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光の雫 p11

 バイトのあとは駅の改札口前を通って帰宅する。  その改札口の斜め前の本屋で宗太と待ち合わせをしていた。宗太は大学の講義のあとで回転寿司屋のバイトがあったけれど、映画のために休みをとってくれたのだった。  宗太とのデートだと思うと、はやる気持ちで気もそぞろになる。  本屋での待ち合わせの場合、宗太はたいてい入り口近くで雑誌を見ていることが多いから、そろそろその姿が目に入ってくるのではと考えながら歩いていた。だからぼくがまわりにたいして注意不足だったのは否めない。  不意に誰かからどすんと体当たりをくらったときは、しまったと思った。  当たったおでこが痛むほど、したたかにぶつかったのだ。  ちょうどラッシュアワーにさしかかっていて通行人で込みあっているなか、そりゃ確かに少しばかり前方不注意だったけれど、でもなにもこう正面からまともにあたってくることないだろうと、そんな批判的な考えが頭を巡ったのも一瞬のことだったと思う。 「…っ、すみませ…っ」  反射的に謝罪の言葉を唇にのせて、相手の顔を見あげた。そう…ずいぶんと背の高い、痩せた男だった――――。 (あれ――――?)  相手を見あげた姿勢のまま、ぼくは固まった。  男はぼくに視線を下ろし、しっかりと見すえている。  鋭い眼光に貫かれ、刹那、ぐじりと胸が抉られたようだった。  全神経、そして心臓までもが凍てつく。  それは悟さんだった。  髪型や服装は以前とまったく感じが違うけれど、そして、ぼくの彼の記憶はだいぶ薄れてきつつあるものの、その顔は二年近く前に別れた彼のものとそっくりだった。  男はふいっと顔を背けて、改札へと入っていく。 「…あ」  吐息が声になって漏れても、まだ脚はわずかも動かない。 (いまの、本当に悟さんだった?)  混乱する頭の中で、慌ただしく自問を繰り返した。人違いであってくれと願った。そう願えば願うほど、いま見たものは幻だったのではないかと思われてくる。不意打ちのように正面からぶつかってしまって、視覚が異常をきたしただけなのではないかと――――。  だってもし彼が悟さんだったとしたら、一言くらい言葉をかけられもよさそうじゃないか。ぼくはこの二年、さして背が高くなったわけでも顔つきが変わったわけでもない。悟さんだったら、一目でぼくだと気付くだろう。  睨まれたのは悟さんからのぼくへの憎悪の証しにも感じられたけれど、よく考えれば前方不注意でぶつかってきた相手への憤怒だけだったのかもしれない。 「佳樹?」  どれくらいそうして立ちつくしていたのか。  男が消えた改札を呆然と見つめているぼくに、背後から温かな手をそっと肩に乗せて、宗太が顔を覗き込んでくる。 「どうした?」  低くて心地いい声が、ぼくの鼓膜を穏やかに震わせる。 「……」  茫然としたまま彼の顔を見上げた。 「震えているな。大丈夫か」  怪訝そうにそう言われるまで、ぼくは自分がかたかたと小刻みに全身を震わせているのにも気付かなかった。すると急に恐ろしい予兆がして、ぼくは唐突に宗太の腕にしがみついた。ぼくが悟さんに似た男にぶつかったことで、まるで宗太までが怖い目に遭ってしまうのじゃないかと不安に襲われたのだ。 「どうした。なにかあったのか」  宗太が面食らった声を出す。 「…ごめん。なんでもない」  しかしいまは人目もあることだし、そもそもあれが悟さんだとはっきりしているわけでもない。宗太に余計な心配をかけてはならないと自重して、ぼくは宗太から離れた。 「大丈夫。ちょっと見間違いしただけ」 「見間違い?」 「ん。――大丈夫」  そうだ。見間違いに違いない。  だって宗太の家の最寄り駅であるここは、悟さんのマンションとは路線が違う。  ましてぼくは保護された身なのだから、悟さんがぼくの居所をこうもピンポイントで知りうるはずがないのだ。確かにさっきのは、「俺に気付け」と言わんばかりの突進と、当たりようではあったけれど…。 「顔色が悪いな。今日はやめておくか」  確かに、もしこれから乗る電車でまたあの男に会ってしまったら。  そこであらためて見た顔が、もし、悟さんだったとしたら?  …それは、あまりに怖ろしい。 (でも見間違いだ、絶対)  時間が経てば経つにつれ、そう思えてきてしかたがなかった。  死人が夢に出てくるようなものだ。たまには思い出せと、自分が自分に見せる幻影と同じ。 「平気。観に行きたいよ、ぼく。ずっと二人で楽しみにしてたじゃない?」  気を取り直し、わきおこる不安をむりやり払拭して笑顔をふりかけた。宗太も心なしかほっとしたような顔になって「ああ」と頷く。  混雑した電車に乗り、初夏の空気を含んだ都会の喧騒の中を宗太と歩けば、青天の霹靂だったさっきの恐怖など霞んで感じられて、やはりあれは自分の勘違いだったのだとの確信が深まる。もしくは他人の空似だ。  それならそれでいい。  そうであるにこしたことはない。  ただそれは。ぼくが「そう思いたい」にすぎなかっただけなんだけれども。  ぼくはそんな不穏な胸騒ぎに、恐怖のあまり蓋をしていただけなんだけれども――――。

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