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第四話

 休み時間の度に空が海人の教室に通ってきてくれる。文系クラスと理系クラスは階が違うのだが、空は文句も言わずに律儀に訪れた。  海人は終業のチャイムが鳴ると片づけもそこそこに扉の方をみてしまい、早く来ないかと待ちわびていた。  教室が開放感で満たされている中、がらりと扉が開いた。空は我がもの顔で教室に入り、まっすぐ海人の席に向かってくる。クラスメイト(主に女子)の好意的な矢印を向けられているのに、気にする素振りをみせない。  何人かのクラスメイトに声をかけられ立ち止まると、灯りに群がる羽虫のようにみるみる人が集まってしまった。  空は輪から抜けるタイミングを計っているのか、会話を切り上げようとしても次から次へと質問を投げかけられてしまい抜け出せないようだ。  今日は一段と人を集めてしまうようで面白くはないが、表面上は取り繕っておいた。  海人に向かって手を合わせる空の表情は申し訳なさそうに眉を寄せている。これで楽しそうに笑っていたら腹が立つが、気にしているようだし一応はよしとしよう。  「相変わらず空は人気だな」  海人の前の席に座った武田真司は空の様子をみて、面白そうに笑った。  入学式のとき隣の席に座っていたのが武田でそれ以来懐かれるようになった。一人静かにしている方を好む海人をよそに、ぐいぐいとテリトリーに侵略する遠慮のない性格は空と似ていたせいか、気がつけば心おきなく会話ができる友人となっていた。  「ま、それは昔っからだよ」  「でも早く構って欲しいって顔してるぞ」  武田は眼鏡の奥の瞳を細め、海人の反応を観察した。相変わらず人のことをよく見ている。  「そんなこと言ってると、数学の課題教えてあげない」  「殺生な! 次課題出さないとまじでやばいんだから、頼みますよ」  武田は頭を低くし海人を拝んだ。その必死な様子に相当単位がやばいらしい。  「調子いいんだから。どこがわからないの?」  「ここの問二なんだけど」  「この方程式を当てはめるんだよ」  ノートの空きスペースに数式を書いて答えを導くと、武田は感嘆を漏らした。  「さすがだな!神様仏様海人様」  「これ一昨日習ったばっかじゃん」  「だって寝てたし」  偉そうに語る武田に肩を落としながらも、そのあっけらかんとしたところは憎めない。生まれついての兄気質のせいで、困っているとつい手を貸してしまう。  「海人」  「あ、空。もう終わったの?」  「なんで武田といちゃいちゃしてるの!」  「へ?」  「どうだ。羨ましいだろ」  武田は海人の肩を組み、あからさまに距離を詰めきて空を煽っている。不敵な笑みを浮かべる武田に空は目を眇めた。  「海人から離れろ!」  「それは無理な相談だ。俺は海人のことが好きだからね」  海人の頬を指で辿り、武田は唇の端をあげた。  「汚い手で触るな!」  肩に置かれた手を空が払のけて、海人の腕を引っ張った。その力強さに海人は圧倒され、されるがまま空の胸の中に飛び込む形になった。  「このばい菌め」  武田に触られた肩や頬を空は手で払い、殺気を含ませた鋭さで武田を睨みつけた。空の反応に気を良くしたのか、武田はくつくつと笑う。  「相変わらずいい反応するな」  「ばい菌、コケ、虫!」  「空、落ち着いて。武田もあまり空をからかわないでよ」  武田は海人をだしに空のことをいつもからかっている。海人を使えば空が本気で怒る様子をみるのが楽しいらしいが、宥めるこっちの身にもなって欲しい。  「そんな独占欲丸出しだと海人に飽きられるぞ」  「うっさい眼鏡ザル」  赤い舌を出して武田に牽制しているようだが、子供のような反応に益々武田の機嫌は良くなる。  「海人ーあいつ嫌い」  「まあ許してあげて。本人も悪気はないんだから」  空は海人の肩に頭を埋めて、すっかり落ち込んでしまった。柔らかい猫っ毛が頬にあたって擽ったい。  ムキになればなるほど武田の思う壺になるのに、空は一向に学習しない。その短絡的な思考は可愛いがいささか心配でもある。  「しょうがないな」  海人は空の頭を撫でてやった。何度も染め直した金髪は毛先は痛んでおらず、むしろ輝きを増しているようだった。指の隙間を通る感触が気持ちよくて、何度も往復する。  「もっと……」  「はいはい」  「空は甘えん坊だな」  武田の嫌みも聞こえないらしく、海人にされるがまま空は大人しくしている。昔から頭を撫でてやれば空の機嫌はだいたいよくなる。  「兄貴に撫でられて喜ぶなんて、ブラコンも大概にしろ」  「海人のことが好きなだけだし」  「そういうのをブラコンっていうんだよ」  「もう二人ともやめなさい」  再び口喧嘩を勃発しそうな二人を咎めると、ようやく火種は消えた。こうやって甘えられると空に必要とされているようで嬉しくなる。  武田のからかいは度を過ぎるとひやひやするが、空と触れ合える機会をもらったのだから悪いことばかりではない。  「あの……久城くん。ちょっと良いかな?」  他のクラスメイトが遠巻きに三人を見守っている中、榊えりなはこちらに近寄ってきた。  肩口に揃えられた髪が左右に揺れ、赤くなった耳が見え隠れする。  「どうしたの?」  「前言ってたレシピのコピー持ってきたんだ」  「わざわざありがとう」  「私も今度部活で作ろうと思ってたからそのついでだし」  「それでも助かるよ。あ、この前教えてもらったハンバーグ作ったんだけど、すごく美味しかったよ。ね、空」  「なにそれ?」  「ほら先週ハンバーグ作って美味しいって喜んでたじゃん。あれ、榊さんが教えてくれたんだよ」  「ああ」  空はおざなりに返し、海人の肩から顔を上げた。横からで表情は読みとれないが、漂う空気間が違う。冷たい刃物が喉元に突き立てられているような無情さを秘めている。  「もしかして、あなたが榊えりなさん?」  「そうだけど」  空の不穏な空気に臆したのか、榊は一歩後ろに下がった。  「ふーん、あんたが……」  「あの」  「ちょっと二人っきりでお話しようか」  海人から離れた空は榊を促した。榊は不安そうに海人を見上げたが、すぐに小さく頷き空の後ろについて行ってしまった。  「空?」  「海人、ごめん。教室戻るね」  榊と連れだって教室を出て行ってしまい、海人はぼんやりと二人を見送ることしかできなかった。いったいなにが起こったのかわからない。  「次は榊かー」  「けっこうな数だよな」  「今月に入って三人目だっけ?」  クラスメイトたちが小声で囁き合っている。  次は榊? けっこうな数? 三人目? どういう意味だ。  「いまのなに」  「んーなんだろうな」  「とぼけないでよ!武田は知ってるでしょ」  海人の質問を躱そうとする武田を睨みつける。  「空に訊けよ」  「だっていつもの空っぽくなかったし」  画面が切り替わるみたいに空の態度は急変した。それが少し怖かった。  「俺は知らないことをおすすめするよ」  「そんなこと言うと、もう課題教えてあげない」  「それを引き合いに出すとは卑怯だな。ま、そこまで言うなら構わないけど、聞いたら世界の見方が変わるかもしれないぞ。それでもいいのか?」  「大袈裟な」  武田の言い回しに軽く返したが、いつにない真剣な面持ちで海人は唾を呑み込んだ。  武田は声を落として語り出した。  「発作だよ」  「発作?」  「海人にも身に覚えがあるでしょ。ムラムラして抜きたくなる生理現象」  一体なにを話し始めるのかわからず、慎重に武田の様子を窺う。  「空はそれを女で発散するのよ」  頭を鈍器で殴られたような衝撃に言葉が出てこない。武田は続ける。  「つまり空は誰彼構わず関係を持つ悪癖があんの」  「……だって、そんなこと一言も」  「普通言わないだろ。でも学校じゃ有名な話だぜ。海人は俺以外の奴と殆ど話さないから知らなかったかもしれないけど」  衝撃的な言葉にそれ以上口を開けなかった。  先日、空から榊の名前を訊いて嫌な予感はあった。実の兄弟だから結ばれるはずなどないとわかっていたのに、本当の意味を理解してなかった。  身体の関係を持つこと。血の繋がりより、もっと生々しく熱情的な関係になる意味。海人には辿り着けない、絶対的な領域。  必要とされている、なんて独りよがりもいいところだ。海人が空を望み、傍にいたいと願っただけなのだ。空はただ兄弟として海人に接していたに過ぎない。  水平線みたいに二人の関係はいっこうに交わらない。  「青い顔してるけど大丈夫か?」  武田が心配げに海人の顔を覗いたが、視界には白い闇しか映っていない。  「ごめん……保健室行ってくる」  「付きそう?」  「一人にして」  「だから言いたくなかったんだ」  海人は覚束ない足取りで保健室へと向かった。

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