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3 運命の番
女性社員たちがはしゃぐ声が響く。
「なんだ?」と安西と目を合わせてから声が聞こえてくる方を振り返ると、例のお局様席が何やら盛り上がっているじゃないか。ああ、華やかだなあ。
「えーっ! 高井くん、彼女いないの!?」
「あ、はい。残念ながら」
照れたように頭を掻いている高井の後ろ姿が見えた。左右だけでなく前も斜め前も女性社員に固められていて、他の男性社員はとてもじゃないけど割り込める雰囲気じゃない。
と、困ったように俺の方を見た高井と目が合った。どう考えても目が「助けて」って言ってるけど、いや、俺にはハードルが高すぎるから。
小さく頷きながら拳をグッと突き出してみせると、高井はがっくりと肩を落として女性社員たちに向き直った。頑張れ、高井。俺は心の中で高井にエールを送ってやった。俺にはお前は助け出せない。無理。絶対無理。
女性社員たちの質問攻めは続く。
「もしかしてあれ? 運命の番 に出会う為に彼女は作らないで待ってるとか!」
「あ、いや、ええと、そういう理由じゃ、」
高井の後ろ姿が心底困っているのは分かるけど、唯一男性陣の中でズカズカとあの中に入っていけそうな安西は現在この有様だ。俺の肩を組んだまま一向に離してくれない。人恋しすぎて、もう誰でもいいから人肌を感じていたいのかもしれない。……強く生きるんだぞ、高井も安西も。
女性陣がキャッキャと盛り上がる。
「運命の番なんて、本当ロマンチックよねー! いいなあ、高井くんみたいなイケメンと出会った瞬間恋に落ちちゃうオメガになりたかった!」
「あんた若いわねえ。私はもう枯れちゃってるから壁になって見てたいわあ」
「やだあ、でも分かるー!」
キャハハ、と楽しそうな笑いが湧き起こった。壁……俺には分からない世界だ。でもあの人たちは分かるのか、そうか。
「ちなみに高井くんは男オメガもいける派?」
と、腐女子を豪語している三十路後半の女性社員が、身を乗り出して尋ねる。ちなみに彼女は、俺と安西が二人でじゃれているとよくこちらをじっと見ていることがあった。目が合うと意味深に頷くんだよ。それってどういう意味? 深く考えたくない。
「え……っ、男、ですか……?」
明らかに戸惑った高井の声が聞こえてきた。そりゃそうだろう。いくら相手がオメガという受け入れ側の性だとしても、男は男だからなあ。
「……あれって完全にセクハラだよなあ」
遠い目をした安西がぽつりと呟く。
「まあな……でも俺はそれを彼女たちに言える勇気は持ち合わせていない」
「俺は気力がもうない」
「……飲もうか、安西」
「うん、ありがと」
涙目の安西の空になったグラスにかなりぬるくなったビールを注ぐと、ほぼ泡の一杯ができあがった。自分のも手酌で注いでいると、安西が遠い目のまま独り言のように続ける。
「……男オメガってさ、ケツの穴で抱かれるんだろ?」
「……詳しくは知らないけど、そうなんじゃない?」
オメガに別の穴があるとは聞いたことはない。保健体育の授業で聞いた覚えがないので、多分男オメガの穴はひとつだと思う。
「……ケツの穴ってさ、気持ちいいのかな……?」
安西は一体何を言い始めたのか。どう答えたらいいか分からなくて、俺は黙ったままグラスを口に運んだ。
「俺、女の気持ちをちっとも分かってないって、お前に今回指摘されて凄く反省した」
「あ、ああ」
おい、どうした安西よ。そんなにキツイひと言だったかな? だとしたら申し訳ない。俺に傷つける意図はなかったんだ。
「……ケツの穴に男から突っ込まれたら、女の気持ちが分かるかな」
安西が何かをのたまい始めた。ぎょっとして俺の肩に顎を乗せている安西を振り返る。
「ちょっと待て、話が飛躍し過ぎだ。そもそもオメガと俺たちベータじゃ、前提条件が違うぞ。冷静になるんだ、安西」
「……あー、俺にもオメガみたいなヒートがあったら、きっと女の気持ちが分かった筈なのに……!」
多分ケツに突っ込まれても女の気持ちは分からないと思うけど、安西はすっかりその考えに呑まれてしまったみたいだ。
「ああ、俺もヒートがほしい……!」
マジで何と答えていいか分からなくなって、俺は無言のまま、更にもう一杯ビールを口に含んだ。
ちなみにオメガのヒートとは、大体三ヶ月に一度オメガに訪れる発情期のことを指す。
一週間ほど続くヒート期間中はフェロモンを大量に発し、アルファを誘う。ヒート期間中にアルファにうなじを噛まれたオメガは、噛んだアルファだけのオメガになる。噛み跡は消えることなく残って、他のアルファのフェロモンは殆ど感じられなくなり、番以外と交わると身体が拒絶反応を起こすようになるんだとか。
それって相手がDVアルファとかで逃げたとしても、一生他の人とは番えないってことじゃないか。なんだかなあって思うのも仕方ないと思う。
ちなみに意図せず番になってしまうことを、一般的に『ヒート事故』と呼んでいた。突然ヒートを起こしてしまい、たまたまその場にいたアルファに襲われて番ってしまった、というニュースも稀にだけど聞く。
その為、番のいないオメガは首に噛みつき防止のチョーカーを付けて危険に備えていた。チョーカーの意味を知った時は「オメガって生き辛そう」って思ったよ。俺はベータでよかったと、今でも心から思っている。
ちなみにアルファは基本的には番ひとりを大切にする――というか執着とか束縛が凄いことになるらしいけど、だからと言ってオメガのようにひとりに縛られることはない。複数の番を持つことが物理的に可能なんだ。
なんせ頭脳明晰で行動力も体力もあるから、基本金持ちが多い。すると本妻以外にも何人も番を囲って――なんて、世のベータ男性から恨まれること間違いなしなことをする輩も中にはいた。
この国はいつから一夫多妻制になったんだ? と不思議に思ってるけど、それだけアルファ男性っていうのは魅力的に見えるんだろう。高井を見ていれば、俺にだって分かる。そこだけ輝いてるように見えるもんな。
尚、アルファの中での男女比は圧倒的に男の方が多いけど、女性アルファもいるにはいる。その場合、番には男性オメガがなる、と一般的に言われていた。実情は知らない。俺はしがないベータだし。
で、女性社員たちが話していた『運命の番 』。実際に存在するかは知らないけど、フェロモンの相性が最高にいい相手、すなわち『運命の番 』と出くわすと、オメガはヒートを起こしてアルファをラット、つまり強制的に発情状態にさせるそうだ。それから本能の赴くまま求め合うんだとか。
そんな獣みたいな状態が本当に幸せなのか? と平凡な俺は思わずにはいられない。だって、相手の素性も知らないまま番になるって、かなりリスクの高い賭けじゃないか? だけど世のベータ女性は、運命の番を題材にした漫画や小説、ドラマにドハマリしているから、少なくともロマンチックではあるらしい。
俺にはその感覚がよく分からないよ。だって他に恋人がいた場合、要はそれって寝取られじゃないか。世の中の貞操観念、大丈夫なのか?
ぼんやりとそんなことを考えていると、安西が囁いてきた。
「なあ……こんなこと、ほまちゃんにしか頼めない。お前さ、試しに俺のケツの穴に突っ込んでみてくれない?」
「は?」
ぎょっとして身体を引こうとしたけど、酔っ払った安西の腕の力は強かった。ガバッと抱きつかれてしまい、身動きが取れない状態になる。
安西は瞳を潤ませたまま、続けた。
「俺、チカの気持ちになりたいんだ! 頼む、ほまちゃん! 俺ほまちゃんならなんか許せる気がするからッ!」
「ちょっと待て、俺は許せないっていうか無理、絶対勃たない自信しかないし」
「俺が勃たせてやるから!」
それでも安西は引かない。うわあ、この酔っぱらいどうしよう。
俺は困り果てて、考えて考えて――これまで安西にも言ってなかった事実を伝えることにした。
「安西、俺実は……童貞なんだ。だから男の尻で童貞は捨てたくない」
「――は?」
大きく目を見開いた安西に、俺は渋々これまでの恋愛遍歴を説明していくことになったのだった。
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