように窓の外を見下ろし、空をみつけると目を細めた。  「そういえばまだ教室に空来てないな。喧嘩でもした?」  「うるさい」  「もしかして図星だったか」  茶化すような口調にだんまりを決め込むが、武田はぐいぐい前に寄ってくる。  「もしかして例のアレが原因?」  「わかってるなら放っておいてよ」  「空が誰と寝てようが関係ないだろ。兄弟なんだし」  「……どうせ関係ないよ」  「あらら、拗ねちゃって。海人らしくないな」  海人が相手をしてくれないことに飽きたのか、武田は数学の教科書を取り出し珍しく予習を始めた。耳を机につけているとシャープペンが紙を擦る音がよく響いた。  保健室からの帰り道、空はいままで通りに接してくれていた。学校で楽しかったこと、新商品のお菓子のこと、テレビの話と海人を楽しませようとしてくれていた。それを笑ってやればよかったのに、どうしてもできなかった。  空の言葉が尾を引きずって海人の首を絞めた。  「兄弟でよかった」なんて聞きたくなかった。  海人の反応に空は悲しそうな表情を浮かべ、罪悪感が芽生えさらに胸は苦しくなった。  「ねえ、確か武田って妹がいたよね?」  「いるけど、それがどうした」  「もし妹が誰彼構わず身体の関係をもってたらどうする?」  言葉の意味を咀嚼するように一拍置いてから武田は唇を開いた。  「どうも思わない」  「妹のことなのに?」  「あいつが自分なりに考えての行動だと思うし、俺はどうこう言う資格はないね」  「冷たいね」  「そうか? 俺は妹のこと信用してるからなにも言わないのであって、感心がないわけじゃない」  武田はシャープペンを指で器用に回し、思案顔を浮かべた。  「おまえは空になにか言ったのか?」  「ショックだって」  「あー」  「裏切られたって」  「なるほど」  「だって本当のことだもん」  普通の兄弟だったら武田のように接することはできるかもしれない。けれど空を好きだという気持ちが、海人をがんじがらめにする。  「いっそのこと理由を空に訊いてみれば?」  「やだ、訊きたくない」  だって女が寄ってくるからと返されたら死にたくなる。  「そうやっていじけて海人の方が弟みたい」  「俺は空の兄貴だ」  「そういう発言が変だって言ってんの。うだうだ悩んだって空の気持ちはわからないだろ」  ぐるぐる悩んでも解決の糸口はみつからないのだ。なら思い切ってハサミで切ってみるやり方もありかもしれない。  窓の外を見下ろすと空がこちらを見ている ような気がした。

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