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26 人事異動

 出社してすぐ、異変は起きた。  俺と朝陽を、第三営業部の部長が突然呼んだのだ。 「高井、ちょっといいか。ああ、安田も一緒に来てくれ」 「はい」  何だろう、と朝陽と顔を見合わせながら立ち上がる。執務エリア内にあるガラス張りの小会議室に入ると、部長が不機嫌そうな様子を隠しもしないで始めた。 「――急な話だが、高井の異動が決まった」 「えっ」  朝陽は、言葉を失い固まる。 何も言えなくなってしまった朝陽の代わりに、部長に尋ねた。 「ちょっと待って下さい。唐突過ぎます! 一体どういうことですか? まだOJTだって途中なんですよ?」  俺の言葉に、部長はハア、と大仰に溜息を吐く。その様子から、部長自身も決してこの人事を望んでいる訳ではないのは感じ取れた。その事実が、荒ぶりかけていた気持ちを少しだけ落ち着かせてくれる。  部長が不機嫌そうな表情のまま、続けた。 「俺だって、折角手塩にかけて育てた高井を簡単に渡したくなかったよ」  貴方は育てましたっけ? という疑問はさておき、これからさあひとり立ちして活躍しよう、といったタイミングで他所に取られるのはあまりにもあんまりだ。  驚きで固まっていた朝陽が、ようやく衝撃から立ち直ったのか、固い声で尋ねる。 「あの……異動ってどこにですか? なんでそんな話が急に?」 「そうですよ部長。異動の時期でもないし、第一高井は希望も出してない上に了承もしていない。なのに何故決定事項なんですか? いくらなんでも横暴すぎるかと」  普段は波風立てずに過ごすことをモットーにしている俺だけど、今回ばかりは言わずにはいられなかった。だって、異動だなんて――。  部長が苦々しげな表情で頷く。 「高井のOJTをしていた安田が反対する気持ちはよく分かる。俺も、それは伝えた。いくらなんでも心情的に許容できないだろうと」 「なら、」 「俺だってな、よりによって第一になんか取られたくなかったんだ!」  突然、部長が声を荒げた。 「え……第一って、第一営業部ですか? だってあそこにはすでに瀧が」  不可解そうな顔の朝陽が、部長に尋ねる。それには俺も同意見だった。いくら第一営業部が花形部署だからといって、上にだって殆どいないアルファを二人も所属させたら、周りが許さないだろうに。 「勿論、俺もその点を突いて反対した。アルファを二人も独占したら、他部署から批判が殺到するぞと。だが人事は、『上から直接の命令だから拒否権はない』の一点張りでな」 「上って……」 「上は上だとさ。人事部長の奴、やけに頑なでな。俺と第一のが同時に呼ばれて話をされたんだが、とにかく上が決めたことだから明日から高井を第一に異動は決定だと繰り返すだけだった」 「そんな」 「俺も訳が分からない」  ふうー、と悔しそうな息を吐きながら、部長が首を横に振った。  この第三営業部部長は、いわゆる叩き上げの人だ。片や、第一営業部部長はヘッドハンティングされて中途採用された人で、所謂ハイキャリアな街道を進んできている真逆のタイプ。そんな二人の仲は、非常に悪かった。効率と政治の第一、努力と信頼の第三とも言われている。  ちなみに第二営業部はのんびりとした雰囲気の部署で、顧客は古参のところばかりだ。つまり、バチバチやっているのは第一と第三だけだった。 「それでも『このままじゃ高井にも説明できない』と食い下がると、少しだけ情報が出てきてな。理由はどうもはっきりしないんだが、例の特別枠絡みらしい」  俺と朝陽は顔を見合わせ、首を傾げる。特別枠と聞いて、一瞬ピンとこなかった。特別枠?  と、朝陽が枯れた声で言った。 「先週から第一に入ったオメガ男性のことですか。それが僕の異動と何の関係があるんです」  あ、それか、と思い至る。だけど朝陽の言う通りだ。なんでいち社員が別部署の朝陽の人事異動に関わるんだ。訳が分からない。  部長は、どこか諦めたような遠い目になると少し弱めの声で答えた。 「勿論俺も聞いたがな、詳しいことは分からないと返ってきた。第一に高井を渡す代わりに、瀧をこちらに異動させると言ってきた。それで批判の声は抑えられるだろうと」 「そんな! そりゃ上にとっては同じアルファ同士で数としてしか見てないのかもしれませんけど、こんなに頑張ってきた高井を『はいどうぞ』なんて渡せませんよ!」  俺の反論に、部長は。 「……これは決定事項なんだ。第一のも反対してくれたらまだひっくり返すこともできたかもしれなかったんだが、あいつはまさかの賛成をしやがってな……。育てた部下をあっさり切り離す相手に、もう何も反論できなかった。すまない、二人とも」  日頃は偉ぶっているどちらかというとワンマンに近い性格の部長が、俺たちに頭を下げる。部長がここまでするということは、本当に相当粘ってくれたんだと思う。それでもどうしても覆らなくて、悔しいのは部長も一緒なんだろうけど――。  何か言いたいのに何も言い返せなくて、口が少し開いたままになった。どうしようという焦燥感と、朝陽と離れてしまうんだという絶望感に襲われながら、横の朝陽に目を向ける。 「誉さん……僕……」  泣きそうな目になっている朝陽にも、俺は何も言ってやることができなかった。 ◇  その日は、慌ただしく一日が過ぎていった。  暗い表情の朝陽に何と声を掛けたらいいか分からないけど、かといってやりかけの業務は引き継がないといけない。お互いに半ば麻痺したような状態で、淡々と引き継ぎをしていった。  定時の時間が近付き、朝陽が「誉さん」と声を掛けてくる。  捨てられた犬のような目をしている朝陽が、尋ねてきた。 「誉さん、今日の夜、一緒にご飯食べませんか?」  弱々しい声に、俺は一も二もなく頷く。 「うん、俺も言おうと思ってたところだよ。そうしよう」  と、朝陽がホッとしたような顔になった。 「誉さん、僕、まだ混乱していて……信じられない状態なんですけど」 「うん、それは俺もだ」 「だけど、僕と誉さんの関係は変わらないですよね……?」  縋り付くような瞳をした朝陽を見て、今すぐ朝陽を抱き締めたくなる。こくこくと頷き、朝陽の膝に手を置いた。 「当たり前だ。部署異動はいつかは起こり得ることだし、いきなりすぎて驚いたけど、俺もお前との関係を変えるつもりはないよ」 「誉さん……!」 「だからさ、そう不安そうな顔をするなよ! 大丈夫、朝陽はもう十分ひとり立ちできるくらいだし、自信持てよ。な?」 「……はいっ」  ここでようやく、朝陽の顔に笑みが浮かぶ。そうだ、人事異動なんてよくある話だ。転勤になる訳でもないし、会社で一緒にいる時間は減るとしても、俺と朝陽は恋人同士。これからだって、沢山会える。  朝陽が笑いかける。 「誉さん、今夜はそうしたら何が食べたいですか?」 「ん? いっつも俺に合わせて和食ばっかりだろ? だったらたまには洋食でも――」  するとその時、少し高めの涼やかな声が、高井の名を呼んだ。 「あっ、高井さーん!」 「え?」 「ん?」  部署の入り口から笑顔で駆け寄ってくる、ひとりの男性。  特別枠のオメガ男性じゃないか。  朝陽がビクッとして、無意識なのか、俺の膝を掴む。 「お誘いにきたんです! 今日この後、瀧さんの送別会をやることになって。そうしたら、高井さんの歓迎会も一緒にやろうって部長が!」 「は?」  オメガの男性は、中性的で美人としか言えない顔を綻ばせながら、朝陽の肩に手を触れた。いきなりの距離感に、朝陽が固まっているのが伝わってくる。 「いや、すみませんが、僕は今日先約が――」 「えーっ、高井さんを絶対連れてきますって言っちゃった! お願い高井さん! その先約って絶対なんです? 延期できません?」  ぐいぐい来るな、と圧倒されていると、朝陽の俺に向ける視線に気付いたオメガが、俺をチラ見して片方の口の端を上げた。 「――あ、OJTの人に掴まっちゃってました? すみませーんOJTの人、高井さんと今日約束してたのなら、譲ってもらえません?」 「ちょっと、僕は行くなんてひと言も、」 「最初が肝心って言うじゃないですかー! 第一印象が悪いと馴染むのに苦労しますよ! ね、OJTの人!」  花が咲いたような笑顔を俺に向けるオメガ。だけど俺には、それが毒花にしか思えなかった。  だけど、彼の言葉は正しくもある。  特に、朝陽はアルファだ。第三営業部に馴染むまで、色々と嫌味も言われたと朝陽が暴露している。  それと同じ轍を踏ませたくはなかった。だから、じわりと押し寄せる不快感を抑え込みながら、何でもない風を装う。 「朝……高井、俺とはまた今度でいいよ。その人の言う通り、最初が肝心だぞ」 「誉さんっ?」 「な?」  朝陽の目を見ながら笑いかけると。 「……分かりました」  先ほどまで輝いていた朝陽の目が暗くなり――渋々頷いたのだった。

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