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十六夜 p2
もっともそれ以外の生活は順調だった。
台所や洗面所、風呂場、廊下掃除はおばあさんに好評だし、料理の手伝いも慣れるごとに愉しくなってくる。
この週末にはフレンチのレシピ本を買ってきて自分一人で料理してみた。
フランスパンに蟹とクリームソースを使ったディップ、付け合せの野菜のピクルス、メインに白身魚を使ったテリーヌを半日がかりで作ったら、とても二人に喜ばれて嬉しかった。そういえばお母さんはよくフレンチを作ってくれたっけ。だからぼくも作ってみようなどと思いついたのかもしれない。
いまの生活で問題があるとすれば、とうとう不登校になってしまって引きこもりをしていることだろう。それだってもう少し生活が落ち着いたら、バイトでも始めてみようかと前向きに考えているくらいだ。
だからタカハシの言っているような、ぼくの心がまだ癒えていないなんて台詞は、ただの言いがかりにしか聞こえない。彼の本来の気持ちは別にあるんじゃないかと。
「ええっ? それじゃあ一ヶ月以上もヤってないわけ?」
ちょ。
声が大きい。
いくらなんでもここではまずいでしょと、焦ってあたりを見回しつつ、それでもいまは余裕のない寂しい心を抱えている身だから、ぼくは正直に頷いた。
「さっそく嫌われちゃったのかなって。不安になっちゃって」
声を潜めて答えた。おいおいおい、と自分でも呆れる。
なにもこの人に、こんなことまで打ち明けなくてもいいだろう、と。
でも逆にこんなことだから他に話せる相手がいないのだ。連日連夜の寂しさに我をなくして口のほうが勝手に使命感を得たみたいに、タカハシとのことを話し出していた。
「でもさー、佳樹君のことが大好きって感じだったけどねぇ、彼」
親身な感じで慰めてくれる。
ぼくもそう思っていた。だから信じたのに。
けれどこんな話をしにここへ来たわけじゃなかった。
そもそも来院した理由は、脊椎神経保護のためにプラスチックを背中にはめ込んだ手術の術後観察のためだった。その外来の後で、入院中にお世話になった病棟のナースステーションに挨拶に来てみたら、そこでとっ掴まったのだ。このピンクの看護婦に。
ぼくの顔を見つけるなり、病棟入り口の外側までぐいぐいと腕を引いて、
「あなたたちのことすごく気になってたの~。その後、彼氏とはどう?」
なんて相変わらず嵐のような勢いであれこれ訊ねられているうちに、いつのまにかかなりディープなところまで披瀝してしまっていたのだ。
面会時間外の病棟前の廊下は人通りは少ないものの、広いからワンワンと声が響く。さっきの「ヤってないわけ?」だって絶対に一人か二人、職員だか入院患者だかの耳に届いちゃったと思う。
「それはつらいねぇ。誰か相談できる人とかいるの?」
「福祉の人は、なんでも相談にのるからなんて前に言ってくれたけど。でも、こういうことはさすがに言いにくくて。タカハシとぼくが付き合っていることは、あの人たちも一応、知っているんですけど」
「へえー、知ってるんだ」
特に塚原さんには絶対に相談できない。
彼は予言していたのだもの。タカハシの家にぼくが里子に行くことについて、「恋愛がうまくいっているうちはいいけど、そうでなくなったときが心配だ」って。たかだか一ヶ月でその通りの状態になってしまったなんて、さすがに情けなくて知られたくなかった。
「まあ。ぼくの場合、保護になった理由も理由だから」
「なるほどー」
そう唸って腕を組み、首をひねる。かなり真剣に考えてくれているらしい。ところでこの人は勤務中にこんなところで油を売っていて大丈夫なのだろうか。ペエペエの看護婦だと自分で言っていたけど。当人よりもぼくのほうが心配になってくる。
「あの、ぼく、そろそろ帰ります」
こんな話にあまり時間を取らせては悪い。
「ああ! ちょっと待ってよ。いいこと思いついたんだけど。こういうことはさ、やっぱり専門家に聞くのが一番だと思うのよ。あたし、知り合いに一人いるんだけど、彼女に相談してみたら?」
専門家。
だがこれ以上こんな事情を誰かに知られるのは恥ずかしい。
「いや、でも」
「いいからー。きっと喜んで相談にのってくれるわよ? 経験豊富ですごく詳しい人だし、根の優しい人だから。火曜日の夜、空いてる? あたし、夜勤明けで丸々二日空くから、連れて行ってあげる」
まったくもって思いがけない誘いだった。
それにしてもなんの経験が豊富でなんの専門家なのか。
けれど、いまのところ不登校を決め込んで文字通りぶらぶらしているぼくは、内心そういう思いきった外出自体にも興味をそそられた。
「じゃあ」
戸惑いつつ頷いた。
ピンクの看護婦の情熱がブーメラン的に自分に返ってきたのか。この問題解決に少しでも役立つというのなら聞きに行ってみたい気持ちになった。
もっとも、どこでどんな御方に会うのかくらいは、そのときにきちんと確認するべきだったと後悔した。
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