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十六夜 p1

 悟さんに毎晩のように強姦されていた女郎のころ、暇つぶしによく空を眺めた。  テレビを見る気分にはなれなかったし、好きだった本や漫画もそれまで住んでいた家に置いてきてしまったから、他にしたいことがなかったせいもある。  両親の殺人事件で気が動転していたぼくは、とりあえずの勉強道具と当座の着替えを悟さんの部屋に持ってくるだけで精一杯だったのだ。そして殺人事件のあったあの家はいまでも買い手がつかず、空き家のままだという。  濃紺のベールにぽっかりと穴が開いたような満月は、向こうの世界の光を垣間見せてくれる。それはほのかに気分を明るくさせる。  けれど十六夜(いざよい)の月は、なんだかもの悲しい。  まんまる十五夜お月さま。  それが欠け始める一日目の夜。  なにも見えなくなる新月に向かってまっしぐら、を歩み始める夜。  「いざよい」にはためらうという意味もあるらしい。 (タカハシも、そうなっちゃったのかしらん)  なにかに端をさっくりと切り取られてしまったような十六夜の月を眺めながら、そんなことを思った。  濃厚にぼくを抱いてくれたあの初夜を蜜月として、それを境に彼の愛情は早くも欠け始め、ぼくを抱くことをためらうようになっちゃったのか。  そうだ。  あの夜はきっちり抱いてもらった。  退院した当日の夜。  約束どおりに彼は、里子として彼の家にやってきたぼくをこれでもかというほど愛してくれた。  快感で足ががくがくになってしまうほど、腰がずくずくになって使いものにならなくなるほど、気持ちよくしてくれて、もう彼がいなくては生きてる価値なんてないと思えるくらいに強く激しく抱いてくれた。  なのに。なぜよ。  だって信じられる?  めでたく王子様に見初められてお城にいったシンデレラが、初夜に一回きり抱いてもらっただけで、あとは口づけも交わしてもらえない。愛撫もされない。そんなことを世界の誰が想像しただろう? グリムはそれを見てどう思うだろう?   確かに同じベッドで寝てはくれる。  壊れ物を扱うみたいにそうっと後ろから抱いて「愛してる」と甘く囁いてくれ、優しく髪を撫でて、きゅっと指を絡ませてくれはする。  でも、そこまで。  いくら誘っても靡いてくれない。どんなにエロいことを仕掛けてもひっかかってくれない。  ならばあのタカハシの旦那は一体どこで精を吐き出しているのだろう。と、考え始めたところで、ぼくの胸はむしょうにかき乱される。  彼のことだ。別にぼく一人くらい相手にせずともお相手は掃いて捨てるほどいるのだもの。なんたって、ついこの間まではモテまくりの遊び人だったのだから。  ああ。  嫌だな。こういう気持ち。  黒々とした嫉妬に胸が重くなる。愚かしいことと分かっていながら、ぼくは彼に抱かれてきた子たちにまだやきもちを焼いているのだ。  たまらなくなって、体育座りの膝をぎゅっと抱えた。 「なにしているんだ?」  タカハシの部屋の窓辺に座り込んでぼんやりと夜空を眺めていたぼくに、シャワーから戻ってきた彼が声をかけた。 「月を見てるんだよ」 「月?」  怪訝そうに近寄って窓枠に手をつくと、外を覗きあげる。彼の足がぼくのすぐそばに来たから、いっそこのジャージを無理やり引きずりおろしてイチモツを出し、遮二無二咥えてやろうか、などという過激な考えが浮かんだ。まあ、それをしちゃったらかなりヒかれるだろうから思いとどまったけれども。 「満月なんだな」 「ううん。満月は昨日だったよ」  もっともこれじゃ毎晩月ばかり見ている呆けたやつに思われなくもない。 「そろそろ寝る?」  彼が訊いてくる。いつもどおりの会話。だから今夜もいつもどおり、きっと「何もなし」の夜になるのだ。諦めきれないこっちは、いつだって受け入れられるように心と体の準備をしているというのに。いくら我慢強いシンデレラだって、いい加減、悲しくて泣きたくなるよ。  一緒にベッドに入り仰向けになると、そっと頬にキスを受ける。それがまた優しいから、たまらなく切なくなる。 「今夜もしてくれないわけ?」  恨み口調になった。これもまた訊いたところで色よい返事など返ってこないのは分かりきっているのだけど、やっぱり口を突いて出てしまう。  タカハシはぼくの方に体を向けて横になり、立て肘で頭を支え、ぼくの顔を斜め上から見おろしてくる。  人差し指と中指の指先でぼくの耳朶を挟んで、撫でたり引っ張ったり、ぷるぷると指先で弄んだりし始める。時たま耳に軽く差しこんで、コショコショやる。  これだって一歩間違えれば気持ちよくて喘ぎそうな刺激なんだけど、それを寸止めでやってくれちゃうからぼくは声一つあげられない。かわりに頭がぼうっとしてきて、なんだかむしょうに誤魔化されている気分になる。  「なんで、してくれないんだよ」  これもまた答えは分かっていた。彼はそれしか答えてくれていない。 「佳樹の心が、もう少し癒えてから」  なんなんだ、それ。  ぼくの心がどう癒えていないというの。  これは当然、悟さんからの強姦による跡のことを指しているのだろう。それだったらなおのこと、たくさん抱いてくれたほうが癒されるというものだ。  でもそもそも、ぼくは自分の心がまだ癒えていないなどとは露ほども考えていなかった。このこともだいぶ伝えたけれど、「お前はまだ自分のことがよく分かっていない」などという不本意な言葉でかわされてしまってぼくはずいぶんショックを受けた。まるでそっちはよく分かっているみたいな言い方じゃないか、と。  タカハシは枕に頭を沈めると、ぼくの腰に腕をまわして目を閉じる。まもなく健やかで静かな寝息が聞こえてきた。  まったく納得いかない。  これじゃぬいぐるみとかわらないじゃないの。  ダッチワイフを卒業できたと思ったら次はぬいぐるみだなんて、冗談じゃないよ。どうなっちゃってんの、タカハシは。

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