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十六夜 p8
予約時間から十分が過ぎてもお母さんは現れない。ぼくに会うのを頑なに嫌がっているのだろうか。そう本気で心配し始めたとき、透明な板の向こうのドアが開いた。
お母さんが立会いの刑務官と共に現れる。
お母さんは灰色の収監服を着ていた。
自慢げによくいじっていた、長く綺麗な髪は短くカットされ、化粧もなくほっそりしているから、まるで男装の麗人か少年みたいに見える。一瞬別人に思えたけれど顔は変わらない。以前と同じだ。痩せても太ってもいない。しみ一つない透き通るような白い頬には、微かに赤みさえさしていた。
ぼくの正面に座り、すっとまなざしがあげられ、目と目が合う。
(ああ――)
溜め息が出た。
冷たい目。
まるで氷の女王のような色褪せたまなざし。
感情のかけらも感じさせない、仮面のような表情。
悟さんが言っていたとおりだ。見た目はぼくと瓜二つ。ぼくは彼女の生き写しだ。
まるでドッペルゲンガー。
光と闇。光と影。実存と精霊。
彼女によりぼくは生を受け、彼女によりぼくは闇を背負い、日陰者として生きるようになった。
「お母さん」
それでも、抑えきれない慕情に彼女を呼んだ。体に力が入らず、声が擦れた。
「なにしに来たの」
まもなく抑揚のない声が返ってくる。
しばらくぶりに聞くお母さんの声だった。
耳に入ってきた声はすいぶん前の、彼女がここに入監する直前に聞いた響きと同じだった。あのときのやるせない思いが脳裏に甦って、胸が苦しくなった。
まずい。この感覚は過呼吸の発作の前に似ている。けれどせめて、この部屋を出るまでは発作を起こしたくない。祈る気持ちで心を落ち着かせた。
彼女の表情がわずかに崩れ、軽い蔑みの色を浮かべた。
「あれほど来るなと言ったのに、どうして来たの。こんなところまで、この暑い最中に」
どこか投げやりに聞こえた。
いつだって冷静なお母さんだったから、ドラマチックに再会を喜ぶ親子などには絶対にならないだろうと想像はしていたけれど、こうまで冷たい対応をされると悲しくなる。
ぴりりとこちらの心臓を刺すようなその視線を受け止めきれずに、ぼくは目を膝におとした。
「どうしてって…会いたかったからだよ」
長い沈黙が過ぎた。
「児童相談所の弁護士が来て、あんたがどっかの家の里子になったって、聞いたけど」
ぼくはこくりと頷いた。
「どんな家なの。うまく過ごせてるわけ?」
弁護士はぼくとタカハシとの関係をどこまでお母さんに伝えているのだろう。そして悟さんについても、お母さんの耳にいくらか入っているのだろうか?
いずれもお母さんの表情からはまったく読み取れない。
少なくとも、いくら親子でも個人的な事柄である恋愛に関してまでは話されていないだろうと判断して、タカハシについては触れないことにした。悟さんについても、お母さんから切り出されない限りはぼくから話すべきではないだろう。
それでも、お母さんの質問にはぼくへの関心がいくらか含まれていたから、それだけで嬉しかった。
「うまくやれてるよ。とてもいい人たちの中で暮らしているんだよ。だからぼく、すごく幸せなんだ、いま」
「ふうん」
そして再び会話が途切れた。
「すごく幸せ、か」
やがて繋げられた台詞に、視線をあげて彼女の顔色を覗った。
お母さんのいない状態を「すごく幸せ」なんて言葉にすべきではなかったのかもしれない。そう後悔した。
「お母さんはどう? ここでの生活、たいへん?」
ひどい愚問だと自分で理解しながら、それでもなにかを切りださずにはいられず、口を滑らせてしまった。軽い嘲笑を返される。
「たいへんもなにも、ねえ…」
横の壁をぼんやりと見つめる。
たいへんに違いないのにこんな質問をするなんて馬鹿だった。ぼくは悔やむ思いで俯いた。
「こういうときって、来てくれてありがとうって言うべきなのかな、佳樹」
突然、思いがけない言葉が投げかけられて、ぼくの瞼が跳ねあがった。
「でも、こんな姿をあんたに晒したくなかったな」
これもまた、さして感情的に言われたわけではなかったけれど、ぼくには、これがお母さんの心からの本音だと理解できた。
感情的でないことが逆に、まるで彼女の心がすっかり傷んでしまっているみたいで、いっそう悲しい。
「綺麗だよ、お母さん。どんな格好をしていても、どこにいても、お母さんは、綺麗だよ」
涙が浮かんで、それ以上の言葉に詰まる。それで呆れ声をかけられてしまう。
「また泣く。本当に泣き虫だね、佳樹は。男の子なんだから、もっと強くなりなさいよ」
ああ…、と、頷いた。
幼いころからよく言われた言葉だ。あのころと同じ弱虫のぼくを、あのころを変わらない調子で窘めてくれた。ぼくは、ごくっと唾を飲んで一生懸命に声にした。
「次に来るときは、泣かないよ。もっと強くなって来る。でも、いまだけは泣かせて。会えて嬉しいんだもの。これだけは覚えておいてよ? ぼく、お母さんを待ってる。何年でも待っているよ。ぼくは、あなたを恨んでも憎んでもいない。あなたを完全に許しているよ。だから元気で帰ってきて。それで、また時々は、こうやって会いに来させてよ」
いつのまにか激しくしゃくりあげていた。
ここでもまた、彼女はしばらくのあいだ口を閉ざす。やがてゆっくりと言葉を発した。
「分かったから――」
分かった、という返事を耳にして、ほうっと安堵の溜め息が洩れる。また会いに来れる許しを貰えたのだ。
「だからもう、そんなに泣きじゃくるんじゃないわよ」
素っ気無い。
だけれど、微笑んだ…ような気がした。
ぼたぼたと涙を流しながら、ぼくもまた微笑み返す。
彼女が漣 立った視線で静かにぼくを見つめていた。
(繋がった)
そう思った。
繋がり。
ようやく取り戻した、ぼくの血の。
そして心のわだかまりの破片が一つ、ほどけてゆく。血を流す傷口を一つ塞ぐように。穏やかに。
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