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第39話 ロシアンブルーの正体⑤

「…はよーございまーす」 いつもより少し遅い時間にやって来ると、長谷川はすでにカウンターに立ち仕込みをしていた 「あれ?お前今日プッシールーム(向こう)ない日だろ。ない日はこっちも休みでいいって言ったじゃん」 「いや…」 ミナミが言い淀んでいると、察した長谷川が「昨日のことか」と言った 「はい。あの子…アイナさんは、結局店に行ったんですか?」 氷を削る長谷川の手が一瞬だけピクリと止まったが、すぐにまた作業に戻った 「昨日同伴がなかったナンバー2と3に迎えに来させたら機嫌直して店に行ったよ。10万のボトル入れてった。半額だから強気だったな」 淡々と話しながらも辛そうなその表情に、ミナミは長谷川を誤解していたかもしれないと思った 「…長谷川さんとリンって、親戚だったんですね」 「血は繋がってないけどな」 「確認しておきたいんですが、リンが系列のホストクラブのオーナーってことはプッシールームのオーナーって…」 「リンだな」 ミナミは血の気が引く思いがした リンがオーナーだからといって態度を変えるつもりはないが、過去のやり取りを色々思い出すと恥ずかしくなる 思い出しては百面相しているミナミに、長谷川は、 「聞きたいことはそれだけ?今日は人手足りてるから、お前は帰って休めよ」 とつっけんどんに言った 長谷川からしてみても、秘密にしていたことがバレてしまったのだからそういう態度をとりたくもなる しかしミナミには本当に聞きたいことが別にあった 今までの質問は前提条件の確認にすぎない 「もしかして、俺をここで雇ってくれたのってリンに言われたからですか?」 長谷川がやっと顔を上げた ひどく驚いてるようだった 「普通そんな風に考えるか?ずいぶんリンのことをかいかぶってるんだな」 そう言うと、長谷川はニヒルに笑い、 「それは断じてないな。こっちだって慈善事業じゃないんだ。お前はここに来たとき荒れてはいたけど顔もいいし、プッシールームでプレイヤーさせておくのは惜しいと思ったんだよ。ちょうどカフェを任せられそうな人間育てようと思ってたし」 「それなら、最初から使えそうなヤツでよかったじゃないですか。長谷川さんなら顔広いんだし、探せばいくらでもいるんじゃないんですか?」 「そうだなあ。さっきも言ったけど、やっぱり顔かな。俺の作りたいカフェのイメージにぴったりなんだよ、お前」 納得しきれないものがあったが、ミナミはここで引き下がろうと思った 自分の将来の道筋は立ててしまったし、いまさらこんなことで反古にはできない ミナミが店を出ようと足を半歩後ろに下げたとき、長谷川が口を開いた 「でも、本当は後悔してる。俺はお前を放っておくべきだったんだ」 「え」 長谷川がミナミを見た 真っ黒な深い瞳が、ミナミの瞳を射抜いた 「血は繋がってなくても俺とリンは似てるんだよ。だからよくわかる」 長谷川は熱に浮かされた時のうわ言のように呟いた ミナミが「何の話ですか」と言うと、長谷川の目が意識を取り戻したかのようにかすかに動いたかと思うと、そこからは無言で氷を削る作業に戻ってしまった 翌日もリンはきちんと時間通りにバーに迎えに来た ミナミから話すことは何もなかった リンも無言で後ろを歩いている そろそろ潮時だと思った ストーカーまがいのことをした例の客は、あれからバーにもプッシールームにも来ていない 日が伸びたおかげで明るいうちに移動できるようになったし、あとひと月ほどでプッシールームを辞めることになっている 「リン、明日から迎えに来なくていいから」 二人の間は約3メートル 届くか、届かないかくらいの声 リンには届いただろうか ミナミがドキドキしながら待っていると、後ろから走るでも歩くでもない足音が近づいてきた その足音が真後ろで止まった そして、ミナミの手をギュッと握った 「何だよ…」 リンは目を合わそうとはしなかった 手を握るだけで指先ひとつ動かさない これは…あれだ …何だ? ミナミは混乱した 混乱して、一番やってはいけないことをした 手を振り払って、振り返りもせずに逃げ出した ※※※※※※※※※※※※※ それからミナミが辞める日まで、リンとシフトが被ることはなかった 最後から二人目の客が帰った後、【マンチカン】のアヤメがミナミを送別会に誘ってくれた 深夜だから来れる人は限られているはずだが、半数以上のプレイヤーやスタッフが来てくれるという ミナミはリンのことが気にかかって、「リンは?」とアヤメに聞いた 「リン君には聞いてません」 アヤメはさも当然とでも言うように答えた それもそのはずで、リンは定例会にも個人的な飲み会にも、一度も来たことがなかった 「だよね~」 ミナミは、リンとの個人的な関係をアヤメに悟られないよう、努めて明るく返した

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