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第三話
数学は答えが明確にでるから怖い。この答え以外あり得ないと言われ、その他は許されない。まるでどんな公式を使っても、自分たちを繋ぐ血という呪縛から逃れられないと突きつけられているように感じた。
食事が終わると海人は自室に籠もった。数学の課題を解きながらも、空との関係に意識が向かってしまう。
どうして双子として生まれてしまったのだろう。赤の他人で異性だったら付き合えるのに、ともう何百回と考えた思考の沼に陥り、堂々巡りを繰り返す。
だめだ、集中できない。
海人はシャープペンを放り投げて机に突っ伏した。どんなに考えても答えは変わらない。
だから数学は嫌いだ。
「海人、風呂」
ノックもなく入ってくる空に呆れながらも、ドアの方に視線を向けた。
部屋着に着替えた空は長い前髪をゴムで括り、白い額を曝け出している。そこにキスしたいなとぼんやり思う。
「この課題終わらせてから入るよ」
「そう言うわりにはやってるように見えないけど」
「休憩中なの。空も課題はあるんじゃない?」
「出てたような出てなかったような」
「ちゃんと確認しときなよ」
またお兄ちゃん然としてと絡まれることを予知したが、空は入り口に立ったままだ。
「どうかした?」
空の方へ身体ごと向き直ると、苦悶の表情を浮かべていた。言うまいか言わまいか悩んでいるようにみえた。
しばらく待っていると空は重たい口を開いた。
「……榊さんって海人のクラスだよね?」
「そうだけど」
空から女子の名前を訊かれたのは初めてで、緊張が走る。
「その人と仲がいい?」
「ただのクラスメイトだよ」
榊は料理部に所属して、時々レシピを教えてもらう程度の付き合いだ。一部の男子からは人気があるらしいが、空しかみえていない海人にとってどうでもいい話だった。
「そっか」
「榊さんとなにかあったの?」
「いや、なんでもない。先に風呂入る」
釈然としなかったが空は踵を返して部屋を出て行ってしまった。なにが訊きたかったのだろう。
「もしかして、榊さんのことが気になるのかな」
空と榊が並んでいる姿を描くと胸の奥が締めつけられた。
友人が多く異性からモテる空にいままで恋人を匂わせる存在はいなかった。つい忘れてしまっていた未来が、たまたま今日きただけに過ぎないと自分を宥めても、気分は沈む。
「海人!おばあちゃん送って来てくれない?」
階下から母親の呼び声にはっと我に返る。
「わかった」
ハンガーに掛けてあった上着を手に取り、玄関に向かうと帰り支度の済んでいる祖母が立っていた。
「一人でも大丈夫だよ」
「ちょうどコンビニ行きたいと思ってたし」
「海人はいい子だね」
皺をたくさん刻ませた祖母の笑顔をみると、胸の痛みが少し和らいだ。
母親に見送られ、海人は祖母と共に外へ出た。
卯月の半ばを迎えても、気温が上がらない今年は夜になると一段と冷える。上着を持ってきて正解だった。
「寒くない?」
「大丈夫よ。年をとると寒さに強くなるの」
「それならよかった」
海人が返すと祖母はふふ、と笑った。
「しばらくみないうちに大きくなったね」
隣を歩く祖母は海人の胸の位置に頭がある。
二回りほど小さい祖母は嬉しそうに海人を見上げた。
「この前計ったら五センチ伸びてた」
「こんなに格好よくなって彼女でもできたのかい?」
「彼女……」
空と榊が笑い合う姿が浮かび、また胸の奥が騒ぎ出した。
返事がないのを肯定と取ったのか、祖母は海人にも彼女ねと感慨深く呟いた。
「違う、俺じゃない……空が」
「ん?」
「ごめん、なんでもない」
「おかしな子だねぇ」
しばらく取り留めのない会話をしていると、あっという間に祖母の家に着いた。
「送ってくれてありがとう。気を付けて帰るんだよ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
祖母が玄関に入るのを見届けてから、海人は自宅へと足を向けた。
子供の頃は祖母の家まで遠く感じたが、いまでは散歩にすらならない距離に思える。確実に大人へと成長しているのに、空への気持ちは同じところに留まったまま動けずにいた。
「海人!」
遠くで人影が近づいてきて、飛びつかれるように抱き締められた。温かい体温に心臓が飛び上がる。
「空? どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ! 一人で夜道歩いて危ないじゃん」
「ばあちゃん送るだけだし、歩いて十分じゃん」
「ここ人通り少ないし、海人になにかあったらどうするの!」
あまりの剣幕に言葉も出てこない。背中に回された腕が力を込められ、空との距離が縮まる。突然の触れ合いに心臓が早鐘を打ち始めた。青を、思い浮かべなきゃ。
サファイヤ、ブルートパーズ、アクアマリン。
「男だから大丈夫だよ」
「駄目。海人めっちゃ可愛いもん。変な趣味の奴に連れさらわれるに決まってる」
「そんなわけないだろ」
軽く返しても空の眦は吊り上がっている。
怒気を含んだ声に空が本気で言っているのだと分かった。
「……ごめん」
怒ったときの空に逆らってもいいことはない。長年の経験からわかっているので素直に謝ると、空は海人の好きな笑顔を浮かべた。
「帰ろうか」
空が手を差し出したので海人も倣うが、あまりの冷たさに引っ込めてしまった。暗がりで気付かなかったが、空の髪は濡れてぺったんこになっている。
「もしかして髪も乾かさないで来たの?」
「そのうち乾くよ」
「莫迦! 身体冷やして風邪でも引いたらどうするんだよ」
子供のとき、すぐに熱を出しては空は入退院を繰り返していた。何日も高熱にうなされている姿をみて、空が死んでしまうんじゃないかと何度も思った。
空の髪を撫でると氷のように冷たい。パーカーにジャージという防寒もない服装で、身体が小刻みに震えていた。
海人は着ていた上着を空の肩にかけてやったが、筋肉量の差か袖が少し短い。けれど贅沢は言っていられない。
「これ着て」
「平気だよ」
「俺が心配なんだ」
「そんなに軟弱じゃない」
空は唇を尖らせ子供のように拗ねたが、こっちは一大事なのだ。
「いいから言うこと聞いて」
「そうやって兄貴面するなよ!」
ぴしゃりとした怒声が二人の間に亀裂を生んだ。空は自分の声に驚いたようで瞳を数回瞬いて、泣き出す寸前みたいに顔を歪ませた。
「……ごめん」
「ごめん、俺も偉そうに言ったよね」
重苦しい空気が二人の間を漂い、心が痛いと叫ぶ。兄貴面して、は深く刺さった。兄弟として接してればずっと傍にいられると思っていたのに、浅はかだったのかな。
海人は空の額に恐る恐る手を伸ばした。暴言を吐いた手前、空は黙って受け入れてくれている。手のひらがじんわりと温かく幸い熱はなさそうだが、一刻も早く身体を温めた方がいい。
「風邪引く前に早く帰ろう」
「これじゃ海人が風邪引いちゃう」
「俺は大丈夫だから」
「……じゃあこうしよう」
空は上着の半分を海人の肩にかけ、腰に腕を回した。あまりにもスマートな行動に顔が熱くなった。
海人の動揺を余所に空は平然としている。
気まずかった空気を和ませようと空が考えた結果なのかもしれないが、心臓に悪い。
隙間がないほど空に密着し、腰を抱かれると否応
なしに身体が反応してしまう。
冷えた空の身体を暖めるには仕方がないと自分に言い聞かせ、高鳴る鼓動を悟られないように前を向いた。
「もしかして緊張してる?」
「そんなことない」
「残念……俺はすごくどきどきしてる」
「え?」
隣を見るといつにない真剣な眼差しとぶつかった。街灯に照らされたブラウンの瞳は探るように細められ、海人の動揺を映していた。
「なんてね」
空は目尻を下げいつもの幼い笑顔に戻った。そのことにほっと胸を撫で下ろし、糸をぴんと張っていた緊張が緩んだ。
「ふざけてないで早く歩いてよ」
「やーだ」
回された腕に力を込められ、上半身が空の方へ傾く。お返しと海人も腕を回し、自分の方へと引き寄せてふざけあった。
あどけない笑顔を浮かべる空を眺めると、心地よい甘さが体内に広がってくる。
空の腰を強く握るとさらに強い力で握り返された。「痛い痛い」と大げさな反応をすると、空は大声で笑った。
二人の笑い声は静かな夜空に吸い込まれていき、星はやさしく見下ろしていた。
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