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29 瀧

 元第一営業部の新人アルファ瀧の席は、俺の隣だった。  そりゃそうだ。考えてみたら、空いていてすぐに使える席が割り当てられるのは当然のことじゃないか。だけど俺は漠然と朝陽がいた場所がそのまま空席になるイメージを持っていたので、朝陽以外が着席していることに自分でも驚くくらい動揺してしまった。  ギョッとした表情は隠せただろうか。瀧は俺がデスクの上に鞄を置いたのを見ると、微妙な笑顔で挨拶してきた。 「安田さん、よろしくっす」 「お、おう、よろしく」  この前会話した時は明るくて調子のいいチャラめの青年な印象だった瀧だけど、今日はどことなく雰囲気が暗い。「っす」の末尾にも、力が足りないような。  と、部長が「安田、瀧! ちょっとこっち」と俺と瀧を呼んだ。昨日と違って、今日は会議室ではなく部長の席の前に並んで立つ。 「部長、おはようございます」 「ああ、朝から悪いな。早速なんだが、今日から安田が瀧の面倒を見てくれないか?」 「やった! 唯一の知り合いの安田さんでよかったっす!」  部長の言葉に、何故か瀧が喜ぶ。知り合いっていうか、ひと言ふた言話しただけだぞ? お前の知り合いの範囲、広いな? 「ええ、俺ですか……?」  思わず小さな驚きの声を上げると、部長がデスクの上に前屈みになり声を潜めた。 「高井の面倒を見てあれだけ懐かれたお前だから頼んでるんだよ。覚えてるだろ? ここの奴らのアルファに対する最初の態度は」 「あー、はい、まあ」 「え、態度ってなんすか?」  不安そうに俺の顔を覗き込んでくる瀧。二人して俺に注目しないでくれ。  面倒だけど、できるだけ小声になると、瀧に教えることにした。 「まあ簡単に言うと、アルファに対する妬みだよ」 「あー。高井は特にいかにもなアルファっすもんねえ」 「瀧もアルファだろ」 「俺、アルファのプライドとかないっすもん」  それはそれでどうなんだと思ったけど、この場で言及するのは控えた。  部長が満足げに頷く。 「まあ、そういうことだ。高井が抜けた穴に入ってもらえばいい。四月からはまた担当替えの可能性もあるから、とりあえずは三月一杯まで頼むぞ」 「……分かりました」  俺が人よりも仕事を抱えがちなのは事実だ。これまで朝陽と手分けしていた作業も、正直ひとりでカバーするには多過ぎる。アルファである瀧にサポートしてもらえるのなら、願ったり叶ったりではあった。 「じゃあ、ざっと説明からするから」 「はーい」  席に戻ると、座った瀧が椅子を蹴って俺の横に滑ってくる。俺のデスクに組んだ腕を乗せると、ニカッと笑った。緩いなあ。 「ここで聞く感じでいいっすか?」  朝陽はいつも大体シャキッとしていたので、瀧の緩さにはどうも慣れない。どう反応していいか戸惑う。 「お、おう」  姿勢を正しながらモニターに向き直ると、瀧の鼻がスン、と鳴った。 「今日も濃いっすね。うらやま」 「えっ?」  ギョッとして瀧を見ると、瀧はケラケラと笑い始める。 「高井の匂いのことっす」 「朝……あ、いや、高井の? 悪い、どういう……」 「あ、説明聞いてないっすか?」  意外そうに訊く瀧のタレ目な甘めの顔を見ている内に、ハッと思い出した。そうだ! 週末に匂いの件について教えると言われていたのに、結局二日間ずっと抱き潰されてしまって聞いてないじゃないか!  瀧が、どこか寂しそうな目で宙を見つめる。 「それだけ濃いなら、高井は大丈夫かなあ」 「は? どういう意味だ?」 「いや、ゆづくん……ええと、第一の福山結弦(ゆづる)さん、多分ていうか絶対高井狙いだから」 「え? 福山結弦って誰のこと?」  すると、瀧が生ぬるい目線を寄越してきた。チャラくて緩そうな瀧にそういう目をされると、ちょっと腹が立ってくる。 「なんだよ、その目は」 「いや……あれだけ騒がれて他所の部署の社員が入れ代わり立ち代わり見に来てたっていうのに、どんだけ高井に夢中になってんのかなって。だって安田さん、高井以外は興味ゼロってことっすよね? あ、それか高井が阻止してた可能性もあるか。あいつ安田さんへの執着物凄――もご」 「ばっ、」  大慌てで瀧の口を手のひらで押さえた。滅茶苦茶小声で、できるだけ鋭く言う。 「馬鹿、そういうことを職場で言うな!」 「もご」  瀧がこくこくと頷いたので、本当に大丈夫か? と疑いながらも手を離した。  瀧がにやりと笑う。 「安田さん、おもしろ」 「お前なあ……」  こめかみをピクピクさせながら低い声を出したけど、瀧に効果はなかったらしい。相変わらずにやけたまま、続ける。 「とにかく、今言った福山結弦ってのが副社長の愛息子のオメガっすよ」 「ああ、あれか」  福山は副社長と同じ苗字だから分かる。下の名前が結弦で瀧にゆづくんと呼ばれていたことは知らないし正直興味もないけどな。  俺の薄い反応に、瀧が感心したように感想を述べた。 「本当に興味ないんすね。ここまで来るとなんか凄いっす」 「うーん? 興味ないというか、最初から感じが悪かったから敬遠するっていうか……あ、しまった」  あまりにも瀧のノリが軽すぎて、ついポロリと本音が漏れてしまった。朝陽にも伝えていなかったことなのに。ただ、朝陽はオメガの気配を感じただけで警戒する素振りを見せていた。だからあえて話題を振りたくなかった、という事情はある。  瀧が顔を顰める。 「最初から感じが悪かったってどういうことっすか」  言ってしまったことは仕方ない。俺は瀧に顔を近付けて更に声を潜めると、説明することにした。 「最初は最初だよ。朝陽……あっ、高井といる時にお前と一緒にいた時、覚えてるか?」 「もういちいち高井って言い直さなくっていいっすよ。俺は知ってるし」 「ぐ……。とにかく、ランチに出ようとしたら第一の前に人だかりができてた時! お前ら、こっちに声掛けようとしてなかったか?」 「ランチ? あー、俺が高井を指して『あれもうひとりのアルファっす』って教えた時かな?」  そういうやり取りがあったのか。 「多分その時だと思うけど、朝陽に抱えられて非常階段から下りることになったんだけど、どうも馬鹿にされたような笑い方をされてさ」 「……へえ」 「昨日飲み会に朝陽を誘ってきた時も、俺と先約があったのをかなり強引にキャンセルさせられたし、全体的にちょっと」  日頃の俺だったら、借りにも副社長の息子だ。こんな誰が聞いているか分からない場所で言っていい内容じゃないとは思ったけど、これまで誰にも言えなかったモヤモヤを一旦口にしたら、止められなかった。  瀧が、遠い目になる。 「それね……飲み会でも言ってたっすよ。『OJTの人しつこそうだったけど譲ってもらっちゃった』って」 「あ?」  思わずカチンときて瀧をギロリと睨むと、瀧が情けなく眉毛を垂らした。そういう顔をすると、本当に優男って印象になるなこいつ。 「俺にキレないで下さいよ。心配しなくても、高井は自分が誘った方だってちゃんと言ってたっすよ」 「そうかもしれないけど……」  なんなんだ、あのオメガは。話を聞いて、ますます嫌になってきた。  すると、瀧が俺の顔色を窺うような目で見る。 「でも……すみません、多分今回の俺と高井の人事異動、俺が原因っす」 「――ああ?」  今度こそ凄みのある声で問い返すと、瀧が物凄く言いにくそうに、小声で説明を始めたのだった。

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